先月18日に福島第一原発事故に関して、業務上過失致死傷の罪で強制的に起訴されていた東京電力の旧経営陣3人に対して無罪判決を言い渡した。「巨大津波の襲来を予測することはできず、事故を回避するために原発の運転を停止するほどの義務があったとはいえない」とというのが東京高裁の判断である。
裁判の争点は、先ず第一に「原発事故を引き起こすような巨大な津波を予測できたかどうか」という予見可能性と、第二点として「予測が可能だったとして有効な対策をとれば事故を避けられたか」という結果回避可能性である。これら判断する重要なポイントが、地震調査委員会によって2002年に公表された「長期評価」の信頼性である。 それによれば、福島県沖を含む広い範囲で巨大な津波を伴うマグニチュード8クラスの大地震が、30年以内に20%程度の確率で発生するという見解が示されていた。 そして東京電力内部ではこの「長期評価」をもとに、最大で15.7メートルの高さの津波が襲うという結果を出していた。以上の点を検察側の指定弁護士は危険性を予測できたとする根拠としていた。
しかし、判決は「『長期評価』の見解をもとに想定される津波の高さを求めることは、不確実性を増幅させるものであり、現実の津波対策に取り入れるべき程度の信頼性のある内容だったとは認めがたい」と指摘し、3人の認識についても「武藤元副社長は部下から『長期評価』の見解には信頼性がないと告げられており、勝俣元会長と武黒元副社長も原発の敷地の高さを超える津波が襲来するという現実的な可能性を認識していなかった」と認定し、「原発の運転を停止しなければならないほどの予見可能性があったとはいえない」と結論づけた。
しかし、判決は「『長期評価』の見解をもとに想定される津波の高さを求めることは、不確実性を増幅させるものであり、現実の津波対策に取り入れるべき程度の信頼性のある内容だったとは認めがたい」と指摘し、3人の認識についても「武藤元副社長は部下から『長期評価』の見解には信頼性がないと告げられており、勝俣元会長と武黒元副社長も原発の敷地の高さを超える津波が襲来するという現実的な可能性を認識していなかった」と認定し、「原発の運転を停止しなければならないほどの予見可能性があったとはいえない」と結論づけた。
被告三人が「現実的な可能性を認識していなかった」というのは本当だろうが、問題は「現実的な可能性」が何を意味するかである。原発の重大事故は万に一つもあってはならない。政府も電力会社も「日本の原発は絶対安全」と言い続けてきたのではなかったか? だったら、問題はマグニチュード8クラスの地震が三陸沖で起こる確率が「30年以内に20%」かどうかということではなく、それが起こるか起こらないかということではないのか? 地震調査委員会の出した「長期評価」を東電はその予測に根拠はないと無視した。しかし、仮に「30年以内に20%」が無根拠だとしても、それが「30年以内に起こる確率が0%」ということにはならない。
「長期評価」を出している地震調査委員会についてコトバンクで調べてみたら、文部科学省管轄の地震調査研究推進本部の下部組織で、日本の有数の地震学者を結集した委員会ということらしい。政府が税金を使って日本有数の学者を集めた組織が出した結果を「根拠なし」と結論する、というようなことをどうしたらできるのか? 政府の管轄する組織が世の中の為にならない風評をながしているということなのか? たぶん地震学そのものが不確実であるというのが「根拠なし」の根拠なのだろうが、それは前述した通り「30年以内に重大な地震が起こらない」ことの保証にはならないのである。いったん権威ある組織が「マグニチュード8クラスの大地震が、30年以内に20%」と発表したのなら、原発運用の意志決定に関わる人は、① そのような地震が起こっても原発は大丈夫であることを証明するか、そうであるよう対処しなければならない。それをしないのであれば、② 今後30年間そのような地震は起こらないことを証明しなければならないはずである。なぜなら、さんざん「原発は絶対安全」と言い続けてきたのだから。
①については、東京電力内部でこの「長期評価」をもとに、最大で15.7メートルの高さの津波が襲う可能性があり、それに対する処置が必要であるという報告がされていた。しかしそれに対する処置はなされなかった。だから②を証明する必要がある。ところが、「『長期評価』に確かな根拠はない」という主張を②の証明にすり替えてしまったのである。その気持ちは理解できる。15mの津波が来ても大丈夫な防波堤を築くには多大な費用が掛かる。自分の任期中にはまず来ないだろう大災厄に対して莫大な費用を投じて、企業の利益を棄損したくないと思うのは当然である。なんとか不作為の為の理由を模索し、現在の地震学の不確実性にすがりついたという図が透けて見える。 確かに現在の地震学の精度はあまり高くない。だからと言って、日本の権威ある専門家の研究結果を無視して良いということにはならない。彼らと逆の方から見れば、事実日本の地震学の精度が高くなかったから「30年間で20%」という確率になったとも言える。もし地震学の精度が高ければ限りなく100%に近い確率になったはずである、実際にこの「長期評価」の9年後に実際に東日本大地震は起こったのだから‥。
このような見方は被告に対して厳しすぎるという印象を持つ人がいるかもしれない。おそらく誰が彼らの立場に置かれても同じ行動をとった可能性は高い。誰でもそれまで生きてきた中で一度もあり得なかった災厄が、現実に起こりうるとは想像しにくいものである。しかし、それは彼らの罪を許容する理由にはなり得ない。繰り返すが、彼らは「原発は絶対安全」をさんざん繰り返してきたのだから。原発の重大事故の深刻さを考えれば、自分の一生どころか万年に一度の災厄にも耐えうるものでなくてはならなかったはずである。福島原発のケースにおいても、対応によっては関東地方に人が住めなくなるようなシビアな事態になっていた可能性があったと指摘する専門家もいる。東京電力の経営者と言えば、一流の経済人としての社会的地位、多額の報酬、立派な個室と秘書がつき、出退勤は運転手付きの乗用車である。それだけの高待遇を受ける役員というのはこういう時に責任を取るためにあるのである。
判決の「『長期評価』の見解をもとに想定される津波の高さを求めることは、不確実性を増幅させるものであり」という言葉にも問題がある。趣旨としては、「長期評価」は不確実である上に、津波の高さを求める計算も不確実であれば、「不確実 × 不確実 = 巨大な不確実」となることを言っているのだろうが、原発事故に関しては危険率を最大に見積もっておかなくてはならないのは当然であり、どんな些細な可能性も見逃してはならないのだから、あえて不確実さが増幅されても致し方ないと考えるべきである。裁判所がそのような当然の論理を無視するのからには、そこに政治的判断があると言われても仕方ないだろう。
創造する
Karl E.Weick