絶対無を分かりやすく説明するために、この世界を映画の中の世界に例えてみよう。
映像が展開されるのはスクリーンの上である。映画の中の世界にとって、このスクリーンこそが絶対無に相当する。我々から見れば、スクリーンは白い布として見える、れっきとした『有』である。しかしそれは我々が映画の外の人間だからである。もし私が映画の中の人間ならスクリーンは見えないし、それは白くも黒くもない『無』であると言えよう。
スクリーンは映画という限定された世界が展開される場所である。西田的用語で言えばそれは「映画の場所」ということになる。そして、いかなる限定もない、最も一般的な世界が展開されるところを「絶対無の場所」というのである。
映画の中の登場人物が自分の写っているスクリーンを指し示すことができないように、私も「絶対無の場所」を指し示すことはできない。しかし、あえてそれをほのめかすとしたら、この世界が「私の世界」として開かれていることと言うしかないだろう。
「私の世界」の内容はれっきとした「有」であるが、「この世界が『私の世界』として開かれていること」自体は有でも無でもなくニュートラルである。そしてここで云う「私」は、永井均の著書である「<私>の存在の比類なさ」における<私>のことである。よりによって他でもないこの私から世界が開けている、つまりこの世界は唯一の絶対精神であるに開けている、という意味では比類がないのである。禅語でいえば「天上天下唯我独尊」である。
仏教では「一切皆空」と言う。絶対というものはないという意味である。この世界に絶対はない。ただし、この世界がこの<私>に開けているということ自体は絶対性を帯びている。この絶対性が「比類ない」ということの意味である。
ところで、私は「『絶対無の場所』を指し示すことはできない」と言いながら、それを「この世界が「私の世界」として開かれていること」と明確に表現してしまった。しかし、このことは公共の言葉では本来語れない。私秘的なの言葉での世界について語った独り言として了解してもらいたい。
(この項終わり)
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