デイヴィドソンという哲学者が、次のようなことを述べている。
「真理は、我々が持つもっとも明瞭で基本的な概念であるから、より単純で基本的な何かに代替してこれを除去しようと夢見るのは非生産的なことである。」(「デイヴィッドソン」森本浩一著 P.25)
一瞬なんのこっちゃろうと思ったが、よくよく考えてみればまさにその通りだと思った。『真理とは何か?』というのは一見哲学的な大命題のように思えるが、それに先行して、真理というものがいかなるものかが分かっていないと、それを問うことができない。空港に人を迎えに行く場合に、あらかじめ誰を迎えに行くか知らないで行く人はいないのと同じである。
「『雪が白い』が真であるのは雪が白い場合その場合に限る。」ということが了解しあえるのもの同士でなければ、議論する意義がないということは理解できる。「真である」ということが説明なしで分かるということが、コミュニケーションの前提となっている。
即ち、
我思う故の、思いが成立する我、という場所がある場合に限る。
ここで述べていることは全然別のことです。
それと、
>我思う故の、思いが成立する我、という場所がある場合に限る。
「場所」が有ったり無かったりするのですか?
「モナドロジー 他二編」ライプニッツ著 谷川多佳子・岡部英男訳の
「理性に基づく自然と恩寵の原理」での
≪…神は無限である…幸福は完全な享楽〔享受〕のなかには決してないであろうし、またそうなってはならない。…精神は愚鈍になってしまう。そうではなく、…幸福は新たな喜びと新たな完全性へと永遠に続く前進の内にある。≫ とある。
《…永遠に続く前進の内にある…》を『身体がする数学』のライプニッツの《モナド》に求めるとすれば、『自然比矩形』での『6つの《ちゃん》(精霊)』の[縁起]に≪…真理というものがいかなるものか…≫を、知る手掛かりになりそうだ。
『 こんなことをいちゃなにをいっているかわからない・・・そのものが[数学]であり―≪…「<自明>なもの(こと)など、もはや存在しない!!」≫ということを自ら組み立てている道具そのものであるとの― [梵我一如]・・・』で、
[わけのわからないモノ]を[わけのわかるモノ]に
[わけのわかるモノ]を[わけのわからないモノ]にする
[コスモス]と[カオス]を行き来できることを
《モナド》(『自然比矩形』)に委ねたい。
《ラマヌジャンの見つけたクールな式の「何かの機会に使う式」》は、《モナド》(『自然比矩形』)が[時間]と[空間]を[表象]する十進法の基での桁表示の【数そのモノ】の⦅真理》を[カオス表示]と[コスモス表示]の[結合(=)]で呈示している。
特に、[数学概念](用語)の[濃度]を掴み・掴まされている。