最近の脳科学では、私たちの意識は実際よりも0.5秒遅れているというのが定説になっているらしい。つまり、お茶を口に入れて「あちっ」と感じた出来事は、0.5秒前に起こったことだというのである。
0.5秒というのはかなり長い時間である。空手の試合で、相手の突きを0.5秒も待っていれば確実に入れられてしまう。脳科学者の言うには、相手の突きの気配を感じてとっさにかわす、そのような自分の働きも0.5秒前に済んでいて、あとから自分は意識するのだという。
彼女と二人きりになってロマンチックなムードになった、彼女がぼくの方を向いて目を閉じたので、ぼくは彼女にキスをした。このようなシーンもすべて0.5秒遅れで繰り広げられているという。すると、ぼくが彼女にキスをしようと意思決定した(と見える)ときにはすでにキスしていたことになる。
感覚も意思決定も0.5秒遅れで意識に登ってくるとなると何が問題になってくるかというと、自分は彼女にキスしたくなってしたはずなのに、無意識下でぼくの物質としての脳がすでにキスすることを決定してしまっていたことになる。つまりぼくは自由に意思決定したのではなく、キスすることは脳内の科学的作用により機械論的に決定されたということになる。意識の中の自由は見せかけの自由であるということになる。
禅的視点から見た場合は以上で述べたようなことが問題になることはない。禅者にとっては直接感じている世界こそが真実の世界である。それに対して、科学者の世界はいろいろな観察を通じて、それらを整合的に説明できる推論から成る架空のモデルに過ぎない。つまり、実存的世界観が科学的世界観に優先するのであって、この実存的世界観の中では立つも座るも自由であることは間違いないことである。それを科学者がどのように説明しようともそれは科学者の自由である。
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