禅的ものの見方はプラグマティックである、とはよく言われることである。では、プラグマティックな視点というのはどのようなものだろうか。ウィリアム・ジェームスによれば、「最初のもの、原理、「範疇」、仮想的必然性から顔をそむけて、最後のもの、結実、帰結、事実に向かおうとする態度である。」ということである。
早く言えば「結果重視」ということになる。それで、ともすれば「プラグマティズムとは表面的な結果ばかりに目を奪われる浅薄な哲学」と受け取られる向きもあるが、ジェームスの言いたいのは事実と言うのは結果にしかないということなのである。
我々は通常、「原因がなければ結果は生じない。」と考えがちである。しかし、我々の思考を如実にたどっていくと「まず結果があって、その結果から原因を推論」しているということに行きつくのである。
「強いものが勝つのではない、勝った者が強いのである。」とはよくいわれることである。一見これは逆説であるかのように思える。我々は、まず「強さ」というものがあって、その「強さ」が勝負に勝たせるのだと思いがちである。しかし、「強さ」そのものというものはそれ独自では存在しない。よくよく考えれば、「強さ」は勝つことを通してしか見えてこないのである。
本当は強いのだけれど負けた、というのはけいこ場では勝つけれど負けた、と言うくらいの意味でしかない。けいこ場でも負けてばかりなのに、本当は強いということはあり得ないのである。特に、真剣による勝負ならば一回負ければ終わりである。(負けても)「本当は強い」ということは検証しようもない、負けたという単純な事実しか残らないからである。
もう一つ、今度は「力」について考えてみよう。「力」と言うものも我々は直接見ることができない。力は物体の運動や手で物を押したときに感じる圧迫感として現れる。言い換えれば、運動や圧迫感の背後にあるものとして、「力」と言う概念を導入しているのである。
「万有引力」はニュートン以前には「存在」しなかった。それまでは、ただ物は高いところから落ちるだけのことだったのである。足の裏に大地からの圧迫を受けながら、誰も地球に引っ張られている力には気付かなかった。
しかし現在では、誰もが「自分は地球に引っ張られている。」と感じている。ニュートン以前には『見えなかった』引力が『見える』ようになったのである。ニュートン以前と以後で世界が変わったわけではない。人々の現実に対する認識が変わったわけでもない。変わったのは現実の背後にある構造に対する認識である。
今では、誰もが「万有引力があるからリンゴが落ちる。」というように考えるようになってしまった。もちろん自然科学的にはそれは正しい表現であると言ってもよいだろう。しかし、哲学的な厳密さで言うとそれは必ずしも正しくはない。正確には、「リンゴが落ちるから、我々は万有引力があると想定する」と言うべきである。万有引力は仮想的必然性の要求からくる「仮説」にすぎないのである。それを真実であると思い込むことが憶見となる。
我々は何についても因果関係の枠組みを通してものを見ようとする傾向がある。それがいわゆる「自然的態度」である。「自然科学的態度」と言ってもよいだろう。それは人間が生きていくために必要な本能でもある。しかし、それにとらわれすぎると「なんでも理屈で割り切れる」という、必然の王国のとらわれ人になってしまう。どれだけ科学が進歩したとしても、「空が青く見える」ということは説明できないのである。この世界の成り立ちに関する、本当に根源的なことには因果関係は及ばないからである。
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