禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教者は集団的自衛権を支持してはならないのではないか?

2014-07-06 11:20:41 | いちゃもん

政治向きのことはあまり言いたくはないのだが、この件についてはどうしても黙っておれなくなった。
今回の解釈改憲に関する決定に基づいて、関連法案の法制化は必至の情勢であるが、このことの意義は改憲派・護憲派いかんにかかわらず、すべての方々がわきまえておくべきことであると思う。 

  日本はすでに、立憲主義でも民主主義でもない。

ということだ。

憲法9条は明確に戦争放棄を謳っているのであって、本来は個別的自衛権さえも明らかな憲法違反である。過去の自民党政権は現実的脅威に対する処置の名のもとに、何とか屁理屈をつけて警察力の延長としての自衛隊を増強してきた。しかし、まだその屁理屈のなかに一応憲法への畏敬の念からくる苦悩が感じられた。だが今回の解釈改憲にはそのような遠慮が感じられない、九条は空文化してしまうだろう。政権が日本を守るための「必要最低限」の処置と判断すれば、自衛隊は地球の裏側へ行って戦うこともできるのだ。権力者をしばる憲法が機能しないのなら、もはや日本は立憲主義国ではない。

なんでも多数決を取れば民主主義にかなっていると考える人々がいるようだが、そうではない。できる限り個人の声に耳を傾け、より広範な合意形成をするための努力をする姿勢がなければ、それは民主主義ではない。
間違って勝ちすぎた選挙によって獲得した議席数を背景に、世論の半分が反対している集団的自衛権を一挙に法制化しようというのは民主主義とは言わない。民主主義とは国民が主権者であるということであって、一部の権力者が自分の思い通りに国を動かすということではない。

なぜそんなに急ぐのか? 日本の安全保障に対する脅威がそれほど切迫しているというのか?

それほど差し迫った軍事的脅威があるというのなら、なぜ原子力発電所を撤廃しようとしない。人口の密集した国に原発をいくつも抱えたまま戦争ができるという考えにリアリティはない。言っていることのことごとくにリアリティが感じられない。戦争ができる法整備をそれほど急がねばならない、もしそんな状況であるならば、もっと切迫感を持って外交努力をするべきだろう。
戦争を避けるためにはどんな努力も惜しむべきではない。あえて屈辱外交の汚名を甘んじて受けるぐらいの覚悟をすべきだと思う。いたずらに威勢のいいことを言って他国を刺激するというようなことを避けるべきなのは言うまでもない。

憲法第9条は決して非現実的でもなければ、押し付けられた恥ずべきものでもない。同胞300万の尊い犠牲と引き換えに得た日本の宝というべきものである。日本人はかつて戦争の悲惨さを完膚なきまでに味わった。いったん戦闘行為に入れば正義などそこにはあり得ないということを身をもって知ったのである。「もう過ちは二度と繰り返しません」という決意が昭和20年代の日本には確かにあったのだ。そこには国民国家のくびきを脱して新たな市民社会を目指すという理念があったはずなのである。
そのような理念をここで翻すというのなら、それはそれで「憲法改正」という新たな決意表明が必要であろう。決して、閣議決定などという小手先の手続きで済ませられるべき筋合いのものではない。

あるお坊さんがブログで、「素直に日本は戦争する権利を自ら認め、外交上の問題を解決していくための選択肢を増やしていくべきだと考えています。‥(中略)‥宗教者のくせに、戦争に賛成するのか?とかいわれそうですが、政教分離なので、一応…」 と述べていた。

政教分離というのは、宗教団体の組織に関する話である。個人においては、その宗教的信条は当然政治的態度決定にもかかわってくる。むしろかかわってこないのはおかしいのである。

仏教では「一切皆空」ということがよく言われる。それは、「固定的な日本という国は存在しない」というような思想である。もちろん、「固定的な中国」や「固定的なアメリカ」も存在しない。それはつまり、人々を日本人であるとか中国人であるとかいうレッテルで差別しないということなのだ。これこそ仏教の根本中の根本原理で最も重要な視点である。

必然的に真の仏教者であるならば戦争には絶対賛成できないことになる。たとえば中国と戦争をするということは、「日本人を守るためならば、中国人を殺すことはやむを得ない」ということに他ならない。レッテルによって人の命に優先度をつけることは仏教徒にはできないはずなのである。

日頃、「色即是空」だとか「本来無一物」だとか高踏的なことを言っている同じ口で、「素直に日本は戦争する権利を自ら認め、‥」などと生臭いことを平然と言えるのには著しい違和感を感じる。

人はとかく国家や民族の意思といったものが存在するかのように錯覚する。共同幻想とはよく言ったものである。一口に日本人といってもいろいろあるのだ。その中には、たとえ自分は殺されるとしても他人を殺す側にはなりたくないと考える人もいる。しかし、そういう人々もひとたび国家が戦争をすることになれば、自動的に「殺す側」に組み入れられてしまう。交戦権を持つということはそういう不合理を人々に強いるのである。

もう少し現実的な話をしてみよう。日本が集団的自衛権を結ぼうとしている当の親密な国である米国は、ベトナムやイラクやアフガンで何をしてきたかを思い起こしてみよう。

安倍首相は、軍事的専門家が非現実なケースと評価する奇妙なパネルを持ち出して、日本が米艦船を守る必要性を訴えた。しかし、世界最強の米艦船が他国の先制攻撃を受けたことはない。むしろトンキン湾事件のように実は米国からの挑発であったというような実績がある。のこのこと米国からの要請を受け入れたりすれば、大義なき戦いに引きずり込まれる可能性が多分にある。ベトナムでは結局、大勢の人々を殺戮しただけで、何の成果もなく撤退した。集団的自衛権により米国に従ってベトナムに出陣した韓国軍は、当時の非道な行為を今も非難されている。同じ轍を日本が踏まないという保証はあるのだろうか。

イラク戦争ではフセインを倒し、一応戦争には勝利した。しかし、大量破壊兵器は見つからず、大義なき戦いであったことが戦後に発覚してしまった。米兵4500人と(少なくとも)6万人のイラク人の犠牲の上に獲得したものは、より大きな内乱状態を招いただけで、結局手に負えなくなって逃げ出してしまった。アフガンからも同じような状況のまま撤退しようとしている。

第2次世界大戦後のアメリカの世界戦略を顧みれば、結果的に軍産複合体に引きずられた跡がまざまざと見える。結局は、アイゼンハウアーが大統領辞任時に警告した通りになっている。

自分の祖国が正義の国であると信じていたいのであれば、集団的自衛権に関してはよくよく考えてみる必要がある。


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