禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

梵我論と無我論

2020-04-11 10:08:19 | 哲学
 梵我論の「梵」は「ブラフマン」のことで、宇宙を支配する原理を意味する。無我論の「我」は「アートマン」のことで、私という一個人の個体原理の意味である。梵我論というのは梵我一如すなわち、この宇宙と私自身が同じものであるという思想である。インドのウパニシャドの中心思想で、仏教の源流であるとも考えらている。一方の無我論は仏教の中心思想で、「自我というものは本当は無い。究極の主体は『無』である。」という考えである。
 前者は大宇宙と私が一体になることを目指す、いわゆる神秘思想に近い。仏教の中でも真言密教は大日如来という絶対者と修行者が合一を目指すという意味で梵我論に近い立場をとっている。そのことを指して、禅の立場から秋月龍珉氏が「空海の思想は釈迦の縁起、無我思想にまだ近かったが、以後の真言宗の思想家はみな梵我一如思想に接近してしまった。」と批判した。 「諸法無我という仏教の原理に照らして、 梵我論より無我論が正しい。」という趣旨なのだろう。秋月龍珉氏は在家の身でありながら、二人の師家から印可状をもらったという、文字通りの禅の達人である。
 秋月居士のような高い境地に達した方の言われることはそれなりに意義のあることであるはずとは思うのだが、哲学的見地から述べると、「つきつめていけば、梵我論と無我論は必ず同じものになる」はずである。その証明は簡単である。「我」という言葉がなにを意味するかということが問題になっているわけであるが、言語哲学的には「我」という言葉は我と我以外を区別する役割しか持たない。なので、すべてが我であるとする梵我論においては「我」の意味は剥落してしまうのである。もし、梵我一如の境地になにった場合、その時は、かつてなにを「我」と表現していたのかが分からなくなっているはずである。すなわち梵我即無我である。
 秋月居士はおそらく、密教の呪術的な神秘性というか妖しさを批判していたのではないかと、私は想像している。なので、途中の経過はともかく、梵我一如の境地が完全に達成された時、それはそのまま無我の境地ではないかと思う。
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