禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「今」でないときはない

2019-06-05 05:03:06 | 哲学
禅においては時間というものは無い、ということになっている。いつでも「今」だからである。虚心坦懐に見れば、流れている時間というものはどこにもない。流れているのは目の前の川であって、私達が決して時間というものが流れているのを目にすることはない。

この世界ではあらゆるものが動いている。しかし、時間というものが動いている事実はどこにもない。私たちは時計の動きを時間の動きだと勘違いしているのである。否、時計の動きそのものを時間と呼んでいるだけのことである。

なぜかこの世界では、全く関係のないプロセスが時計の動きに同期するという事実がある。オリンピックの100m走ではほとんどの選手が10秒前後で走る。たまに、5秒で走ったりする選手はいない。20秒かかったりしたら、それはたぶん怪我でもしたのだろう。A選手が走ることとB選手が走る事とは何の関係もないことだと考えられるのにほぼ同じ時間で走り終えるのである。地球の自転速度は1回転/1日だし、1年は365日である。つまり、人の動きも天体の動きも時計の動きも、本来別々のことがらであるのになぜかお互い呼応しあっている。

明らかに、この世界のあらゆるプロセスが統一的な秩序に支配されているということになる。ここに「時間」という概念の成立する根拠がある。だとすれば、時間とはその秩序のことである。つまり、この世界には時間という秩序に支配された様々なプロセスがあるだけで、「流れる時間」というようなものは存在しないのである。

ところがなぜか、私達はなぜか現在が過去になり未来が現在になると考えがちである。永遠の過去から永遠の未来への時間軸の上を「今」という一点が移動しているというイメージで時間を思い描く。しかし、これはおかしいのである。誰も未来が「今」になる、あるいは「今」が過去になる瞬間を見たことなどないはずだからである。なぜなら、いつでも「今」であって、我々は「今」以外のものに遭遇したことなどないからである。

過去は記憶または記録の中にしか存在しない。未来は想像または計画の中にしか存在しない。記憶や想像というのも想起するのは常に「今」である。過去や未来は記録や計画という言葉の中にしか存在しない。しかし、それらは「今」という場がないと蘇らないのである。すべては「今」を媒介としなければ現実とならない。つまり、いつでも「今」である。「今」でないものは無いということになれば、おそらく「今」というのも存在者ではありえない。突き詰めていけば、それも「無」であるということになるだろう。

( この写真は本文とは関係ありません。 )

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