映画の中で高い山に登った時に、頂上でカメラをぐるっと回転させる。そんなシーンを想像していただきたい。当然、スクリーン上の景色はぐるっと大きく移動する。しかし、自分が実際に山頂に立ち、その景色をぐせるっと見回しても景色は動かない。視界の画像は映画のスクリーンと同じように変化しているにもかかわらず、景色そのものはそのまま静止しているように感じる。
この時第三者が私の網膜に映った画像を見つめていたとすると、それは映画のスクリーンのようにぐるっと動いていたはずである。しかし、見ている本人の私には、その画像が動いているようには感じない。これは、眼球や首を動かす時に遠心性コピーという信号が発生して、感覚器官に入力されているからだそうだ。(参照=>「遠心性コピー-脳科学辞典」)
視神経に与えられる刺激がダイナミックに変化していても、遠心性コピーによる調整によって、静止しているものは静止しているように認識できる。この調整機能がなければ、私たちにとって客観的な物理的世界を構成するのはむずかしいことであっただろう。遠心性コピーは物理空間の中で私を相対化するための情報であり。調整のための情報処理を自動的に行う機能を生来的に持ち合わせているのである。この動的視界の相対化ともいうべき機能は進化によってもたらされた素晴らしい機能である。
そこで私は思うのだが、思想にも遠心性コピーが自動的に働くようであれば、人間はどれほど素晴らしいものになったであろう。残念ながら、人間は思い込みに支配されやすい。結果、いたるところで信念対立が発生するのである。
遠心性コピーは自分の思想からは発生はしない、やはり意識して情報収集する必要がある。そして、その情報処理は自動的にではなく、理性的に行う必要がある。
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