禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

百尺竿頭進一歩 (無門関第四十六則)

2015-10-01 23:46:33 | 哲学

今日ニュースを見ていたら防衛装備庁発足に関連して、中谷防衛大臣が訓示かなにかで「百尺竿頭進一歩」と書かれた色紙を掲げていた。禅の公案を使うというのは衒学趣味としてもあまりスジがよくない気がする。なんとなく見ていて気恥ずかしいものがある。

この公案は、百尺の竿の先からさらに一歩進めという意味である。それで世間一般には、さらに一層の奮励努力しなさいというような意味でつかわれているようだ。

禅の悟りは一度すればよいというものではなく、悟後の修行を積んでさらに高みを目指さなければならない。ところが悟りはそれぞれがそれなりに完全性を帯びているため、万能感に陥りやすい。その境地が最高の高みであるかのような独断に陥ることもままある。それでこの公案では、その最高の高みからさらに一歩進めと命じるのである。

百尺の竿の先に立てば、もうそこからは一歩も進めない。進めないはずのものを進めという、無茶ぶりだが不可能を可能にせよというのが公案である。

百尺の竿の先から一歩進めば落ちて死ぬ。公案はたとえ話ではない。本当のこととして取り組まねばならない。早い話が、死ねと要求している。本当に死を覚悟しなければならない。死中に活を見出せというのがこの公案の主旨である。

うろたえながら意味不明な答弁を繰り返しているような大臣の手におえるような言葉ではない。

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