( 前回記事「現代版『倩女離魂』」 の続きです。)
ライプニッツが言うように、「あらゆる属性が同一であればそれはもう同一物である」ならば、送信カプセルに入った私と受信カプセルから出てきた私は同一人物となる。現に受信カプセルから出てきた私は、記憶が連続しているわけだから、自分が送信カプセルに入った私であると確信しているでしょう。
しかし、私は絶対に受信カプセルに入りたいと思わない。送信カプセルから出てきた私が私であるあらゆる要素を備えていたとしても、私に酷似した他人であるかも知れないからです。私と他者を区別する一番重要な点は、「この世界が私の視点から開かれている」というその事実です。永井均という哲学者はそのことを「世界の開闢」と表現します。
世界が私から開けているということこそ、私が私であるということ、それは「世界があること」と言い換えてもいいかも知れない。それでいてそのことはなんの属性も帯びていない。属性を帯びていないから形容のしようがなく、禅仏教では「無」と言い、ユダヤ教では「イリヤ(ある)」と言う。私はそう解釈しています。