禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

著作権と表現者の問題

2022-10-25 10:40:02 | 雑感
 音楽教室のレッスンで講師や生徒の楽曲演奏から著作権使用料を徴収するのは不当だという判決が最高裁で下された。ヤマハ音楽教室などの事業者が日本音楽著作権協会(JASRAC)を相手取り訴えていたものである。というのは、JASRACが音楽教室に対し年間受講料収入の2・5%を楽曲使用料として要求していたからである。この訴えに対し、判決は「生徒の演奏については教師から指導を受けて技術向上を図ることが目的で、課題曲を演奏するのはその手段に過ぎない」と指摘し、音楽教室側の言い分を認める結果となった。 

 この問題に違和感を覚えた人は少なくないのではなかろうか。少なくとも私はある種のけち臭さを感じた。先生が生徒に楽器の演奏を教える、その時使用された楽曲の作者はその使用料を本当に欲しいと思っているのか? いやしくも表現者ならばそんなことを考える人は一人もいないと思う。作曲者は一人でも多くの人に自分の曲を演奏してもらいたい、作詞者は一人でも多くの人に自分の歌を歌ってもらいたい、と願っているはずである。かくいう私も一ブロガーとして出来るだけ多くの人に自分の記事を読んでもらいたいと願っている。もし私が大金持ちなら私の記事を読んでいただいた人には、その労に報いるためにこちらの方からお金を払いたいほどである。それが表現者の本能というものだろう。

  芸術家も霞を食っているわけではないので著作権料というものも必要だとは思う。しかし、現実の著作権は余りにも過保護の扱いを受けているような気がする。大体著作権の有効期限が作者の死後70年までというのはどう考えても長すぎる。果して、そこまで著作権を大事にしなければ作者は創作意欲がわいてこないのか? 作曲家は曲を作りたいから作るのであり、小説家は小説を書きたいから書くのである。より多くの人に自分の思想を届けそして認められたい、そう願うのが表現者である。仮に、著作権の期限が自分の生きている間だけに限られていたとしても創作意欲にはなんの関係もないはず。自分の死後著作権は消滅しても作者としても名誉は永遠に残る、それで十分である。

 著作権法というのはあくまで文化の興隆発展のためにあるのであって、それが文化を阻害することがあってはならないと思うのである。音楽教室で教える楽曲は自由に選ばれるべきであって、それが著作権法によって左右されることがあってはならない。より広いすそ野があってこそより大きな文化の高まりがあるのである。いかに傑出した芸術家であっても、作品を全く自分一人で生み出すわけではない。いろんなモチーフが他者から与えられるのである。文化的基盤の中にあってこそその人は作品を生み出すことが出来る。科学的な発明発見にしても同様である。おびただしい基礎的な科学的発見があってこそ新しい発明発見がある。その途中のどれが欠けても今日の発明発見にはつながらない。いろんなものの因縁がある一人の人に結集して初めて、一つの作品、一つの発明となるのである。

 音楽教室の選曲は全く自由であるべきである。そして、その事を望まない作曲家は一人もいないと私は思う。

 
称名寺の池で陽光が星のようにきらめいていた。 たまたま光の角度とさざ波の大きさでこのように写った。因縁である。私の創意工夫ではない。

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