龍谷大学教授・李相哲(61)(4)花形の映画技師になる
2021/4/2
映画技師時代、絵を描くのが好きだった
《文化大革命(文革)の影響で一般の大学入試はストップしたままだった。村にとどまり、牛の世話など農作業を手伝っていたところ、良い知らせが入ってきた。人民公社に3人いた映画技師の1人が引退するので後任を探しているという》
中国の農村でみんなが憧れていた職業のひとつが映画技師でした。映画は最大の娯楽でしたから。といっても村に映画館などありません。
野外に幕を張って上映します。映画技師には人民公社から給料が出ます。
当時は集団農業で働いた分に応じて各自が点数をもらい、それを基に年末に少しばかりの現金を受け取り食料の配給を受けるという制度でしたから、給料の出る仕事などほかにありません。やりたいと思う人はたくさんいました。
当初、地元の2人の共産党幹部の家族らが「やりたい」と手を挙げたようですが、一方だけ選ばれれば禍根を残します。
そこで誰かほかに候補者はいないだろうか、ということになったとき、誰かが「そういえば紅旗村(故郷の村)に絵のうまい子がいるらしいよ」と言って、私のことを候補にあげたそうです。
それを伝え聞いた母が家から3キロぐらい離れた人民公社へ出向いて「うちの子をぜひ」と言ったらしい。それで試験を受けることになりました。
《試験は筆記と実技だった。筆記は政治常識や歴史。実技は当時1本の映画に対して4本ぐらいあったフィルムの入れ替え作業だった。1本終わったらどれぐらい速く入れ替えられるかを競った》
冬は本当に寒いところですからフィルムがよく切れるのです。特殊な糊(のり)でさっと素早くつなげられることが大切でした。
《試験に合格し、映画技師としてのキャリアが始まった。
冬でも野外での仕事となるため、庶民には手の届かなかった羊の毛が入ったブーツとコートも特別に支給された》
1カ月に1度ぐらい、最寄りの駅に自転車でフィルムを取りに行きます。
発電機や映写機、幕などの一式は、牛が引く車に載せられて私より先に村に着いていました。
ですので夕方、自転車で村に行くと、子供たちがすでに、ずらーっと並んで私を待っている。
「映画技師が来たー」と叫びながら私の後をついて回るのです。映画技師もスターのように人気がありました。
《上映される映画は当然、当局が許可したもの。毛沢東夫人の江青が主導した革命劇などが多かった。日本人や日本軍をやっつける映画も定番だった》
穴を掘って日本軍をやっつける。日本人は日本刀を持って抵抗する。そんな戦争映画もたくさんありました。セリフも全部覚えています。1本の映画で16ほどの村を回りますから。
中朝の多くの映画で日本は敵役として出てきましたが、映画の中のことと思っていましたし、日本という存在が遠すぎてあまりイメージがわきませんでした。
だから映画の影響で日本嫌いになることもありませんでした。でも、江青に芸術センスがなかったからなのか革命劇、京劇を現代版にした教訓めいた映画は退屈でした。
そこへ年に2、3回、何度か北朝鮮から映画が入ります。
それが本当に楽しみでした。当時の北朝鮮映画は洗練されていてレベルが高かった。若者たちは隣の村まで私と一緒についてきて何度も見ていました。田舎では唯一の楽しみでしたから。
(聞き手 長戸雅子)