髙野公一先生よりご著書を頂きました。お手紙では、拙著『芭蕉百句』への温かいご批評を賜り、重ねて心よりお礼申し上げます。先生は「芭蕉の天地」で、ドナルド・キーン賞優秀賞を受賞された碩学にして恐縮至極に存じます。いずれにしましても、現代にあって、芭蕉の俳諧精神を探求する者同士として心強い思いがしました。深謝まで。
帯文には、「総合的切字論」<「切れ」が俳句の本質でもなければ伝統でもなく、1960〜70年代に切字説から派生した一種の虚妄であることをあきらかにする>と書かれているが、そもそも著者独自の「切れ」という詩法自体についての言説に乏しく、様々な「切れ」論の援用とメタ的解析に止まっているのは残念である。終いには「前略〜なんだかはっきりしない奥深いもの「切れ」。」と吐露されているが、「切れ」の詩法そのものがよく分からないのに「切れ」が俳句の本質でもなければ伝統でもなく云々と言えるのだろうか。いずれにしても、高山らしい博識による論攷は圧巻である。「切れ」をもう一度考え直すための問題作と言えよう。
参考までに先達の「切れ」に対する考察を以下に付記しておく。
ハイクにとって問題なのは、五・七・五による三行詩といった外部構造よりも、むしろ、「切れ」を含んだ内部構造にある。〜中略〜 一句の陳述の間を形作り大きな暗示力を生み出す「切れ」こそは、俳句が極小の詩形で宇宙の大を表現するために発明した最大の武器で、これを欠いてはハイクにならない。 国際化時代の俳句・尾形仂『俳句の可能性』
切字は発句における必要条件だが、多くの場合、十七音節の発句という枠のなかにあって、二連句のダイナミクスが働くことを可能としたのである。芭蕉は『三冊子』のなかでこのように考察している。「切字なくてハ発句のすがたにあらず、付句の体也。切字を加ハへても、付句のすがたある句あり。誠に切れたる句にあらず」。
切字は、切るとともにつなげる、ヤコブソンのいう連結(combination)と等価(equivalence)の双方を可能にする逆説的な機能をもっている。 ハルオ・シラネ『芭蕉の風景 文化の記憶』
「切れ」は元来余情を深める為の表現技法として発達したものでありますから、ー つまりよく言われる通り、「古池に蛙飛びこむ」と言えば、理路を辿つた表現ではありますが、要するに平面的な描写に終る。それを「古池や」と言えば、「や」で理路が絶たれるかわりに立体的な深み、即ち余情が生じて来るのであります。その原理さえ分かつて居ましたら、切字が発句形式の制約として重んじられた事も当然であり、同時にまた必ずしも形式的な切字が必要でない事も明らかであります。要は余情を捉える事にあるのでありますから。芭蕉は切字に用いれば以呂波四十八字みな切字であり、用いなければ一時も切字で無いと言つて居ります。名言であります。 頴原退蔵『芭蕉俳諧と近代芸術』
「切字なくてハほ句のすがたにあらず。付句の体也。」 服部土芳『三冊子』
五島高資『近代俳句の超克 - 「音楽性」という視座から』 2002.10.17
昼寝して人間といふ大自然 長谷川櫂
『芭蕉の風雅 - あるいは虚と実について-』は、「虚に居て実をおこなふ」という蕉風の本質を見直して、現代俳句の在り方を問う好著。現代俳人必読の書と思う。
近代俳句の詩学を俳句史を通して詳細に解析した好著と思いました。ここを踏まえてこそ現代俳句の更なる発展が期待されるのではないでしょうか。