先日NHK-BSで放映された「フロンティア 世界は錯覚で出来ている」という番組がとても面白かった。(ちなみに上のタイトル写真は4つの物体を鏡に映した状態の加工無しの実写である。)人間の錯覚やバーチャルリアリティについてのいろんな研究が紹介されていて、あらためて私たちの世界認識というものについて考えさせられる内容だった。特に興味深かったのは体の感覚に対する錯覚で、私たちの体というのは一種の幻想ではないかともいうようなものであった。その一例としてラバーハンド錯覚というものが紹介されていたので、少し説明してみよう。
まず、被験者の目の前の机に造り物の右手が置かれている。被験者は自分の右手をその右側に置く。次に二つの右手のあいだに仕切りを置いて、被験者からは自分の右手を診えないようにする。そうしておいて、実験の主催者は二つの右手の同じ部分を同じように触り刺激する。そうすると被験者は、見えている作り物の右手が自分の右手であると感じるというのだ。それはもちろん錯覚だが、このことから視覚と触覚を一致させようと無意識の内に「自分の体」の位置を推論していることが分かる。私たちは物や自分の体が整然と配置されている「客観的世界」というものを信じているが、あくまでそれは推論によって成り立っていると、この番組を見て再認識させられた。
ずいぶん前になるが、現象学の入門講座で実物そっくりの陶器の「リンゴ」を手に持たされた時のことを思い出した。私たちは、「そこにリンゴがあるから赤くて丸いものが見えている」と思いがちだが、実は逆で「赤くて丸いものが見えているから、そこにリンゴがあると推論している」のである。
エルンスト・マッハは真理と虚偽という絶対的区別は認めず、それに替えて「認識」と「誤謬」という区分を採用した。認識と誤謬は同一の心的源泉から生じるものであって、その両者は結果によってしか区別できないというのである。その結果というのは、われわれが生きていくのに都合よいか否かということだけである。
客観的な整合性をもつ物自体というものがもしあったとしても、カントの云うようにそれは認識できない。客観的世界を自分が認識できていると感じていたとしたら、多分それは幻想だと思う。
まず、被験者の目の前の机に造り物の右手が置かれている。被験者は自分の右手をその右側に置く。次に二つの右手のあいだに仕切りを置いて、被験者からは自分の右手を診えないようにする。そうしておいて、実験の主催者は二つの右手の同じ部分を同じように触り刺激する。そうすると被験者は、見えている作り物の右手が自分の右手であると感じるというのだ。それはもちろん錯覚だが、このことから視覚と触覚を一致させようと無意識の内に「自分の体」の位置を推論していることが分かる。私たちは物や自分の体が整然と配置されている「客観的世界」というものを信じているが、あくまでそれは推論によって成り立っていると、この番組を見て再認識させられた。
ずいぶん前になるが、現象学の入門講座で実物そっくりの陶器の「リンゴ」を手に持たされた時のことを思い出した。私たちは、「そこにリンゴがあるから赤くて丸いものが見えている」と思いがちだが、実は逆で「赤くて丸いものが見えているから、そこにリンゴがあると推論している」のである。
エルンスト・マッハは真理と虚偽という絶対的区別は認めず、それに替えて「認識」と「誤謬」という区分を採用した。認識と誤謬は同一の心的源泉から生じるものであって、その両者は結果によってしか区別できないというのである。その結果というのは、われわれが生きていくのに都合よいか否かということだけである。
客観的な整合性をもつ物自体というものがもしあったとしても、カントの云うようにそれは認識できない。客観的世界を自分が認識できていると感じていたとしたら、多分それは幻想だと思う。