前回記事では、科学的アプローチでは究極的な問題にアプローチできないということを述べた。これは決して科学が間違っているとか悪いとかいう話では全然ない。科学はあくまで科学として正しいのであって、われわれが生きていく上で重要な学問であることはまちがいない。ただ、哲学と科学は求めているものが違うのだということは踏まえておきたいのである。
近頃は哲学の自然(科学)化などと言い、科学的知見を哲学に取り入れるという向きもあるようだが、如何なものだろう。私は科学の視点と哲学の視点は決して重ねることができないと考える。
最近の脳科学の進歩により、人間の精神活動はすべて脳内の電気的作用に還元できるのではないかという見方が強まってきた。もし、そうだとすると、われわれの意志決定もすべて機械的に決定されるということになってしまう。それが科学的真理であるというなら、それで構わない。しかし、その知見をそのまま哲学に持ち込むのには問題がある。
いま、私が絵を描いている姿を誰かに「正確」に写生してもらうことにする。技術的な難しさを一切度外視すれば、それは限りなく正確に描くことができるだろう。しかし、自分で自分を写生するとなるとどうなるだろう。一応第三者の目から見た自分を正確に想像しうるものとすれば描けるような気がする。
しかし、いざ描き始めると非常な困難にぶち当たることに気がつく。いつまでたっても描き終わらないのである。問題は絵の中の絵である。絵を描いている様子を描くのであるから、描いている絵も正確に描かなくてはならない。絵の中のそうすると、いくら描き加えていっても、どうしても絵の中の絵は一つ足りないのである。第三者が写生する場合は、ある時点の絵を忠実に写し取ればよかったのであるが、第三者と自分の視点を重ね合わせると、どうしても無限後退が生じてしまう。いわゆる自己言及問題である。
(参照=>英国にいて英国の完全な地図を描く )
人間の精神活動がすべて脳内の電気的作用に還元できるということなら、現前しているこのありありとした光景も、すべて脳の中の現象だということになる。第三者についてそのように考えるのは一向に差し支えない。しかし、自分にそのことを適用してしまうと、ちょっと妙なことになってしまう。はじめからすべて脳の中なら、一体脳の外というのはどこにあるのだろう?脳の外が分からなければ脳の中というのも意味がなくなってしまうではないか。
この問題は「人間精神の自由」という問題とも関連している。
人間精神が脳内の電気的作用なら、私の精神も機械的であると言える。そして、第三者から見れば私はよくできたロボットに過ぎない。それはそれで正しいと言えるだろう。万能コンピューターがあって、私に関係するデータをすべて入力して計算すれば、第三者が私の行動をすべて予言することは可能だろう。そういう意味において、私に精神の自由というものは存在しない。しかし、それらは私を他人が客観的に見た場合の話である。
しかし、視線を私自身の実存的視点に置くと様相は一変する。私自身の行動を万能コンピューターで予測しようとしても計算不可能となってしまう。計算結果を私自身が見てしまうことを前提としなければならないので自己言及が発生するからである。
<私>の実存的視点から見れば、科学というのも仮説からなる一種の虚構であり、そのほとんどの部分が<私>にとっては伝聞によってもたらされたものに過ぎない。現に、私は立とうと思えば立つことができ、座ろうと思えば座ることができるのである。これを「自由」であると言っているのであって、他人からどう見えようとも、<私>はまぎれもなく自由なのである。
このありありとした現実感を、あえて客観というバイアスを通して再解釈する必要はない。「あるがまま見る」とはそういうことである。
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