さきほどRotKのサントラ考察upしました~(汗)なんか苦労した割には全然胸を張って出せない代物なんですが(汗)気分がノッてる時とそうでない時の文章が全然違うし(汗)だいたい長すぎるし、読みにくいし・・・(汗)
少しずつupしていけるような構成にしておけばこんなこともなかったんだろうと思いますが・・・今思えばそういう風にもできたんですが、もう今更遅い(笑)
ああ、しかしここ数日ずっとpcに向かい合ってたんで、疲れました~。これでようやく次のことができるんですが、しばらくは更新したくない気分・・・(笑)
で、話は変わりますが、例のUnsung Heros of the Lord of the Ringsのメリーの章読み終わりました。
映画の話になってちょっと面白いかな、と思ったのですが、やっぱりちょっと・・・な部分が。
エオウィンとの関連のことが書いてあるところで、「映画ではメリーはデルンヘルムが兜を取るまで、そしてメリーが魔王を刺すまでエオウィンであることに気がつかなかった」とか書いてあったのですよ。
あれー、映画と混同してるよ! 確かに原作ではメリーはエオウィンが兜を取るまでエオウィンだと気付きませんでしたが、エオウィンが兜を取ったのはもっと早い段階でしたよねえ。
で、さらに、「映画ではメリーはエオウィンを助けるために魔王を刺したが、原作ではセオデンへの忠誠etc.のために刺した」とか書いてあって、それはちょっと違うだろう、となってしまったのです。
著者のPorter氏はどうやら30年来の指輪ファンらしいのですが、それにしてはびっくりです。
原作のメリーの方が、むしろエオウィンのために勇気を出して魔王を刺したのですよねえ。顔を上げる勇気も出なかったのに、エオウィンのために「あのひとは死んではいけない。少なくとも助けもなく一人死んではいけない」と、勇気を振り絞って刺したのではないですか。
原作のメリーのかなり重要なシーンだと思うので、そのあたりを無視して論じられてもなあ・・・
その他に、「映画ではホビットの功績?が少なくなっている」ということで、メリーが魔王を倒した功績は誰にも称えられていない、ということを書いていて、それは「そうなんだよなー」と思いました。だいたい、メリーが刺してたのエオウィン見てたか!? という疑問もあったりして・・・(汗)
でも、「ホビットの重要性が少なくなっている」という内容にもやや疑問が。確かにメリーの功績がうやむやになっていたり、「ホビット庄の掃蕩」がなかったので英雄的な活躍がなかったりというのはありますが、映画でホビットの存在が軽くなっていたのって、もう少し違う点ではないかなあと思うのですが・・・
そして、最後に「メリーの英雄性」についてまとめてあったのですが、やっぱりどうも違和感なのでした。
この本に限らず、「指輪物語」について書かれた著作には、違和感を感じることが多いですね。ってそんなに読んでないんですが(汗)
読む人によって違うところに着目したり、違う印象があったりと、そのあたりがこの作品の大きさなのだなあとも思ったりします。
それにつけても、何か一つだけの要素を取り出して論じられると、違和感を感じてしまうのですよね。この本の「英雄性」にしても、例えばキリスト教の美徳を取り出して論じた「指輪物語の真実」などにしても。反戦や戦争批判についてもそうですね。
トールキンが、何かメッセージを篭めたつもりはない、ただ物語を書いたのだ、と言うのはやはり信じたいなあと思います。
もちろんキリスト教やその他の思想、戦争の時代を生きたことが全く作品に反映されていないはずはないでしょうが、そういったことを取り出して論じているのを読むと、何か違和感を感じてしまいます。合ってるような気もするけど、何か違うんじゃないか、と。
やはり、そういうことを意図的に篭めて書いているのではないよなあ、と実感するのです。
それでも、様々な解釈がされ得る要素が散りばめられているということは、「指輪物語」のすごさだなあと思いますけれど。
なんだか話が逸れましたが(汗)とにかくこの本も、こういう風に読み取る人もいるんだなあというスタンスでもう少し読んでみたいと思います。ピピンのことをどう捉えているかを読まなければメリーについての話も判断できないと思いますし。
少しずつupしていけるような構成にしておけばこんなこともなかったんだろうと思いますが・・・今思えばそういう風にもできたんですが、もう今更遅い(笑)
ああ、しかしここ数日ずっとpcに向かい合ってたんで、疲れました~。これでようやく次のことができるんですが、しばらくは更新したくない気分・・・(笑)
で、話は変わりますが、例のUnsung Heros of the Lord of the Ringsのメリーの章読み終わりました。
映画の話になってちょっと面白いかな、と思ったのですが、やっぱりちょっと・・・な部分が。
エオウィンとの関連のことが書いてあるところで、「映画ではメリーはデルンヘルムが兜を取るまで、そしてメリーが魔王を刺すまでエオウィンであることに気がつかなかった」とか書いてあったのですよ。
あれー、映画と混同してるよ! 確かに原作ではメリーはエオウィンが兜を取るまでエオウィンだと気付きませんでしたが、エオウィンが兜を取ったのはもっと早い段階でしたよねえ。
で、さらに、「映画ではメリーはエオウィンを助けるために魔王を刺したが、原作ではセオデンへの忠誠etc.のために刺した」とか書いてあって、それはちょっと違うだろう、となってしまったのです。
著者のPorter氏はどうやら30年来の指輪ファンらしいのですが、それにしてはびっくりです。
原作のメリーの方が、むしろエオウィンのために勇気を出して魔王を刺したのですよねえ。顔を上げる勇気も出なかったのに、エオウィンのために「あのひとは死んではいけない。少なくとも助けもなく一人死んではいけない」と、勇気を振り絞って刺したのではないですか。
原作のメリーのかなり重要なシーンだと思うので、そのあたりを無視して論じられてもなあ・・・
その他に、「映画ではホビットの功績?が少なくなっている」ということで、メリーが魔王を倒した功績は誰にも称えられていない、ということを書いていて、それは「そうなんだよなー」と思いました。だいたい、メリーが刺してたのエオウィン見てたか!? という疑問もあったりして・・・(汗)
でも、「ホビットの重要性が少なくなっている」という内容にもやや疑問が。確かにメリーの功績がうやむやになっていたり、「ホビット庄の掃蕩」がなかったので英雄的な活躍がなかったりというのはありますが、映画でホビットの存在が軽くなっていたのって、もう少し違う点ではないかなあと思うのですが・・・
そして、最後に「メリーの英雄性」についてまとめてあったのですが、やっぱりどうも違和感なのでした。
この本に限らず、「指輪物語」について書かれた著作には、違和感を感じることが多いですね。ってそんなに読んでないんですが(汗)
読む人によって違うところに着目したり、違う印象があったりと、そのあたりがこの作品の大きさなのだなあとも思ったりします。
それにつけても、何か一つだけの要素を取り出して論じられると、違和感を感じてしまうのですよね。この本の「英雄性」にしても、例えばキリスト教の美徳を取り出して論じた「指輪物語の真実」などにしても。反戦や戦争批判についてもそうですね。
トールキンが、何かメッセージを篭めたつもりはない、ただ物語を書いたのだ、と言うのはやはり信じたいなあと思います。
もちろんキリスト教やその他の思想、戦争の時代を生きたことが全く作品に反映されていないはずはないでしょうが、そういったことを取り出して論じているのを読むと、何か違和感を感じてしまいます。合ってるような気もするけど、何か違うんじゃないか、と。
やはり、そういうことを意図的に篭めて書いているのではないよなあ、と実感するのです。
それでも、様々な解釈がされ得る要素が散りばめられているということは、「指輪物語」のすごさだなあと思いますけれど。
なんだか話が逸れましたが(汗)とにかくこの本も、こういう風に読み取る人もいるんだなあというスタンスでもう少し読んでみたいと思います。ピピンのことをどう捉えているかを読まなければメリーについての話も判断できないと思いますし。