世代が代わると、戦争の記憶がうつろになり、やがて、「いっぺん、やってみたろか?」と考える世代が出てくる。
神様が、どういう計算のもとに、人間を作られたのか、私などには知る由もないが、ただ、言えることは、どうも、競争と戦いという二つの
生存のための原理を植え付けられたであろうことだけは、確からしいのである。
その、生存のための原理というものは、年齢の幼い時代からすでに芽生え始め、洋の東西を問わず、それは継続的に成長し続けて、最後には、戦争と言う盛り上がりをみせてくれる。
問題は、核兵器である。
核兵器のお陰で、ようやく人類は長い平和を手に入れた。
なにしろ、おっかない存在だ。
全てがぶっ飛び、そして、無くなるのだ。
1メートルの分厚さのコンクリートの壁を作り、鉛で覆って、食糧と水を貯蔵して半年核の冬を過ごせば、生きられるというおバカさんもいるが、笑ってはならない。
出てきたら、荒廃した土地に、食物はないのだ。
ガイガーカウンターを片手に、ウロウロしながら食糧を探したところで、ほとんどの現代人は飢え死にしてしまうだろう。
核戦争が起きれば、ほとんどの人口が死んでしまい、生き残るのは、一部のサバイバル能力に優れた個体に限られるということだ。
これが恐ろしいがために、今の私たちは、戦争をしたくてもできないでいる。
この力を身に着けるために、北朝鮮は頑張っているわけで、非情に物の本質を見抜いていると言っても過言ではないだろう。
北朝鮮が、無頼者だとしても、彼らには彼らの理屈らしきものがあり、その理屈らしきものを守り通すためには、現実の路線を変えることはできないはずだ。
核実験を継続し、ミサイルテストを繰り返すのには、そういう理由がある。
アメリカの中間選挙が行われる来年までに、ニクソン級の事件が勃発する可能性は高い。
トランプを弾劾しようとするマスコミは、何かを捏造してでも彼を窮地に追いやろうとしている。
もちろん、トランプも手をこまねいているわけではないが、FBIの長官を辞めさせるなどは、幼稚な手法だっただろう。
一人や二人の敵ではなく、彼の周りは、ほとんど敵だらけなのだ。
第三次世界大戦が、どこから始まるのか?
という予想は難しい。
が、もし、今がその前夜だとしたならば、どうすればいいだろうか?
プラカードを持って、「戦争反対」と言えば、戦争が止まるだろうか?
それとも、戦争は起こるという想定を規定のものとして、行動することが、生き延びる機会を与えてくれることになるのだろうか?
考えてみよう。