SNSで議論している中である人から次のような言葉が出てきた。
『私は唯物論者なので、見える通りに世界はあると考えてます。』
しかし、唯物論者は「見える通りに世界はある」と考えることはできないはずである。なぜなら、世界には物質しかなく、現象はすべて物質の相互作用に還元されてしまうものと考えてしまうからである。だとすると、今見えているのも物体そのものではなく、物体から反射された可視光が私の視神経を刺激しているからだと考えなくてはならない。つまり、見えているのは物体そのものではなくセンスデータであるということになる。それでは唯物論者にとって物の実在は推論上のものとなってしまう。カントの「超越論的実在論者は経験的観念論者である」という言葉はこの辺の事情について述べているのだと思う。
「見える通りに世界はある」と考えるのは禅者である。禅者は一切の知識を取り払ったうえでこの世界を受け止める。可視光線だの視神経などというものについて考慮しない。見たまま感じたままの直接経験こそ原事実としての実在であると見る。お寺の鐘が「ゴーン」となる。その時私はその「ゴーン」である。それを西田幾多郎は純粋経験と名付けた。世界は純粋経験で出来ているのである。 実在は純粋経験でだけであり、「認識する私」というものは二次的に構成されたものである、とする世界観は「禅的一元論」と呼んでも差し支えないように思う。
「唯心論」では「物質に代表される社会システムは、心の作用が要因である」と云うのが一般的です。
「唯識論」では「物質を含めて心の作用も”空”である」と云うのが一般的です。
「見える通りに世界はある」は上記の「3論」のどれにでも当てはまる言葉なので、否定も肯定も出来ません。
「物は在り、認識できるが、空である」。
科学的には「ヒッグス機構」が、これを説明できるかもしれません。
3論の内のどの立場を採ろうと世界の見え方に変わりがあるわけではありません。だからと言って、どの立場から見ても「見える通りに世界はある」と言ってしまえば、3論の区別は無くなってしまいませんか。
物質の正体は「時空間の歪み(波動)」である事は「素粒子論」の根幹で、これを補強するのが「ヒッグス機構」です。
https://blog.goo.ne.jp/yk-soft-85/e/bec93ce73014577d80a3b9e30aa8cd69
仏教の側から見て、「すべては空だから3論の区別はない」と言っても、唯物論者は納得しないように思います。彼らは「ものが実在している」と言っているわけですから。
「正しい唯物論者」は、「物は実在している」と言っていて、そのモノの正体は「時空間の歪み(波動)」で有る事は時が来れば認めざるを得ないと思います。これは、「天動説⇒地動説」の変遷と同じです。この「歪み」を「物体」と理解しているだけであり、「天動説」を信じているのと同じ現象で、時間が解決します。
上記はあくまでも「唯物論者」に対する私の考えです。