1960年から70年代にかけて、日本にカンツォーネブームが興ったことがある。私が中高生の頃、同級生の多くはビートルズやグループ・サウンドに熱を上げていたが、私はジリオラ・チェンクェッティという美貌の女性歌手により惹かれていた。それ以来今に至るまでカンツォーネは大好きである。そのチンクェッティのレパートリーの中に、「アネマ・エ・コーレ」という歌がある。「魂と心」という意味である。アネマ(anema)はラテン語の anima が語源で、アニミズムやアニメーションも語源を同じくする言葉である。
それで、以前から気になっていたのだが、魂と心はどう違うのだろう? どちらも目に見えないものだから、ひとまとめにして「心」とするだけではいけないのだろうか? それで、インターネットで「魂と心 違い」で検索してみた。そうすると、なんと9千万件もヒットした。様々な人がいろいろな見解を述べている。もともと見えないものについて論じている訳なので、その解釈がいろいろ出てくるのも致し方ないことなのだろう。これはAさんの魂と心、これはBさんの魂と心、これはCさんの‥‥、というふうに並べて比較することができれば、魂と心の一般的な概念化は可能だが、それはできない相談である。つまり、魂と心について厳密な定義は存在しないにもかかわらず、われわれは日常的に、「魂と心」を口にして何か言い得たような気になっているのが言葉の不思議さである。
いろんな説があるが大まかに集約すると、感情・理性・知性といった精神活動を「心」と言い、その心をつかさどるものを「魂」と言うのだろう。ある意味で、心というのは他人にも「見える」ものである。あの人は優しいとか冷たいとか、賢いとか、喜んでいるとか‥‥。それに引き換え、魂の方はその様子が全然うかがえない。なら、「心」だけですべて説明できるのではないか? 「魂」という概念は必要ないのではないか?
それが必要である理由があるのである。心だけでは、それが「私の心」であることを説明できないからである。心が外部からうかがえる精神活動であるなら、それはすべて脳を中心とした神経系の働きという即物的なものに還元されてしまうからである。つまり、全く同じ脳を作れば、それらはまったく同じ心だということになってしまうし、人間と同じような高等な精神活動ができるAIは我々と同じような心を持っていると言えることになる。しかしそれだと、地球上には何十億といる人間のうち、なぜ私はよりによってこの私であるのかが説明できない。この世界はこの私の意識から開かれている世界である。この私の唯一性というものは、物質的現象として還元されてしまう心だけでは説明できない。どうしても、ほかならぬ私の「魂」というものがなければ説明できない。
このような考え方の是非は脇に置くとしても、「魂」という概念が生まれてきたのはこう言った事情によることは間違いないと私は考えている。
もし、心だけがあって魂のない人間がいたとしても、外見的な振る舞いからはまったくそのことは分からない。しかし、その人は高度なAIを備えたロボットと変わらない。生気のない、いわゆるゾンビと言われるものであると考えられるのである。理論的に言って、生気のある人間とゾンビは全く区別がつかない。そういうところから、いわゆる独我論(自分以外はすべてゾンビではないかという考え方)に取りつかれる人も出てくる。
ここで述べた「魂」というものは、一般化できない。他者の魂というものは理論的に言って、見ることはできないからである。したがって、このような考え方が間違っているということも正しいということもできないが、個人的には超越的な概念を作り出すような考え方は好きではない。
今、南俊哉氏の「超越と実存」という本を読んでいまして、貴殿の書評も読ませて頂きましたが、いずれ拙ブログでも取り上げたいと思っています。
このタイトルにあることは実に、あらゆる宗教や哲学に通低しているものだなあ、と思わされ、この記事についても然り(i)と感じました。
尚、G.チンクエッティの「魂と心」という曲は知りませんでした。
何にせよいつまでも「夢見る想い」でいたいものです。