20世紀最高の哲学者であると言われるウィトゲンシュタインは、著書『論理哲学論考』において次のように述べている。
6.44 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。
世の中にはいろいろと不思議なこともあるが、本当に不思議なのは「世界がある」というそのことだろう。人はいろいろ疑問を持つが、「なぜ世界はあるのか?」という問いほど根源的な問いはない。ジム・ホルトの「世界はなぜ「ある」のか?」を読むと、西洋ではこの問題に対して膨大な知的エネルギーが注ぎ込まれたことがわかる。しかし、考えれば考えるほど、この問題に対する解はないことが明白になってくるのである。科学が進歩すればやがてビッグバン以前のことがわかるかもしれない。しかし、科学は所詮現象の推移を説明するだけのものに過ぎない。そもそもそのような現象を有らしめる世界と法則が存在することを説明することはできないのである。
釈尊は、我々の経験が及ばない領域についてのことは言及しなかった。このことを指して「無記」と言う。「経典に記されていない」ということである。仏教は超越的なことは言わない。形而上のことは疑似問題として判断を避けたのである。
であるから、「世界はなぜ「ある」のか?」という問題についても、当然「無記」である。つまり、現前するこの世界はそのまま受け止めなければならない。それが仏教的諦観である。諦観といっても単にあきらめるというようなネガティブなものではない。現にあるものはもうすでに否定しようがない以上、それを引き受けるしかないという覚悟のようなものと言った方がよいかもしれない。
無記というのは「世界はなぜ「ある」のか?」という問いかけをしないということではあるが、「世界が「ある」」ということへの感受性まで捨て去るということではない。むしろ敬虔な仏教徒であればあるほど、「世界が「ある」」ということへの畏敬の念は強いと言える。
栂ノ尾の明恵上人は供の僧と野道を歩いていた時、ふと歩みを止めて道端の一輪のすみれに目をとめた。そしてはらはらと落涙したという。供の僧が訝しんでいると、上人はこう言ったそうだ。「誰が、この花をこのように染めたのだ、誰がこの花をここに咲かせたのだ。測り知れない仏縁。仏様がここにおられるではないか。これがどうして、合掌せずにおられようか。どうして、涙せずにおられようか。」
われわれはこの世界の根拠を知ることはできない。言わばこの世界は偶然の世界である。私達は無常の大波にもまれる子船のような存在であるとしても、それでもとにかく生きているのである。考えてみれば、それは絶妙なことではないだろうか。
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