西洋と日本の違いを、否応なく 毎日の生活の中で、考えることがある。
それは、たとえば、チェスと将棋においても、随分と考え方の違いに気がつく。
将棋では、歩を捨てることを、あまりためらわないほうが 勝つチャンスが広がる。
そして、相手から取った駒は 再利用できるので、死ぬことを恐れない。
一方 チェスでは、歩を捨てることを ためらう。
歩が減ると、それだけ、後々、攻め込まれやすくもなり、また、駒の再生ができないために、一人ひとりの歩兵を大事にする。
この、考え方は、戦争でも如実に出ている。
日本のゼロ戦が強かったのは、驚くべき軽量・・・つまり、命を守ることを無視して作られたためで、敵の弾が貫通することを避けるための防御ということは、一切 考えて作られてはいなかった。
結局、戦争末期になると、600時間を越えたベテランパイロットの多くはすでに戦死しており、互角に太刀打ちできることは、出来なくなってしまっていたことも、敗戦のひとつの原因に挙げられるだろう。
一方、アメリカのパイロットたちは、命を大事にするために、重装備をさせた。
捕虜になっても 生きることを望んでいたし、日本は捕虜になる前に死ぬことを望んでいた。
だが、日本の捕虜は、一旦捕まると、案外 口が軽かったとも言われる。
つまり歩兵の再生ということが、行われ、すんなりと 相手のチームの兵力になってしまうというメンタリティーもあるのだろう。
ちょうど、竹中平蔵のように、ひょっとしたら、アメリカの兵隊ではないか?と疑いたくなるようなことを、平気で行うのである。
それも、面白い 日本人の特徴であるのかもしれない。
日本人には二種類ある。
ひとつは、支配する立場。
もうひとつは、歩兵。
支配する立場も、王様に近づくほど 優遇される。
例えば、金、銀など、そして 大きな顔をしている角と飛車は、陸軍や海軍に匹敵するのだろう。香車はミサイル。桂馬は、まあ、迎撃用ミサイルといったところか。
ともかく、歩兵は一般市民であったり、あるいは下級役人であったりするので、数は多く、いつでも 死んでくれて構わないと考えている。
今回、92.5%が水死 そして60歳以上のお年寄りの被害が、全体の6割を超えていたそうだ。
これは、どうしたことだろう?
結局は、弱い体力、弱い立場の人間は、きちんとした防御もなく、死ぬことになったということでは なかったろうか?
むろん、何もかもが防げるなどとは 思ってもいない。
だが、救える命もあったのではなかっただろうか?と思うのだ。
チェスの考え方を適用すれば、やや 見えてくるものがある。
例えば、孫子の言う地の利でいえば、やや山や丘の上に老人の住める環境を整えていれば、それだけで、助かった命が かなりあったはずだし、あるいは、南三陸町のフラットな土地に、人工的に丘のある公園を、ブロックごとにつくっておけば、助かったかもしれない。
そして、それをコンダクトできたのは、頭脳・・・つまり支配層であったはずだ。
もし、その気になっていれば、小さな丘を作ることは、たいして金のかかることではなかったと思う。
すでにある土地を 有効利用し、できることはあったhずだ。
子供たちの遊び場にもなり、一挙両得であったはずで、高さは、30~40メートルほどであっても かなりの人が助かったはずなのだ。
だが、そういうことは、一切だれも手をつけてこなかった。
もちろん、今後、しなければならないはずだが・・・日本政府は、どんな青写真を出してくるのだろう。
棄民政策は 将棋のなかに、すでに現れている。
日本人のえげつない メンタリティーだ。
日本人は残酷で 野蛮な部分を 持っていると思う。
個人や弱い立場の人間の犠牲を なんとも思っていない。
そんなところがある。
だから、満州から引き上げてくるときも、多くの子供たちの命が奪われたし、今回は、子供たちと老人がたくさん亡くなられ、そして、原子力発電所の問題も、多くの一般市民が巻き添えを食っている。
政府は、安全宣言を出したくて うずうずしている。
東電にプレッシャーをかけて、最終目標を無理やり出させた格好だ。
まだまだ、そんな段階ではないはずだ。
私は、この政府の言うことに、何の信用もおけそうにない。