日本と世界

世界の中の日本

龍谷大学教授・李相哲(61)(4)花形の映画技師になる

2021-12-08 17:49:22 | 日記
龍谷大学教授・李相哲(61)(4)花形の映画技師になる

2021/4/2


映画技師時代、絵を描くのが好きだった


《文化大革命(文革)の影響で一般の大学入試はストップしたままだった。村にとどまり、牛の世話など農作業を手伝っていたところ、良い知らせが入ってきた。人民公社に3人いた映画技師の1人が引退するので後任を探しているという》

中国の農村でみんなが憧れていた職業のひとつが映画技師でした。映画は最大の娯楽でしたから。といっても村に映画館などありません。

野外に幕を張って上映します。映画技師には人民公社から給料が出ます。

当時は集団農業で働いた分に応じて各自が点数をもらい、それを基に年末に少しばかりの現金を受け取り食料の配給を受けるという制度でしたから、給料の出る仕事などほかにありません。やりたいと思う人はたくさんいました。

当初、地元の2人の共産党幹部の家族らが「やりたい」と手を挙げたようですが、一方だけ選ばれれば禍根を残します。

そこで誰かほかに候補者はいないだろうか、ということになったとき、誰かが「そういえば紅旗村(故郷の村)に絵のうまい子がいるらしいよ」と言って、私のことを候補にあげたそうです。

それを伝え聞いた母が家から3キロぐらい離れた人民公社へ出向いて「うちの子をぜひ」と言ったらしい。それで試験を受けることになりました。

《試験は筆記と実技だった。筆記は政治常識や歴史。実技は当時1本の映画に対して4本ぐらいあったフィルムの入れ替え作業だった。1本終わったらどれぐらい速く入れ替えられるかを競った》

冬は本当に寒いところですからフィルムがよく切れるのです。特殊な糊(のり)でさっと素早くつなげられることが大切でした。

試験に合格し、映画技師としてのキャリアが始まった。
冬でも野外での仕事となるため、庶民には手の届かなかった羊の毛が入ったブーツとコートも特別に支給された》

1カ月に1度ぐらい、最寄りの駅に自転車でフィルムを取りに行きます。

発電機や映写機、幕などの一式は、牛が引く車に載せられて私より先に村に着いていました。

ですので夕方、自転車で村に行くと、子供たちがすでに、ずらーっと並んで私を待っている。

映画技師が来たー」と叫びながら私の後をついて回るのです。映画技師もスターのように人気がありました。

《上映される映画は当然、当局が許可したもの。毛沢東夫人の江青が主導した革命劇などが多かった。日本人や日本軍をやっつける映画も定番だった》

穴を掘って日本軍をやっつける。日本人は日本刀を持って抵抗する。そんな戦争映画もたくさんありました。セリフも全部覚えています。1本の映画で16ほどの村を回りますから。

中朝の多くの映画で日本は敵役として出てきましたが、映画の中のことと思っていましたし、日本という存在が遠すぎてあまりイメージがわきませんでした。

だから映画の影響で日本嫌いになることもありませんでした。でも、江青に芸術センスがなかったからなのか革命劇、京劇を現代版にした教訓めいた映画は退屈でした。

そこへ年に2、3回、何度か北朝鮮から映画が入ります。

それが本当に楽しみでした。当時の北朝鮮映画は洗練されていてレベルが高かった。若者たちは隣の村まで私と一緒についてきて何度も見ていました。田舎では唯一の楽しみでしたから。

(聞き手 長戸雅子)


龍谷大学教授・李相哲(61)(3)初めての写真は「北」の背広で

2021-12-08 17:16:05 | 日記
龍谷大学教授・李相哲(61)(3)初めての写真は「北」の背広で

2021/4/27 10:00長戸 雅子

話の肖像画

15歳のころ、初めて撮った写真

《飛び級により中・高校混成の「朝鮮民族中学」を15歳で卒業。

しかし文化大革命(文革)の影響で、一般の大学入試が中止となっていたため、その先の展望はなかなか描けなかった》

15歳になるまで顔写真を撮ったことはありませんでした。父は早くに亡くなり、母は仕事に忙しくて私に構う暇などなかったからです。

写真を撮ろうと思ったのは仲の良かった友人の兄が写った1枚のモノクロ写真がきっかけでした。

友人の家の中の一番目立つところに彼の兄の顔写真がかかっていました。

ポマードで固めたオールバックの髪、ネクタイを締めた背広姿は、村の出身とは思えないほど洗練された紳士でした。

文革の前でしたが、大連工学院(現在の大連理工大学)在学中に、両親に相談もなく北朝鮮へわたって、研究所で働いていました。写真は北朝鮮から本人が送ってきたものでした。

《1960年代、中国東北地域から10万人を超える朝鮮族出身の「知識人」が北朝鮮に渡った。

北朝鮮当局は中朝国境沿いの街に帰国受付所を設置し、中国から逃げてくる「知識人」や技術者を受け入れた。このため、中国東北地方の一部の研究所や工場、病院は閉鎖に追い込まれた》

ある日、この友人が「私たちも背広を着て写真を撮ろう」というのです。

中国人が背広を着こなすようになるのは80年代から、それも公務で外国へ行くなど、ごく限られた人たちだけです。

本物の背広など見たこともありません。

友人は「『平壌奥さん』の家にはあるはずだ」というので、彼女の家を訪ねました。

ところが、「平壌奥さん」がいうには、夫が「反動分子」になったので、背広などブルジョア的とみなされた品物は一切処分したというのです。

それでも「平壌奥さん」は、
「隣村に今、北朝鮮から親戚が訪ねてきている家があるから、その親戚が持っているだろう」と教えてくれました。

私たちはその足で5キロ離れた村まで歩きました。

それぐらい歩くのは平気でした。そこで北朝鮮の人から背広を借りて、町の写真館で写真を撮りました。

人生で初めての写真を北朝鮮の人から借りた背広で撮ったのです。

《当時、北朝鮮は文化でも「先進国」。村の若者たちは「革命宣伝隊」というサークルを作ったが、演目の半分以上は「絹を織る乙女」や「金剛山をたずねて」など北朝鮮の歌と踊り。

当時はまだ、政治的でない歌も多くあった。北朝鮮の文化は朝鮮族の日常に欠かせない存在だった》

母は家でいつもラジオの平壌放送を聞いていました。

「年間800万トンの食糧生産高地占領」というスローガンや革命劇とか。

言葉が恋しかったのだと思います。中国語は最後まで話せませんでした。

母をはじめ、村の人のルーツは韓国南部でしたが、朝鮮戦争で敵国となってしまった韓国のことを話すのは、はばかられる雰囲気がありました。

ごくたまに日本の放送が入ることがあって、言葉はよくわかりませんでしたが、男性が何か話すと女性がキャッキャッと笑う。

そんなスタイルの放送は社会主義の国にはなかったから、とても不思議で私たちとは違う文化を持つ国があるのだなあと思いました。

《母は秀才の息子を農業だけに従事させるのはかわいそうだと思ったのか、村のまとめ役に仕事の相談をした。ひとまず牛飼いの仕事をすることになった》

(聞き手 長戸雅子)




龍谷大学教授・李相哲(61)(2)村に戻された元モスクワ大生

2021-12-08 17:04:05 | 日記
龍谷大学教授・李相哲(61)(2)村に戻された元モスクワ大生

2021/4/26 10:00長戸 雅子

文化大革命の最中の1967年12月、中国黒竜江省で開かれた修正主義への批判集会 (ゲッティ=共同)

《文化大革命(文革)の時代でも故郷の村では平穏な日々が続いていた。しかし、隣人には文革の犠牲者がいた》

文革が始まる1966年までに、300世帯ある村から3人の大学生が輩出されました。大学生が本当に珍しい時代です。

うち1人はハルビン工業大学を卒業した後、モスクワ大学に留学したエリートでした。

反右派闘争で「右派」とされ、「労働改造」のために村に戻されていました。

平壌出身で女優をしていたという奥さんが一緒でした。小顔ですらりと背が高く美人の奥さんは村人の話題を独占しました。

北朝鮮には日本が残していったインフラがあり、当時はアジアでも有数の工業国。みな大都会である平壌の話をしてほしいとねだっていました。

《村人の話題を独占した「平壌奥さん」だったが、自身はモスクワ大卒の夫と話をしたくてたまらなかった。モスクワとはどんなところだろう。どうすれば外国に行けるのだろう、と思っていた》

村人は好奇心半分、同情心半分で2人に接していたと思います。都会出身の奥さんと大知識人が田舎で腐っていると。

元モスクワ大生は「反動分子」のレッテルを貼られていたので敬遠する人もいたと思います。

72年頃だったと思いますが、文革で迫害を受けた中国共産党内の「穏健実務派」への評価が変わり、トウ小平が復活して空白状態になっていた教育に力を入れた時期がありました。

そのころ、元モスクワ大生は村の中学校で教えていたのですが、長くは続きませんでした。

田舎に追放される前に酷(ひど)い拷問を受けたためか、元気があるようには見えず、無口だった。

それでも、田舎では大学生は尊敬の対象です。私のようにひそかに憧れを持っている人は多かったと思います。

小説が大好きで授業中も三国志などをずっと読んでいて、名場面になると、登場人物のセリフをつい口にしてしまう。先生には怒られましたが、試験ではいつも一番でした。(聞き手 長戸雅子)


龍谷大学教授・李相哲(61)(1)山の向こうに憧れて

2021-12-08 16:38:42 | 日記
龍谷大学教授・李相哲(61)(1)山の向こうに憧れて

2021/4/25 10:00長戸 雅子

《祖国といえる国は3つある。両親の出身地の韓国、生まれ育った中国、そして帰化した日本。新聞やテレビでの客観的な東アジア情勢分析は、この3カ国との絶妙な距離感からもたらされるのかもしれない》

故郷はロシアと国境を隔てる中国・黒竜江省の三江平原北部の紅旗村というところです。

1930年代に韓国の慶尚道から農業を営むため集団で移住してきた人たちが後に中国籍を得て、朝鮮族と呼ばれる少数民族になりました。

自然の厳しいところで、9月ごろにその年最初の霜が降りると冬が始まります。

シベリアからの風がヒューヒューと吹いて雪が降り続く。

外では何もできないから家に閉じ籠もるしかありません。

春になれば世界は一変します。青い平原、それは水田ですが、果てしなく続いてその向こうに青々とした山が連なっている。

土地は肥沃(ひよく)で、米も作物もよく取れました。

食べ物に困ることはなかったから、人情も厚く暮らしやすいところでした。

でも空想好きだった私はもっと広い世界へ行ってみたかった。あの山の向こうには何があるんだろう、どんな世界が広がっているのだろう。山の向こうへ行きたいといつも思っていました。

毛沢東から新しい指示があると、それを仰ぐための儀式が開かれ、大会で拡声器が鳴らされるなどしましたが、村の青年たちが「宣伝隊」をつくってそれを宣伝して回るくらい。

紅衛兵もいて毛沢東をたたえる歌を歌ったり、忠字舞と呼ばれる踊りを披露したりしていましたが、破壊活動や人を殴るなどはなかった。

もっとも破壊すべき建物も、燃やすべき本らしい本もなかったし、大人たちはみな知り合いのおじさん、おばさんでしたから。

人民公社は15の村で構成されていて、漢族だけの村もひとつありましたが、ほとんどが朝鮮族でした。

中国共産党の方針を貫徹するための思想教育を担当する工作隊が村に常駐する時期もあったけれど、やったのは大会を開いて、「地主」だった人を批判するくらい。

幼いながらも、平和だった時期とは違う空気は感じましたが、村の人が派閥に分かれて争うようなことはありませんでした。

《それでも中国建国の父、毛沢東への敬意は生活の一部だった》

毛沢東は太陽ですから。村の家はどこも似たような造りで、家に入ると炊事用の釜を備えた小さな厨房(ちゅうぼう)があり、その裏が部屋になっていました。家族はその部屋で朝から晩まですべての生活を営む。

そんな簡素な家の壁には必ず毛沢東の写真、もう少し「革命的な家」には「マルクス、レーニン、スターリン、毛沢東」の顔写真が並んだ肖像画が掛けられていました。

一時期は、朝食事をする前と食事が終わったあと、毛沢東の肖像画に敬礼をする儀式もやりました。

なぜか、わが家には毛沢東の肖像画はなく、代わりに家族写真などを入れた「額」が掛けられていたと思います。

《文革の惨禍とほぼ無縁だったとはいえ、村には反右派闘争で追放されたモスクワ大学卒業の知識青年がいた。「山の向こう」への憧れをかきたてる存在だった》(聞き手 長戸雅子)
【プロフィル】李相哲


り・そうてつ 1959年、中国黒竜江省生まれ。中国紙記者を経て87年に来日。上智大学大学院博士課程修了。専門は東アジアの近代史・メディア史。98年、龍谷大学助教授。2005年から教授。朝鮮半島情勢を分析した論文や著書も多い。主な著書に「金正日と金正恩の正体」(文春新書)、「北朝鮮がつくった韓国大統領 文在寅政権実録」(産経新聞出版)など。