西田哲学や禅仏教において「主客未分」ということがよく言われる。それで世間には、精神状態が主客未分と主客分離の二つの状態があるというように考えられています。つまり、坐禅中のように精神が統一されている状態が主客未分で、雑多なことを考えているのが主客分離のように受け止められているのではないでしょうか。おそらく、坐禅を実践されている方々の中にもそのように考えている方がおられるはずです。
一般には、向こうに見えている木や山が「客」で、それを見ている自分が「主」であると考えられています。しかし、ここで注意しなくてはいけないのは、どうしてそれを見ているのが自分であると分かるのか、ということです。木も山も確かに見えているが自分は見えていないのにです。デカルトなら、「自分は見えていない」と考える自分がある、というかもしれません。
しかし、仏教においては「『自分は見えていない』と考える」ことそのものも「客」なのです、眼耳鼻舌身意によって感覚されるものが色声香味触法です。
このうち「色声香味触」はいわゆる五感で、最後の「法」は心の中に起こる思念のことです。仏教では、この色声香味触法を総称して、(広義の)「色」と呼ぶのです。五感の最初の「色」は視覚によってとらえる狭義の「色」ですが、(広義の)「色」は現前しているすべての現象を意味します。
仏教では、目に見える木や山も、頭の中で考えていることもすべて同じレベルの現象であるととらえます。西田幾多郎は「善の研究」の中で、それを「意識現象」と呼んでいます。
≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫
意識現象というのは物体現象に対する言葉ですから、意識現象が唯一であるということならば、かえってその名は適切ではありません。それで、西田はこの「意識現象」を「純粋経験」言い直しています。
なにを言いたいかというと、デカルトが「『自分は見えていない』と考える自分がある」と言ったとしても、実は「『自分は見えていない』と考える自分がある」という考えがそこにあるだけで、依然として「自分がある」という根拠はどこにもないということです。仏教的視点からとらえれば、「考え」も客体に過ぎないのです。「主」というものはどこにも見出せない。
つまり、「主客分離」というのはあり得ない、あり得るのは主客分離しているという「考え」なのです。見えていないはずの「自分」が見えているという「考え」はいわゆる煩悩ということになりましょうか。しかし、いかに煩悩にまみれようと、ないものを分離することなどできない。「主客分離」ということはないのです。
以上のことは哲学的分析でありますが、そのような観点から六祖恵能大師の言葉を吟味してもよいかと思います。
本来無一物
何れの処にか塵埃を惹かん
昨日(2/8)の夕景
>鏡と鏡が対面し、お互いに映しあうという主客を区別できない
これだと何が何だか分からないような状態にも受け取れます。要は素朴に見つめること、主など無いのだと納得できればよろしいでしょう。
繰り返して申しますが、あなたは禅の実践者ですから、自らそれを体感するというのが筋ではないかと思います。
素朴にものを見れば、そこに山があり木があります。しかし、それを見ている自分はいない。禅者はそれを、「自分が山、自分が木となる。」と表現するのです。山を見ている自分、というのは推論による構成によらなければ認識できないものです。
眼球によって見ているというのも教わらなければ分かりません。
ものを素朴にみるとは、何も知識を持たない赤子の状態で、ものを見るということです。
眼球を動かすと意図せずに視点が散っている。
散るが故に焦点があわない部分も見える。
本人に意識できない行為を本人ではないなにかがやっている。
考えてみれば焦点をあわせたところ以外でも景色は補完されている。
EMDR「眼球運動による脱感作および再処理法」
記憶と眼球運動は連動している説もあるようだ。
エピソード記憶の書き換えは眼球運動が効果的という。
見ることと記憶全く関係なさそうで関係するのが謎だ。
見ると観るどう違うのか。全くわからん。
クリシュナムルティしってる?
彼がいうには観察者observerなき観察observeのみ。
観察者は思考のでっち上げだとかなんだという。
この言葉がずっとひっかかってね。
OSHOがいうには観察するのは科学者のいうような観察主体を想定した行為になるので観照と区別して説明してる。無断リンクすまん。
ttp://oshouraraka0440.hatenablog.com/entry/2015/08/17/121953
なぜ道元禅師は釈尊のヴィパッサナー瞑想、観行を削除しただ座れとしたのか。
おそらくだけど私が観察するという行為になってしまうリスク懸念があったんではと考えるのだが。
思考が思考者をでっち上げるように私が私をみる観察者をでっち上げる構造にあると思うんだけどいまいち正解がわからん。
こうやって考えるほど主客分裂に飲まれる感じもする。
それらが主客がひとつだというのもいわば思考かもしれない。
思考ではないとどうしていえるのか。
眼球は意思らしきものと連動して同期して動く。
これはどう解釈していいかわからない。
当観とは、「万物に証される」、そういう状態であると思います。
正法眼蔵にあるこの当観ってどういうこと?
俺はずっとこの当観ってのがわからない。
解説できますか?
随処作主というが臨済の言葉であるならば、その「主」というのは、赤肉団上の一無位の真人であろうかと思います。一無位というのは、いかなる修飾子もつかない究極の主体性であります。
「御坊哲」と呼ばれて、「はい」と答える、その折り返しとなる究極の無の一点がそれではないかと思います。
>眼は目を見ることが出来ない
主観は主観を認識することができない、まさにそのことを言っています。
更に言うなら、「眼でものを見ている」というのも、後天的な知識であります。「万物に証される」とは、見ている眼も忘れられた状態ではないかと思います。
ありがとうございます。
Senriganさんの眼は目を見ることができない、このことを噛み締めー噛んで締めるーやってみないと分からないですよね。