「個人あって経験あるにあらず,経験あって個人あるのである 。」というのは、「善の研究」における西田幾多郎の一節である。倉田百三はこの言葉に感涙したという。ここで言う「経験」は、日常的な意味の経験よりもっと広義で、感官すなわち眼耳鼻舌身意に触れるものすべてを指す。眼に見える山や川や机、テレビから聞こえてくる音曲、キーボードの感触、コーヒーの匂い、カレーライスの味、そしてあなたが思い描く想像まで、つまり、色声香味触法の全てを「経験」と言っているのである。
普通は、個人が経験をするものだと考えられるが、西田は先ず経験があるというのである。このことは、自分が生まれたての赤ん坊である、と想定した方が分かりやすいかも知れない。窮屈な産道を通り抜けると、いきなり明るい光の中にひっぱりだされる。そこにあなたという個人はまだないはずだ。ひんやりした空気と周りの大人たちの喧騒、ただただ訳の分からない不安の中でギャーギャー泣いている実感だけがあるだけである。
禅僧は山を見れば自分が山になるという、川のせせらぎを聞けば自分がそのせせらぎの音になるという。これはいわゆる主客未分ということを表現している。自分という主体が山を見ているのではない、ただそこに山の「見え」という経験があると言っているのである。前回記事における「思考し表象する主体なるものは存在しない。 」というウィトゲンシュタインの言葉と同じ趣旨である。そういう風に考えると、「個人」というのは経験の中から想念の中で構成される仮説にすぎないということになるのである。
これはまた道元禅師の正法眼蔵に通じることでもある。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。
ここにある「自己」を「個人」に、「万法」を「経験」と読めば、西田幾多郎、ウィトゲンシュタイン、道元が同じ趣旨のことを述べているのがわかる。
(次回記事につづく)