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大震災関連・その1 ~羽生選手と同世代の福島の避難者が、街頭で訴えていたこと~

2016-07-27 | 羽生選手と大震災関連

 

つい最近出された、羽生選手の自叙伝第二弾「蒼い炎Ⅱ」の最後で、羽生選手はこんな風に語ってくれていました。

 

「人が思いを伝えようとする時には、インターネットだったり電話や手紙など、何か道具が必要です。

例えば僕という人間を道具として、僕という人間を通して、皆さんが自分の気持ちを伝えるきっかけになればいいいな、と。

僕というネットワークを使って、いろいろな気持ちを発信してほしいと思っています。」

 

「(略)… 震災に対する思いというものを、少しでも寄せて頂けて、少しでも増えていけば、

被災地、ひいては日本という国にとっていいものになっていくと思うんです。

そういうものが一つずつ集まって、素晴らしい光になってもらえたらなと思っています」

 

羽生選手の、殿様姿の「輝けるおでこ」だけを集めて、ここに沢山載せてみるのも、楽しい、素晴らしい光になりそうで良いかとは思ったのですが、

せっかくですので、この羽生選手のこの言葉を、有り難く受け止めさせてもらって、

「大震災と、それに続く原発の被害」について、知っていること、思ったこと、感じたこと等で、

ここに書けると判断したことだけを、

「大震災関連」として、少しだけ書いてみたいと思います。

 

 

約2週間前に、参議院選挙が終わりましたけど、

私は、「街頭で演説する人たち」を見ると、どうしても思い出してしまう、ある人たちがいます。

 

2011年~2013年の頃に、路上で、やむにやまれずして、スピーカー等を持って泣きながら訴えていた、

羽生選手とほぼ同世代の、福島の高汚染地域出身の、故郷を離れた避難者たちです。

 

東日本大震災の被災地でもなく、原発被害の影響も全く受けていない、西日本にある地方都市「A市」に、

私が所用で行った時のことでした。

 

慌てて駅に向かって走っていた私は、車道を隔てた反対側の歩道に、

半分涙声になりながら、拡声器を持って、炎天下で疲れ果てた様子で、福島のことを訴えている男性を見ました。

 

推定年齢は20代前半ぐらい。 

特に政治思想があるわけでもなんでもなさそうな、その「普通の」若者は、

人前で話すのも慣れていないような様子で、震えた声を出しながら、路上に立って必死に話していました。

 

そばには、福島県の、高汚染で有名になった地域の名前が書かれていて、そこの出身だとのことでした。

その地方都市「A市」に、避難していた人だろうと思います。

 

でも、周囲の人は、誰も彼に声をかけず、立ち止まることもなく、そのまま素通りしていく人ばかりでした。

関心がないのか、何と言って声をかけてよいのかわからないだけなのか、人によってその理由は様々だろうと思うのですが、

誰にも声をかけられず、立ち止まってももらえていないその人は、とても虚しそうに見えました。

夏だったので、炎天下の中、今にも倒れそうにさえ見えました。

 

私は、車道を隔てて反対側の歩道上にいたので、遠くからその様子をちょっと見ていたのだけど、

あまりにも皆に無視されているから、なんだかいたたまれない気持ちになって、

道路を渡って、何か声をかけようかと思ったのですが、時計を見た時、これは電車に間に合わないかもと判断し、

信号も赤だったせいで渡れなかったため、そのままそこを過ぎ去って駅へ向かってしまいました。

駅について、5分は余裕があったな、と判った時、やはり、「ほんの一言でも声をかければよかった」と、かなり後悔しました。

 

 

このA市は、私の長年の親友が、結婚後に引っ越して住んでいる場所でもあるので、後で彼女に電話で「こういう人を見た」という話をしました。 

その地域には、そういう人たちが結構いるのかも、と思ったのです。

ところが彼女は、

「よくその駅周辺に行くけど、そういう人を見たことは今まで一度もないよ」

と言い、  

「別の地域から来て、たった一瞬通っただけのその一瞬で、よくそういう人や場面に出くわしたね!」

と、驚かれてしまいました。

 

いつも路上で訴えている、というわけでは決してなかったようです。

私の親友は、その後も、一度もそういう人を見たことはないそうです。

 

 

もう一つ、やはり、大地震の被害も、原発被害もなかった、別の地域の地方都市「B市」に行った時のことでした。

駅近くの大きな交差点で、ものすごい人ごみに揉まれながら、信号が変わるのを待っていたら、

目の前の車道に小さめの車が止まって、中から、スピーカーを使って若い男性が話し始めました。

 

「○○市のみなさん、僕たちは、福島県×××から来て、今○○市に住んでいる、避難民です。

2011年の3月、僕たちは、高校生でした。」

この×××は、放射性物質で、かなり高濃度汚染されたことで非常に有名になり、人が住めなくなっているはずの、誰もが聞いたことがあるはずの地名の一つでした。

友人同士と思われる、この二人組の男性の話によれば、

2011年の3月11日に東日本大震災が起き、そして、その後に原発が爆発して、

何もかもが変わってしまうその時までは、

「田舎だけど、自然が綺麗な故郷で、平凡だけど、幸せな高校生活を、友人たちと楽しく送っていた」そうです。

 

彼らは、ほんの数分、交差点で信号待ちをしている、大勢の人たちに向かって話しただけでしたが、途中から声が震えて、

悲痛な涙声に変わっていきました。

東電に怒りを感じていたようで、そのことも訴えていたし、原発の再稼働に反対の表明もしていました。

車道の信号が、赤から青に変わる直前、彼らの訴えの最後の言葉は、私の記憶が正しければ、確か、こんな言葉でした。

 

「僕たちの故郷(ふるさと)を返せ! 僕たちの青春を返せ! 

バラバラになった友人を返せ! 

返せ!返せ!返せ! 

わーーーーー!!!…(泣いて絶叫)」

 

最後の言葉は、「わー!」は、泣きながら全力を振り絞って叫んだような、本当に悲痛な声でした。

彼らのやりきれない、どうしようもない、苦しい思いが、その一声に凝縮されていた気がして、

聞いているだけで、こちらの胸も苦しくなるような叫びでした。

思わず涙が出てしまいました。

 

 

故郷に二度と戻れず、大事な思い出のある、大事な人たちと、バラバラになったままの苦しさというのは、

こういう原発事故のようなもの以外では、なかなか他には起きないように思いました。

あるなら、戦争ぐらいでしょうか。

 

「2011年3月に高校生だった」、と語っていたので、羽生選手とほぼ同じか、1,2歳差なのだろうと思います。

信号が青に変わった後、その車自体が走り去ってしまったので、私が彼らの声を聞いたのはそこまでです。

 

 

あの人たちは、その後、そして今、どうしているのだろう。

 

日本の社会や、未来に、絶望していないだろうか。

 

新しい土地で、何もかもが変わった新しい生活を、受け止めることが出来ただろうか。

 

知り合いは、何人亡くなったのだろうか。

 

 

福島の、原発事故による、「原発関連死」と呼ばれる死者(=原発で避難後に、様々な理由で亡くなった人たち)は、

東京新聞の独自の調査によれば、今年の3月6日時点で、1368人にもなっていると言います。

→ http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201603/CK2016030602000127.html

 

このリンクした記事の下の方に、福島の各地域の、「原発関連死」だけの「死者数」が載っているけれども、

私がここで上に書いた、羽生選手と同世代の若者が、自分の出身地だったと語っていた場所は、特に死者数が多くなっています

 

最近話題になっている、世界中で起きている各地のテロの死者数と、

数字の桁だけで言えば、「桁が違う」数の人が、結果的に亡くなっているのです。

 

「原発関連死」なんていうと、表現が漠然としているけれども、

要は、絶望してしまい、命を絶った人々が沢山、含まれています。

 もちろんここでカウントされているのは、その原因が、原発事故に起因すると認められた人たちだけです。

 

 

こちらの記事ページは、「福島民報」の、「原発関連死」に関する記事のアーカイブ集です。 

→ http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/cat289/

 

数字で見るとあまりピンと来なくても、

記事を一つ一つスクロールして読んでみれば解りますが、具体的なその一人一人の命と人生は、

その人たちと関係があった、多くの周囲の人たちをも、深い悲しみに突き落としているのです。

 

実際には、数字上にさえ出てこない人たちも、もっと沢山いるはずです。

 

 

私が特に好きな、羽生選手の演技 「花になれ」は、

 

「あなたは今、笑えてますか。 どんな息をしてますか。

人ごみに強がりながら、負けないようにと、歩いているんだろうーーー」

 

という歌詞で始まる、

本当に本当に優しい歌に乗って、羽生選手が自らの深い思いを込めながら、勇気づけるように、全身全霊で滑ってくれます。

 

だから私は、大好きなのです。

 

私の記憶の中にある、上に書いた羽生選手と同世代の、福島の高汚染地域から避難していた若者たちは、

同じ日本でも、被害の全くなかった、安全とされる別の都市で、

「人ごみに無視されながら、負けそうになりながら、孤独な様子で、必死に泣いて訴えていた」 

ように、

当時の私には見えました。

 

 彼らの叫びは、日本のどのくらいの人に、届いているのでしょうか。

 

 

彼らが、少しでも温かい人たちに囲まれて、

今、日本のどこかで、少しでも元気に、心穏やかに暮らしていてくれることを、

心から祈ります。

 

 

こんなに多くの人の命を奪い、悲しみのどん底に突き落とす「発電方法」は、他にはないです。

 

 

それでも、その発電方法を続けるのは、

本当に正しいことなのでしょうか。

 

 

次に大地震が起こるのは、日本の一体どこになるのでしょうか。

 

テロのリスクの高まる昨今、標的にされ得て、危険性が高いのは、どこの何なのでしょうか。

 

その時には、「想定の範囲外でした」などという言葉は、日本では もう通用しないはず。

 

 

日本はなぜ、真実を避け、大事な議論をも避けるのか。

  

それによって、酷い後始末を押し付けられるのも、悲劇が待っているのも、未来の世代になるだけなのに。

 

 

 こちらは、2011年に、自民党の石破さんが当時語った、原発をやめられない本当の理由を述べていると思われる動画です。

→ http://www.dailymotion.com/video/xkm7pc_%E7%9F%B3%E7%A0%B4%E8%8C%82%E8%87%AA%E6%B0%91%E5%85%9A%E6%94%BF%E8%AA%BF%E4%BC%9A%E9%95%B7-%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%81%AF%E6%A0%B8%E6%AD%A6%E8%A3%85%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E5%BF%85%E8%A6%81_news

 

ここでも語られているように、「核兵器武装」「核兵器への転用」の可能性を担保しておきたいというのが、きっと本音でしょう。

今問題になっているはずの、憲法改正問題と、本当は密接に関連しているはずなのに、

その大問題すら、全くまともに議論せずに、問題をきちんと見つめさせることなく、誤魔化したまま、なんとなく推し進めようとしている。

ここで石破さんも最後に言っているように、「議論して、きちんと突き詰めなければならない問題」なはずです。

 

 

一方こちらは、かつては原発推進側にいて、今日の事態に大きな責任を負っているはずの一人でありながら、

だからこそなのか、今や原発ゼロを訴えるようになった、小泉元首相の、最新の講演会の内容です。

→ http://www.jiji.com/jc/v4?id=201606koizumi0001

 

 1ページごとが短くて、ページ数が多くてちょっと読みにくいけど、

ここで言われていることは本当に重要で、かつ当たり前のことなのに、あまり報じられていないと感じます。

 

私はこのブログで、誰かと議論したいわけではないです。(羽生選手の応援ブログですし。)

ただ、マスコミには、大事なことをもっとちゃんと報じてほしいとは思っています。

 

 

人間には一人一人に、それぞれ、天から与えられている使命が必ずあり、

果たすべき役割があるといいます。

 

それをちゃんと見つけて果たしていけるのか、それとも無視して好き勝手に生きていくのか。

人間には、神様から「選択の自由」も与えられています。 

だから、その人次第。

 

 

 日本のあまりにも酷い現状、あまりにも多い嘘と誤魔化しだらけの世界の中で、

それでも「自分に与えられた場所」を感謝して、

真剣に考えて悩んでいて、本気で生きていて、

陰では一杯泣いていて、そして時には、その涙を隠すこともせずに見せてくれて、

自分のやるべきことを全力でやろうとしている人を見ることができるのは、私にはむしろ、強い希望であり、励ましでした。

 

これは、ちょうどその頃ーーー

大震災と原発事故のあった、2011年の暮れに行われた、全日本選手権後の、

羽生選手のエキシビション「白鳥の湖」です。(ニコニコ動画)

→ http://www.nicovideo.jp/watch/sm16536575

 

私は、大震災が起こる前の2010年シーズン、この羽生選手の「白鳥」の演技がものすごく好きだったから、

翌年も、エキシビションとして再び見せてもらえるのは、すごく嬉しかったです。

 

羽生選手が一気に有名になった、2012年のニースで行われた世界選手権より前の大会だから、

今より全然有名じゃないし、今と比べれば、ファンもうんと少なかったと言える頃で、見ていなかった人も多いかもしれない。

 

この時、何位だったかというと、ショート4位、フリーで1位、総合で3位でした。

 

だけど羽生選手には、今と全然変わらない真剣さがあり、今と同じ、内側から溢れ出るような情熱があり、

観る者の心に訴えかける何かがあり、

本当に全身全霊で演技しているのが、観れば解ります。 

 

そういう羽生選手を見て、当時の私がどのくらい元気になったのか、

どんな思いで観ていたのか、どれほどの希望を感じられて、どれほど慰められたかは、とても言葉では表現できないです。

 

 

「 悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。」 

 

———これは、新約聖書にある、イエス=キリストが語った、有名な「山上の垂訓」と呼ばれる言葉の一つですが、

(マタイによる福音書 5章4節)

この言葉の意味が、本当によくわかるようになりました。

この言葉が、実感を伴って、これほど深く胸に響いたことは、それまでにはなかったように思うのです。

それが、すごく嬉しかったですね。

 

今では、その思いはますます強まったと感じています。

 

子供の頃、私は、

「なんでこれが『幸い』なんだろう? 

慰められなくてもいいから、そもそも悲しい目にあわない方が、絶対にいいに決まっていると思うんだけど…」

なんて思ったりしていましたけど、(笑)

今、この言葉の本当の意味が分かったと感じられるようになったことが、本当に幸せだと思います。

 

 

5年前を振り返ってみると、5年後の今、笑っている自分というのを、全然想像出来なかった時期がありました。

 

 

上に書いた、故郷を失った避難民のあの青年たちが、

フィギュアスケートを観る可能性なんて、かなり低いかもしれないし、興味もないかもしれない。

 

 

でも、ほんのちょっと、近くにいる、まだ元気な誰かが気にかけてあげたり、ほんのちょっと誰かが声をかけるだけでーーー

あるいはほんのちょっと、誰かが何かを示すだけで、

状況は、大きく変わっていったりする。

 

「愛」の正反対は、「無関心」だというのは、本当だから。

 

 

希望や勇気、という見えないものもまた、伝わって広がっていくものだと思うのです。

 

 

決して直接は届かずとも、

あの時、声をかけたかったけど、かけそびれた一人として、

決して忘れているわけじゃない一人として、

「覚えているよ」「見ていたよ」 ということを、ここに書いておきたいと思います。

 

 

誰かから誰かへと、めぐりめぐって伝わり広がっていく「希望」の光が、 

いつか必ず、彼らにも届くことを、祈っています。

 

 

 


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2 コメント

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人々の暖かさ (美里)
2016-07-27 10:37:42
管理人様:

東日本大震災で起こったことは世界中から注目を集めました。街を歩くと貴方は日本人ですかと呼び止められ、大変でしたねとねぎらいの言葉をいただきました(私は被災していないのですがそういった言葉は在りがたく思います)。その当時ハワイでは東日本大震災被災地復興のための支援があらゆる形で行われました。そのうちの1つ、マウイ島の非営利団体「アロハ・イニシアチブ」は、ハワイの企業と共同で、東日本大地震で住む所を失った被災者の人々にハワイでのホームステイを提供し、ハワイアン航空を始めいろんな企業も参加し、ハワイの島内間での無料フライトと、日本ホノルル間の航空運賃のディスカウント、という形で支援がったりしました。

またさまざまなプログラムで、被災した人々が、最長約90日間、ハワイの家庭にホームステイし、心を癒してもらうことを目的で参加ホストファミリーを求めていました。私の知り合いの日本人は福島の子供を1年間預かり寝食提供していました。ホストファミリー参加者の旅費は全てアロハ・イニシアチブがファースト・ハワイアン・バンクなどの企業や一般から募った基金でカバーされたりしました。

応募者のホスト・ファミリー探しにはかなり慎重に取り組んみ、このプログラムの参加者は最も心の痛手を負った人が優先で、震災で孤児になった子ども、子どもや身内を失った大人、財産の全てを失った人などを対象に援助を差し伸べるものでした。

被災者を支援しようとする人々の暖かさが身に染みた経験でしたが、羽生選手が提言しつづけているように今後も風化することなく心を傾けていけたらいいなと思っています。
返信する
ありがとうございます! (管理人)
2016-07-28 00:36:43

>美里様

ハワイで行われた、思いやり溢れる支援の内容を書いて下さいまして、どうもありがとうございます!
温かい内容は、読んでいるだけでも気持ちが明るくなりますね!
ハワイでホームステイ支援などがあったことは、私も情報として覚えていますが、ホスト・ファミリー探しを慎重にされたとのこと、これはすごく重要なことなので、ハワイ側は本当に賢明でしたね。

福島のお子さんを1年間も預かった方々もいたのですね。
イタリアとか、ニュージーランド等、他の国々でも、同じような企画のホームステイなどが(もっと短期間だった気もしますが)あったように記憶しています。

震災で孤児になったお子さんたちや、自分以外の身内を失った方々、財産の全てを失った方々が優先されたのは良かったですし、素晴らしいことでしたね。

一方で、海外に行くことや、日本でもほかの地域に行くことそのものに、高い心理的ハードルを感じる方々も、沢山いらっしゃったと思うので、こういうのは、いろいろ難しい問題ですが、
勇気をもって、差し伸べられた手を取ることの出来る方々は、大きな人生の転機となったことでしょうし、本当に助かったことでしょうね…。

西日本などを中心に、「差し伸べた手を、東北の方々は取ろうとしてくれない」 「他の地域に行きたがらないが多い」というようなの声も、手を差し伸べた側の意見として、結構聴きました。

「東北の人は、関西人と比べて、他人にお世話になったりすることに、抵抗がある人が多いのか?」などの声も、結構聞かれました。

原発事故と合わせると、本当に未曽有の大災害でしたから、いくら支援があっても足りないくらいなのが実態だったのではないかと思いますが、人によっては、新しい環境になれることそのものが凄いストレスになってしまい、難しいという方々もいらっしゃるので。

2011年に3月に高校3年や高校2年だった福島の高校生たちは、進路選択でもつらい決断を迫られたことでしょうね… 当初の予定や希望は、きっと大きく狂ってしまったでしょうから…。

でも、辛い体験は、それまでに気が付かなかった素晴らしいもの、大事なものに目を留めたり、気が付けるチャンスでもあると解ると、きっと気持ちが明るくなりますね!

コメント、どうもありがとうございました!
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