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習近平の「鄧小平への復讐」――禁断の華国鋒主席生誕百年記念行事挙行

2021-12-27 18:09:52 | 日記

習近平の「鄧小平への復讐」――禁断の華国鋒主席生誕百年記念行事挙行

 
遠藤誉中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

 

裏切りと陰謀をくり返してきた中国共産党政権(写真:ロイター/アフロ)

 鄧小平により不当に失脚に追い込まれた華国鋒・元主席は名前さえ出すことが禁止されていたが、習近平はその禁を破った。自分の父・習仲勲を失脚させた犯人が鄧小平だからだ。

 

◆毛沢東に後事を託された華国鋒

 1976年9月9日、建国の父・毛沢東が他界したが、4月30日には「あなたがやれば、私は安心だ」というメモを残して、後事を華国鋒(1921年~2008年)に託している。

 このメモの信憑性を疑う論調もあるが、1972年2月21日に訪中したニクソン元大統領の通訳をした章含之氏が『分厚い大紅門を乗り越えて』(2002年)という本の中で証言しているので確かだろう。

 しかし毛沢東亡き後、毛沢東夫人の江青(ジャン・チン)を中心とした文化大革命(文革)4人組が政権を奪取しようとしたので、華国鋒は間髪を入れずにクーデターを起こして武力で4人組を逮捕し、文革を終了させた(1976年10月6日)。

 その結果、華国鋒は、「中共中央主席・中央軍事委員会主席・国務院総理」と、「党・軍・政」の三大権力を一身に担った。

 そして第一次天安門事件(1976年4月)で周恩来の追悼デモを扇動したとして毛沢東の怒りを買い全ての職を剥奪されていた鄧小平を、なんとか政治復帰させてあげようと、華国鋒は奔走するのである。

◆恩を仇で返し、華国鋒を失脚させた鄧小平

 華国鋒の必死の努力の結果、1977年7月、鄧小平は政治復帰し「中共中央副主席、中央軍事委員会副主席、国務院副総理」などの高位のポジションを華国鋒からもらい、中国人民解放軍の総参謀長の地位まで手に入れた。

 こうなったら強い。

 華国鋒が努力しなかったら文革も収束しなかったし、特に鄧小平はこんな高位で政治復帰など出来なかったのに、中国人民解放軍総参謀の地位を利用して、中国全土の軍区に根回しをして、華国鋒の辞任を迫った。

 特に1979年2月にベトナムに戦争を仕掛けて中越戦争を起こしたのが決定打となった。

 なぜなら華国鋒は中央軍事委員会主席の座にいても、実際に軍を動かす力がなかったからだ。総参謀長の座は鄧小平が握っている。外国に戦争を仕掛けたら指揮力がないことが露呈する。そこに狙いを定めて鄧小平は日本やアメリカを訪問して国際社会における自分の力をアピールしておいてから中越戦争に入った。

 ほかにも様々な陰謀を企てて「中共中央主席・中央軍事委員会主席・国務院総理」と、「党・軍・政」の三大権力を一身に担っていた華国鋒に辞任を迫るのである。

 その時の理由が「華国鋒が文革に戻ろうとしている」とか「華国鋒が毛沢東を崇拝している」といった、およそ理屈にならない批判だ。

 文革は毛沢東が起こしたものだから、それに終止符を打つために毛沢東夫人の江青ら4人組を逮捕したのだから、これ以上の功績はない。しかし文革が10年間も続いて、当時はまだ毛主席万歳を叫ぶ人民が数多くいたので、一定程度の毛沢東に対する敬意を払わないと、こういった類の人民が黙らない。人心を落ち着かせて統治するためには最低限必要な毛沢東に対する敬意だっただろう。

 しかし自分がトップに立ちたい鄧小平は強引な手法と論理で華国鋒から全ての職位を剥奪し、自分自身が中央軍事委員会主席の座に就いて、今後二度と華国鋒の名前をどこかに掲載してもならないし礼賛してもならないと指示を出すのだ。

 華国鋒など存在しなかったものとして歴史から消し去った。

 軍を握った鄧小平は、天安門事件など、やりたい放題の暴政を繰り広げていく。

 自分の傀儡として国家のトップに据えた胡耀邦や趙紫陽なども、「気に入らない」という理由だけで失脚させていった。

◆2008年8月の華国鋒逝去が契機

 しかし2008年8月20日に華国鋒が逝去すると、時の胡錦涛政権の中共中央政治局常務委員は全員が揃って葬儀に参列し、中国政府の通信社である新華社の電子版「新華網」も華国鋒を礼賛する弔辞を載せた。

 それを待っていたかのように中国共産党党史研究室にいた韓鋼(かんこう)が『還原華国鋒(華国鋒の真相を掘り起こせ)』という論文を雑誌『往事』で発表した。

 それでもなお、鄧小平を否定することに微妙な躊躇が見られた。

◆習近平の父・習仲勲を失脚させた犯人は鄧小平

 なぜなら、1962年に小説『劉志丹』を口実に、習近平の父・習仲勲を失脚させた犯人が鄧小平だからだ。

 一般的には(と言うよりも、鄧小平の捏造により)、習仲勲が失脚したのは、当時雲南省の書記をしていた閻紅彦(えん・こうげん)が康生に「この小説は反党小説だ」と訴えて、習仲勲は失脚したことになっている。康生は「中国のベリヤ(旧ソ連のスターリン時代における死刑執行人)」と呼ばれる人物で、延安時代に毛沢東に江青を紹介したことによって毛沢東の覚えめでたくなり重宝がられた。

 しかし実際は水面下で動いていたのは鄧小平で、閻紅彦は1940年代における解放戦争(国共内戦)時代の鄧小平の直接の部下だった。閻紅彦は鄧小平の言うことなら何でも従った。

 また鄧小平と康生は非常に仲が良かったと、のちに康生の秘書が語っており、このとき鄧小平の方が康生よりも職位がずっと上だったので、康生は鄧小平の言うことなら何でも聞いた。

 事実、当時、国務院副総理だった習仲勲から全ての職位を剥奪することが決議された会議の夜、閻紅彦は鄧小平の家に行って祝杯を挙げている。だから犯人が鄧小平であったことはまちがいない。

 華国鋒や習仲勲の失脚を含め、鄧小平が行ってきたあらゆる陰謀に関しては拙著『習近平  父を破滅させた鄧小平への復讐』で詳述した。

 

◆華国鋒生誕百周年記念座談会

 今年2月20日、北京の人民大会堂で華国鋒生誕百周年記念座談会が開催された。中共中央政治局常務委員会の内の中央書記処書記・王滬寧や国務院副総理・韓正などが出席した。座談会における華国鋒を礼賛するスピーチの内容も大胆に踏み込んだものだ。

 この模様は中国で大きく報道され、たとえば中国共産党新聞網中央テレビ局CCTVの文字版あるいは中国共産党機関紙「人民日報」の動画サイトなど数多くのサイトで、今も確認することができる。これ等の報道から、鄧小平の禁を破って、遂に堂々と華国鋒を肯定する段階に入ったことが見て取れる。   

◆習近平は、父・習仲勲を破滅させた鄧小平に復讐している

 1962年に失脚させられて以来、習仲勲は16年間も牢獄生活や軟禁状態を耐えてきた。写真にあるように罪人として市中引き回しの目に遭い、批判大会で罵倒や暴力も受けてきた。

 

罪人として市中引き回しされる習近平の父・習仲勲

 

 1978年2月にようやく政治復帰して広東省で深センなどの「経済特区」を建設し、華国鋒とともに「対外開放」に命を注いだ。鄧小平は華国鋒が実施した「対外開放」を「改革開放」と言い換えただけで、改革開放の先駆けは華国鋒が実行し、広東省の経済特区は習仲勲が汗と泥にまみれながら創っていったものだ。

 だから習近平は2012年に中共中央総書記になると、まず最初に深センの視察に行った。それくらい習仲勲の功績にはこだわっている。

 しかし、ストレートに習仲勲を讃えるわけにはいかないし、鄧小平が自ら「鄧小平神話」を創り上げて、それが通念となってしまっている以上、鄧小平を正面から否定することもできないにちがいない。それがこのような華国鋒礼賛へとつながっていることは間違いないと見ていい。華国鋒は習仲勲の非常に良い仕事仲間で二人は仲も良かったのだから、なおさらだろう。

 2月20日に挙行された華国鋒生誕百周年記念座談会を、なぜ今ごろになって取り上げるかというと、実は3月14日付けの【中国ウォッチ】故華国鋒主席を利用、習氏への忠誠要求 生誕100年座談会の党指導者演説という記事を発見したからだ。

 実は私自身は2月21日に座談会が挙行されたことを知ったのだが、そのときは、まさに『習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』のゲラ修正に没頭している最中で、字数を削るのに必死だった。そんなわけで拙著に盛り込むことができなかったのを悔やんでいたところに、この記事を発見したのである。

 記事をお書きになった時事通信社解説委員の西村哲也氏はよく勉強しておられて中国問題に造詣も深く、筆も抑制的で尊敬に値する。ただ惜しいことに、習近平の父・習仲勲を失脚に追いやったのが鄧小平であったことはご存知ないのではないかと推測される。

 この事実を踏まえた上で、論理を展開して下さることを楽しみにしている。

 

 
中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。著書に『裏切りと陰謀の中国共産党建党100年秘史  習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』、『激突!遠藤vs田原 日中と習近平国賓』、『米中貿易戦争の裏側 東アジアの地殻変動を読み解く』,『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『卡子 中国建国の残火』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。


焦点:中国、不動産債務問題が鉄鋼などに波及 成長鈍化リスクに

2021-12-27 17:26:39 | 日記

焦点:中国、不動産債務問題が鉄鋼などに波及 成長鈍化リスクに

[北京 19日 ロイター] - 中国大手不動産開発会社が直面する債務問題は、同国の産業の根幹をなす鉄鋼セクターに悪影響が波及しているほか、他の重要セクターにも影を落とし始めた。

中国大手不動産開発会社が直面する債務問題は、同国の産業の根幹をなす鉄鋼セクターに悪影響が波及しているほか、他の重要セクターにも影を落とし始めた。写真は2017年7月、山東省済南の製鉄所で撮影(2021年 ロイター)

鉄鋼業が動揺し、セメント、ガラス、家電といった分野も軒並み需要減に見舞われやすくなっている事態は、中国経済に相当な打撃をもたらしかねない。それだけに政策担当者にとっては警戒すべき要素と言える。

既に鉄鋼価格は過去最高値を更新した今年初めの水準から下落している。これは鉄鋼消費の半分強を占める建設活動で需要が軟化したためだ。同時に鉄鋼メーカーの株価も低迷している。

鉄鋼業は建設や製造業の拡大・縮小と強い連動性があるため、中国経済の動向を探る指標として注視されてきた。その上、広大な供給網(サプライチェーン)を支えるために非常に多くの労働者も雇用する。その活動が鈍化局面に入ったのは、今年第2・四半期だ。

不動産向け融資規制が強化され、中国恒大集団など多額の債務を抱えた業者が苦境に陥ると、不動産各社は物件開発投資を縮小して手元現金の保持に走り、鉄鋼業に痛手となった。

北京を拠点とする鉄鋼トレーダーの1人は「われわれは普段、比較的価格が安くなる冬場に鉄鋼製品の在庫を積み増し、消費が再開する年明けに売却する。しかし、今年は(在庫確保)を見送っている。来年の不動産市場は不確実性がまだ残っており、今後半年から1年間で状況が完全に元通りになりそうにはない」と述べた。

11月には中国上位100都市で売れ残った住宅在庫が5年ぶりの高水準に達し、買い手の心理が冷え込んでいる様子がうかがえる。来年の住宅需要はさらに弱まる見込みで、「川下」の関連製造業に広く逆風が吹きつつある。

例えば、鉄鋼と並ぶ建設資材であるセメントの生産は9─11月に前年比で約16%減少し、2017年と19年の同じ時期を下回った。ここ数カ月はショベルカーなど掘削機械の需要も減退している。また、家電セクターでは冷蔵庫の月間生産台数が5月から11月までずっと前年比マイナスとなった。

<天国から地獄>

今年1─3月の中国経済で、鉄鋼業は最も堅調なセクターの1つだった。上場している主要28社の純利益は総額1060億元(166億1000万ドル)余りと前年比174%増え、新型コロナウイルスのパンデミック前の19年と比べても129%高かった。

だが、そうした好調の時期は幕を閉じている。不動産問題をきっかけに建設活動が中国全体で落ち込み、新規建設着工件数は7月から前年割れが続く。これは15年以降で最も長い期間だ。

不動産・建設の活動減速により、9月から中国の月間鉄鋼生産は20%強も減少している。これに伴って鉄鋼業の株式商品と関連素材の先物価格が下げに転じた。

9月半ばまで約90%上昇していたCSI鉄鋼株指数はそれ以来27%下落。鉄筋と線材の先物価格はそれぞれ歴史的高値からの下落率が24%と31%となり、年初来の値上がり分をほぼ帳消しにしてしまった。

5月に最高値を記録した大連商品取引所の鉄鉱石先物価格も、足元はそこから45%以上も低い水準で推移している。

<不透明な先行き>

 

不動産とその関連産業は、今年の中国の国内総生産(GDP)に占める比率が28%と、ピークだった16年の35%から低下したとはいえ、なお1つのセクターとして最も大きい。ムーディーズの分析に基づくと、不動産の直接寄与度は7%、建設や機械設備といった供給網の間接寄与度が21%だ。

中国政府系専門機関が予想する来年の鉄鋼需要は0.7%減、今年の見込みは4.7%減となっている。

フィッチ・ソリューションズは最近の顧客向けノートに、この先、不動産セクター向け与信面の制約が長引けば、不動産各社が原材料を高値で仕入れることができなくなり、建設分野で使用される金属需要を押し下げかねないと記した。

建設支出の縮小が続いた場合、中国製造業の重要な一翼を担っている白物などの家電生産に影響が出てくるだろう。

HSBCのアジア経済調査共同責任者、フレデリック・ニューマン氏は「これまで20年にわたって不動産・建設は中国経済のエンジンだった。建設活動がまだかなりの期間、抑え込まれそうな点からすると、経済成長は1段階ないし2段階減速するのは避けられない」と指摘した。

(Min Zhang記者、Ryan Woo記者)


良心と良識 全斗煥大統領は悪人だったか

2021-12-27 15:31:38 | 日記

良心と良識 全斗煥大統領は悪人だったか
 
日付: 2021年12月01日 00時00分
 

 全斗煥元大統領の逝去と葬儀を伝える国内外メディアの報道は、本当に多くのことを考えさせられるものだった。大半の報道は、官庁で配るプレスリリース資料を紹介するような感じだった。
あるいは辞書から、ある単語や事件の概要を紹介するように報道した。一人の人間の死を伝える記事がこのように無責任で良いのかを考えさせられた。良い評ならそれでもいいかもしれないが、人間を死後に厳しく苛酷に報道するときは、最小限の公平性が要求される。すでに死んで反論できない亡者だから特にそうだ。
全斗煥大統領の葬儀はすでに終わったが、5日経った時点で未だに葬地は決まっていない。国家元首として当然受けられるはずの、国立墓地葬儀の礼遇も政治的に許されず、遺言によって遺骨を撒こうとしても許可されない。全斗煥大統領はそこまで悪人だったのだろうか。
もちろん、全斗煥の第5共和国に抵抗し、彼を呪った人々がいたのは事実だ。しかし、そのような人々のほとんどが「極左革命家」だった。全斗煥大統領の5共和国時代を生きた大多数の韓国人は、国内外のメディアの悪意に満ちた冷酷な報道とは違う記憶を持っている。その時代は韓国社会には活気があり、個人は自由と安全を享受し、希望と計画を持って自分の生を送った。庶民が貯蓄でき、家や自家用車を買う夢を持っていた。
全斗煥大統領の第5共和国は、東西冷戦が最高潮期の熾烈な理念戦争の時代だ。全大統領は、大韓民国憲法と自由民主体制の価値を守るために献身した。大韓民国を抹殺しようとした金正日は、全大統領の海外歴訪先にまで追いかけ、爆弾で暗殺を試みた。全斗煥大統領が大事にしていた大韓民国の人材が爆弾テロで犠牲になった。
少なからぬ人々が、全斗煥大統領が1980年5月の光州事態で犠牲者が出たことに対し責任があると誤解している。全大統領は光州事態の犠牲者の発生に何の責任もない。彼よりも責任を負わねばならない人々の方が多い。
全斗煥大統領を悪魔化したのは金正日と朝鮮労働党であり、彼らに追従していたいわゆる「主思派」だ。金正日と朝鮮労働党は、韓国を民主化するため全斗煥大統領を殺そうとしたのか。韓国全国の大学教授たちの集りである「社会正義を望む全国教授会」(正教会)は、全斗煥元大統領の葬儀が行われた11月27日、「全斗煥元大統領の葬儀に際して」という声明を発表した。6200人の教授たちは、全斗煥大統領を悪魔化し、彼の良心の自由を否定した世論に対して怒りを表した。また、一カ月先に死亡した盧泰愚元大統領と全斗煥元大統領の葬儀において、青瓦台と政界が見せた異常を指摘した。この異常さを北韓政権の独裁者に対する態度と比較すると、より一層目立つ。戦犯で野蛮的独裁者、虐殺者である金日成の回顧録の販売は許しながら、全斗煥元大統領の回顧録に対しては販売禁止を下した。文在寅政権と司法府は、この時代の狂気を助長したことに対して責任を負わねばならない。
「5・18光州」を聖域化してきた勢力がある。彼らは法を作って「5・18」に対する批判はもちろん、研究まで禁じている。彼らは金日成の南侵戦争、金正日の虐殺と国家テロ犯罪、そして中共全体主義に対する批判や非難はしない。
左翼は「良心の自由」を強調してきた。ところが、彼らは他人の良心の自由は認めない。彼らは全斗煥大統領に暴力的に謝罪を強要した。彼らは元大統領の良心の自由を否定し、彼がしなかったことに対して謝罪を強要する。
事実、全斗煥大統領は韓半島の歴史上、画期的に個人の良心の自由を拡大し、連座制を廃止した大統領だ。その全斗煥大統領の良心の自由を否定するのは、人間の道理ではない。


激烈だった共産党の反皇室運動 それでも天皇は…

2021-12-27 15:01:29 | 日記

激烈だった共産党の反皇室運動 それでも天皇は…

地方巡幸中の昭和天皇を奉迎する群衆。行く先々で涙の万歳が響きわたった=昭和21年10月、名古屋市
地方巡幸中の昭和天皇を奉迎する群衆。行く先々で涙の万歳が響きわたった=昭和21年10月、名古屋市

昭和天皇の御製のうち、代表作の一つとしてしばしば引用される和歌が詠まれたのは、昭和21年1月の歌会始だ。

ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松そをゝしき 人もかくあれ

同じ歌会始で、貞明皇后はこう詠んでいる。

よのちりを しつめてふりし しら雪を かさしてたてる 松のけたかさ

昭和初期にはベクトルが異なり、それが和歌にもあらわれていた二人だが、敗戦という未曽有の国難に直面したいま、思いは一つだったようである。

この年の日本は、実情にそぐわないGHQの改革指令もあり、社会のあらゆる面で混乱が生じていた。

皇室に関わる問題でいえば、天皇を「象徴」とするGHQ製の新憲法案が3月に押しつけられ、国会審議をへて11月に公布される。前年に合法化された共産党が激烈な反皇室運動を展開し、マスコミが急速に左傾化したことも混乱に輪をかけた。

5月19日には皇居前広場で「飯米獲得人民大会」が行われ、共産党員が「朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね」のプラカードを掲げて群衆をあおる騒動もあった。

終戦直後の外相、重光葵が手記に書く。

「(共産党員は)直ちに反政府及び天皇制反対の共産宣伝示威運動に加わった。占領軍は、天皇制に対する国民の批判を奨励し、数多の新聞紙及び放送局は、共産党の実勢力に帰した…」

こうした中、昭和天皇は自ら全国各地を巡り、国民を直接励まそうとする。21年2月以降、米軍統治下の沖縄を除く全都道府県を8年がかりで訪問。被災地域や復興状況を視察し、気さくに声をかけて回ったのだ。

共同宿舎の戦災者に「冬は寒くないか」、復員軍人に「ご苦労だつたね」、引揚者に「よく帰つて来て呉(く)れたね」、子供たちにも「父母は無事でしたか」…。

各地の国民が熱狂して迎えたのは言うまでもない。万余の群衆に囲まれて車列が立ち往生したことも一度や二度ではなかった。行く先々で奉迎者が泣きながら万歳を絶叫し、宿泊所では提灯行列が途切れることなく続いた。ときには昭和天皇の列車を見送る群衆が「停車場構内はおろか、線路の上にまで飛び出して、列車の後を慕(した)つて追ひかけて来た」と、侍従長の大金益次郎が書き残している。

× × ×

そんな昭和天皇が香淳皇后とともに、沼津御用邸を訪れたのは6月17日である。静岡県の戦災者らを慰問する地方行幸の途中で、3人で昼食をとった後、昭和天皇は視察先へ向かったが、香淳皇后はとどまって御用邸に一泊した。

おそらく、貞明皇后を慰めようとしたのだろう。2カ月余り前の4月5日、生母の野間幾子が死去したからだ。数え98歳の大往生。貞明皇后はしばらく外出をひかえ、別れを悼んでいた。

皇后と皇太后が一つ屋根の下で一夜を過ごすのは異例のことだ。二人は夜遅くまで語り合い、翌日は御用邸裏の海岸を散策するなどした。

夕方、二人は一緒に沼津駅へ行き、視察を終えた昭和天皇を迎える。このとき昭和天皇は、ホームに降りると貞明皇后の手をとって列車内に招き入れ、3人でしばし歓談した。

その様子は母への愛情にあふれ、「(集まっていた)群衆はみな感激して万歳を唱へ、君ケ代を唱和した」と、皇太后宮大夫の坊城俊良が述懐する。

しかし、貞明皇后はわが子に、周囲には漏らせぬ苦悩を感じ取ったはずだ。

昭和天皇は当時、各宮家の処遇について重大な決断を迫られていたのである――。(論説委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)