禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

イリヤ(ある)

2019-05-30 05:27:25 | 哲学
内田樹先生の「レヴィナスと愛の現象学」という本を読んでいると、とても気になる文章に出くわした。

【 あらゆるものが、存在者も人間も、ことごとくが無に帰した、と想像してみよう。私たちはそのとき端的な無に遭遇することになるのであろうか。あらゆるものが想像的に破壊しつくされた後に残るなにものか、それは何かではなく、「イリヤ(ある)」という事実なのである。あらゆるものの不在は現前のように立ち戻ってくる。ちょうどそこが抜けてすべてのものがすべり落ちてしまった場所のように。大気の密度のように。空虚の充溢のように、あるいは沈黙のつぶやきのように、(‥‥)存在するという事実が、もはや何ものでもないとき、そこに迫りだしてくるのである。そして、それには名前がない。】

まるで禅問答である。「ことごとくが無に帰した、と想像」することなどできない。言葉では言えるが、それを具体的に想像することなどできない。「空虚の充溢とか、あるいは沈黙のつぶやき」と矛盾そのものを突き付けてくるのは、禅門における公案そのものである。

何もない所に立ち上がってくるという、「イリヤ(ある)」は、むきだしの「ある」つまり純粋の有である。それはこの世界の根拠、わたくしが私であることの根拠であると言っても良い。趙州和尚ならおそらく「無(ない)」と答えていたかもしれない。ヘーゲルも、「純粋の有と純粋の無は同じである。(大論理学)」と言っている。「イリヤ(ある)」と禅仏教における「無」は通底している。

「存在するという事実が、もはや何ものでもないとき、そこに迫りだしてくるのである。そして、それには名前がない。」 名前がないものを私たちは呼ぶことはできない。本当はみだりに呼んではならないのだろう。レヴィナスは、名指さないことをあえて言葉で説明するという曲芸をやっていると、内田先生は言う。「分かったつもり」になってはいけないとも言う。私たちが「分からない」せいで誤読する可能性よりも、「分かったつもりになった」せいで誤読する可能性のほうが高いのだそうである。うーん。ますます禅臭い。

本当は概念ではないものを概念のように仕立て上げようとしている。レヴィナスの難しさはそういうところにあるのだろう。おそらくそれは明晰には語れない。喉元まで出かかっているが発語できない、そんなもどかしさはおそらくどこまで言っても解消されことはない。それを「哲学」と言っても良いのかどうかという疑問もあるが、もしかしたらそれこそ哲学ではないかという見方もあるかもしれない。

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