日本と世界

世界の中の日本

 アヘンの密輸をやめさせようとした中国(当時は清国)に対し、イギリスは世界最強の艦隊を送り、2年余りにわたって戦争

2021-12-10 18:42:32 | 日記
アヘン戦争 どう伝わったか
観光客でにぎわうアヘン戦争博物館(広東省東莞市)の前に立つ林則徐の銅像。林則徐が生まれた福建省は、アヘンを吸う習慣が最初に広まった。弟もそれで早死にしたというから、怖さを痛感していたに違いない=小宮路勝撮影
知の情報ルート
◇高杉晋作(たかすぎ・しんさく)(1839~67年)長州藩(現在の山口県)の出身。江戸幕府を倒そうとした勢力の中心人物。志のある下級武士や農民、町民を集めた「奇兵隊」をつくったことで有名。明治維新の成果を見ることなく、病死する。(写真は国立国会図書館提供)
 アヘン戦争は、いまも生きている。
 そのことを身にしみて感じているのは、中国の瀋陽と大連の拘置所にいる日本人3人かもしれない。
 いずれも日本に麻薬を運ぼうとしてつかまり、死刑判決を受けて控訴中だ。中国人なら死刑確定はまぬがれないという。司法当局は外国人だから慎重に判断しようとしているというが、関係者は「麻薬犯罪はアヘン戦争の歴史がある中国では敏感なものだ。安易な判断はできない」と語る。
 アヘンの密輸をやめさせようとした中国(当時は清国)に対し、イギリスは世界最強の艦隊を送り、2年余りにわたって戦争をくりひろげた。そのアヘン戦争の現場は、いまどうなっているのだろうか。
 戦争の発端となった広東(コワントン)省を訪ねると、東莞(トンコワン)市内だけで三つもゆかりの博物館ができていた。「林則徐(リン・ツォーシュイ、りん・そくじょ)記念館」「アヘン戦争博物館」「海戦博物館」。激戦を交わした砲台のあとや、林則徐がイギリス商人らからとりあげたアヘンを処分した人工池も再現されている。
 6月26日は、国連で決めた「国際麻薬乱用撲滅デー」だ。「麻薬を焼く儀式をしたり、団地をまわって麻薬撲滅の講演会をしたりするんです」。三つの博物館を管理する孫広平(スン・コワンピン)部長は準備に忙しそうだった。
 当時の中国人は、アヘン戦争をどう受け止めたのか。敗北によって香港を奪われ、これをきっかけに植民地のようになっていったのだから、危機感を深めたに違いない。そう思って北京大の王暁秋(ワン・シアオチウ)教授に聞くと、意外な答えが返ってきた。
 「清朝の皇帝は、領土は失っても地位は守られたと考え、宴会もやめず、ぜいたくな生活を続けた。アヘン戦争から20年たっても反省もせず、無駄にすごしたんです」
 北京にいる皇帝にとって、戦場は2000キロも南だ。近くの天津に攻めてこられると、あわてて林則徐をクビにしたが、戦後の南京条約を皇帝が「万年和約」と呼んだように、さらに列強の侵略が続くという危機感は乏しかった。
■欧米の本を翻訳 情報集めた林則徐
 それでも、何とかしようと考えた人はいた。とりわけ林則徐は、必死に欧米の情報を集めたようだ。世界地理や歴史の本を訳させ、失脚後は親友の魏源(ウェイ・ユワン)にあずけた。
 それをもとに魏源は『海国図志』という本を書いた。初版はアヘン戦争が終わった直後にでき、1852年には100巻もの大著になった。各国の情勢のほか、西洋の船や大砲などを図つきで解説し、「西洋の長所を学んで、西洋の侵略を制する」という戦略を論じたものだ。
 王教授は日本に研究に行ったとき、『海国図志』を訳した本の種類の多さに驚いたという。「黒船」でやってきたアメリカのペリーが日本に開国を求めたのは、1853年のこと。その翌年からの3年間だけでも21種類にのぼっていた。アメリカに関する部分に絞ったものが8種類もあった。
■オランダから清の苦戦知った日本
 林則徐の遺産は本国では実らず、日本で花開いていたのだ。佐久間象山(さくま・しょうざん)、吉田松陰(よしだ・しょういん)、西郷隆盛(さいごう・たかもり)……。幕末から明治維新までの動きに影響を与えた人たちはほとんど、『海国図志』の熱心な読者だった。
 「知の情報ルート」。北海道大の井上勝生(いのうえ・かつお)教授は、そう呼ぶ。「中国は実にりっぱな本をつくる。その翻訳のおかげで、日本はアヘン戦争後の世界を知り、のちの明治維新政府も『万国公法』(国際法)などを読んで外交に役立てた」というのだ。
 アヘン戦争の速報は、また別の情報ルートからもたらされた。長崎に来るオランダ船からの情報である。
 オランダは開戦直後に、木の葉のようにとばされる清国の苦戦ぶりを伝えた。その後、中国船がイギリスの占領や清兵の多くが死んだことなどを知らせてきた。
 当事者の中国から生々しい情報が届き、オランダからは西洋側の情報が送られる。誤報もあったにせよ、この複眼のような情報によって、日本はほぼ正確な事実をつかむことができたのだった。
 ショックを受けた江戸幕府の老中(いまの首相)、水野忠邦(みずの・ただくに)は「天保の改革」に力を入れる。西洋流の砲術演習の一方、外国船が近づいたら打ち払えと命じていたのをやめて、燃料や水を与えるようにした。
 水野は江戸と大坂の周辺を直轄地にしようとして失脚するが、その後も幕府は情報集めに努めた。ペリーの来航にしても、オランダからの知らせで事前にわかっていた。そのうえで、清が敗れたアヘン戦争を教訓に、戦争を避ける方針をとった。
 「幕府は無策ではなく、国力に応じた周到な準備をしていた」と井上教授は言う。米国から一方的に不平等条約を押しつけられたという定説が修正を迫られつつある。
 王教授と井上教授がともに注目する人物がいる。ペリーに同行し、日本側と漢文でやりとりする通訳をつとめた羅森(ルオ・セン)という中国人だ。
 羅森は幕府の役人たちと親しくなり、問われるままに中国の実情を教えた。「隣人を愛し、みなと仲良く暮らさねばならない」。幕府側の平山謙二郎(ひらやま・けんじろう)がそんな手紙をよこしたのに対して、羅森はアヘン戦争で戦った自分の経験を返事に書く。
 「私腹を肥やすことだけに熱心な政府の役人は、私の貢献や努力を一顧だにしませんでした。このため私の心は外国に旅することに向けられ、この蒸気船に乗ってここまでやってきたのです」
 この数年後には、中国に行く日本人も増える。アヘン戦争で開港された上海が国際都市への道を歩み始め、世界を見る窓になりだしたのだ。
 長州藩(現在の山口県)の高杉晋作(たかすぎ・しんさく)は1862年、幕府の使節の随員として上海に行き、農民たちが決起した太平天国軍の銃声を聞く。わがもの顔のイギリス人やフランス人、それをこそこそとよける中国人。日本がこうなってはいけない。そんな気持ちを強めた。
 帰国後、高杉は下級武士や農民たちを集めて、それまでの武士軍団とは違う「奇兵隊」をつくり、倒幕戦争を担っていく。
 長州と結んで幕府を倒すことになる薩摩藩(現在の鹿児島県)には、特別な情報ルートがあった。日本と中国の両方に属する形で、双方に使節を送っていた琉球王国(現在の沖縄県)からの情報だ。
 中国南部の福州に行くと、琉球からの使節や商人の宿泊施設となっていた館が「福州琉球館」という博物館になっていた。アヘン戦争のころの年号がきざまれた琉球人の墓も残る。林則徐の生地でもある。
 ここから直接入ってくる情報は、貴重だった。それだけではない。アヘン戦争が終わると、フランスとイギリスの軍艦が前後して那覇にやってきて通商を求めた。列強の力を知った薩摩はいち早く開国論に転じ、やがて倒幕へと向かったのだった。
■清朝寄りの朝鮮 楽観し、行動せず
 さて、中国と日本の間にある朝鮮にはアヘン戦争情報はどう伝わり、どんな変化をもたらしたのだろうか。
 ソウルにある崇実(スンシル)大の河政植(ハ・ジョンシク)教授に疑問をぶつけてみた。
 朝鮮は日本と違って、清と朝貢関係を結び、華夷秩序(かいちつじょ)にしっかりと組み込まれていた。毎年少なくとも1回は、北京に使節を送っており、その目で直接に中国を見ることができた。だからといって、日本より正確な情報が伝わったわけではない――。
 河教授は、そう指摘して、なるほどと思える説明をしてくれた。
 まず、情報が清朝側に寄りすぎていた。宗主国の体制がどうなるかが関心事だったからだ。それに、中国は広い。北京はアヘン戦争の戦場から遠く、確かな情報が届かない欠点もあった。
 河教授は言う。「清が領土を失わなかったと誤解したことが大きく影響した。政府が海防の論議をしたような様子もありません。当時は少数の権力集団が国政を掌握し、積極的に問題を解決するような政権じゃなかったんです」
 ただし、第2次アヘン戦争(1856~60年)で北京が陥落したという情報が入ると、さすがの朝鮮王朝もあわてたようだが、なかなか行動には現れなかった。
 「朝鮮は貧しくて欧米がほしいものはないから攻めてこないだろう、などと楽観していました。情報の活用は、情報そのものよりむしろ、それを使う者の意思や態度の問題だということでしょう」
 河教授の指摘の重さは、現代でもまったく変わらない。
 アヘン戦争が起きたように、東アジアへのイギリス、フランス、アメリカなどの進出は、日本を開国に向かわせ、明治維新という大変革が始まる。その明治維新は東アジアに何をもたらしたのか。
(隈元信一、古谷浩一)

キーワード:アヘン戦争
 1840~42年、麻薬のアヘンの貿易をめぐって起きた中国(当時の清国)とイギリスによる戦争。
 ケシの実から作られるアヘンには鎮静作用があり、中国ではパイプで喫煙する習慣があった。しかし、風紀の問題などから清朝はたびたびアヘン禁止令を出してきた。
 一方、18世紀後半には産業革命を経たイギリスで紅茶を飲む習慣が庶民に広がり、中国から大量に茶を購入し、貿易赤字となった。このためイギリスはアヘンを植民地だったインドでつくらせ、中国に密輸して、貿易の不均衡を解消しようとした。
 アヘン流入によって、中国の国内経済は混乱した。清朝の皇帝は1839年、林則徐を特命全権大臣に任命し、貿易の拠点・広州に派遣した。林は大量のアヘンを没収して廃棄処分にし、イギリス商人らを追放した。
 イギリス政府はこうした措置に反発し、開戦を決定。議会では、後に首相となるグラッドストンらが開戦に反対したが、小差で派兵関連の予算を承認。1840年に最新鋭の軍艦で広州など沿岸部から攻撃を始めた。
 1842年、イギリス軍は北京に近い天津の沖に迫ったため、清は屈服。南京条約を締結し、賠償金の支払い、香港の割譲、上海、広州などの開港を受け入れた。
キーワード:華夷秩序(かいちつじょ)
 中国の皇帝を頂点とする階層的な国際関係を指す。古来中国にある自分たちは優れた文明を持つ世界の中心(中華)で、周囲は未開の野蛮人(夷)であるとの考え方に根ざす。具体的には、中国皇帝の恩恵を受けるために朝鮮など周辺の国々は貢ぎ物をし〈朝貢(ちょうこう)〉、代わりに皇帝が王と認める〈冊封(さくほう)〉という形をとった。アヘン戦争時は、朝鮮、琉球、ベトナムなどが中国と「朝貢・冊封関係」を結び、中国を「宗主国(そうしゅこく)」と位置づけていた。日本は古代や室町時代には関係を結んでいたが、当時は離脱していた。




中曽根康弘元総理 国鉄や電電公社、専売公社の民営化がまず挙げられると思いますが、実は年金についても中曽根元総理は大きな改正

2021-12-10 18:19:06 | 日記
2019年11月29日に101歳で亡くなった中曽根康弘元総理。

1982年に内閣総理大臣に就任すると、様々な改革に着手。首相在職日数1806日の中で、多くの功績を残しました。

国鉄や電電公社、専売公社の民営化がまず挙げられると思いますが、実は年金についても中曽根元総理は大きな改正を成し遂げていました。

そんな中曽根元総理の年金改正について、著者のhirokiさんが無料メルマガ『年金アドバイザーが教える!楽しく学ぶ公的年金講座』の中で詳しく紹介。

何かと話題になる年金についての歴史や変遷について教えてくれます。

中曽根元総理の大きな功績!昭和60年年金大改正での基礎年金導入

中曽根康弘元総理が101歳で亡くなられましたよね。凄い長生き!

中曽根さんは昭和57年11月27日から昭和62年11月6日まで首相を務めた人ですが、年金の大改革の時の大変な功労者でもあります。

中曽根さんが年金?って疑問に思われた方も多いかもしれないですね
中曽根総理を思い出す時、国鉄(JR)、電電公社(NTT)、日本たばこ産業(JT)の国営だった企業を民営化したというイメージが強いですよね。

年金ではよくこれらを三共済と呼んでます(平成9年4月に厚生年金に統合された企業)。

特に国鉄共済組合は赤字だらけでほとんど破綻寸前だったから、あの時は国家公務員共済や厚生年金からの高額な支援金、そして国鉄自身の大幅な人員整理で何とか経営を立て直した。

国鉄が危機的状況に陥ったのは、戦前戦後に輸送力の増強や海外引揚者(旧満州とか外国に住んでた日本人が日本に帰ってきた)の雇用のために国策に従って大量に雇用した職員が昭和40年代ごろから一斉に退職していったため。

さらに、昭和50年代からの自動車産業の発展により、鉄道産業が縮小されてしまい、昭和30年ごろには50万人ほどいた職員が30万人まで縮小された(平成2年には約20万人まで縮小)。

縮小した職員で退職した職員を支える状態になってしまった。

しかし中曽根内閣の最大の目玉はなんといっても昭和60年の年金大改正である「基礎年金導入」でありました。

よく学校とかに使われてる歴史の教科書とかはさっきの国鉄とかの三公社の民営化あたりが主に書いてると思いますが、中曽根行政改革の最大の目玉は年金改革による基礎年金の導入と、健康保険に本人一割負担を医療保険改革でした。
当時の社会保障分野の行政改革こそ中曽根内閣の最大の改革だった。この時に年金の形が大きく変貌しました。

国民年金の始まった当初の昭和36年4月は元々は国民年金は自営業者とか零細企業の年金制度でした。

自ら定額の国民年金保険料を支払って、自ら備える。

でも産業の変化(農業などの自営業から、急激に会社に雇用される人が増えていった)から、国民年金保険料を支払う人がそもそも減少していった(国民年金→厚生年金への流入)。

このため、国民年金の財政は産業の変化で被保険者が少なくなっていき、赤字になっていきました。

そんな危機的状況にあった国民年金を、昭和60年改正でどんな業種だろうが加入させるという基礎年金制度に変えたんです。

どんな業種(自営業、サラリーマン、公務員)であれ、20歳から60歳までの全員が国民年金(給付は基礎年金)に加入し、その国民年金の財源はみんなの業種に関係なく、公平に保険料を負担しあい、公平に国民年金から老齢基礎年金を支給しようという事になったのであります。

みんなの共通部分の基礎的な給付は国民年金から支払い、その上に過去の給与に比例して年金額が変化する厚生年金や共済を支給しようと。

今もこの形が、年金の形となっています。

中曽根内閣の頃にこの年金の大手術ともいえる改正がなされました。

このようにして国民年金は業種が変わっても影響を受けないものとなり(転職しようが国民年金の被保険者になるから)、財政が安定するようになったのであります。
そして、昭和60年改正時点の見込みとして将来は38%もの厚生年金保険料負担、国民年金は19,500円くらいの負担になるというものでしたが、この昭和60年改正で厚生年金水準や国民年金水準を大幅に引き下げる事により、将来の年金保険料の負担を大幅に引き下げたのです。

たとえば国民年金なら月単価2,000円だったものを1,250円まで引き下げ、25年加入(300ヵ月)したならば2,000円×300ヵ月=60万円(当時の年額)だったものを、20歳から60歳までの40年加入(480ヵ月)で、1,250円×480ヵ月=60万円というふうに年金額を大幅に引き下げました。

今まで25年加入で貰えた年金額を40年加入しないと貰えない金額になった。
厚生年金も大幅に引き下げたんですが、厚生年金は内訳に対して説明が長くなるのでこの記事では割愛します。


盧泰愚・全斗煥…故人となった両大統領への反応に透ける、韓国社会の「赦し」の感覚

2021-12-10 17:27:02 | 日記
盧泰愚・全斗煥…故人となった両大統領への反応に透ける、韓国社会の「赦し」の感覚

徐台教ソウル在住ジャーナリスト。

「ニュースタンス」編集長11/29(月) 16:23

故全斗煥元大統領(左)と故盧泰愚元大統領。大統領記録館より引用。

ここ一か月の間に、韓国の現代史に大きな影響を与えた二人の元大統領が続けて世を去った。

79年にクーデターで権力を簒奪した全斗煥(チョン・ドゥファン)と、全氏の後を継ぎ87年の民主化以降初の大統領となった盧泰愚(ノ・テウ)の両氏だ。

だが、陸軍士官学校の同期で、クーデターと翌80年の『5.18光州民主化運動』弾圧に深く関わった二人への韓国市民の評価は大きく異なる。

それは生前の過ちに対する「悔悟」の差から来ている。そしてこれは、日本に対する韓国市民の感覚につながると筆者は考えている。

●「国家葬」の盧泰愚


10月26日、88歳の盧泰愚元大統領の死去が伝えられるや、韓国社会では盧氏の「評価」をめぐる論争が起きた。

これは「功過」、つまり功績と過ちを分けて考えるべきという立場と、償わなかった過ちの方が大きい、という意見の対立といえる。

盧泰愚氏の功は、大きく二つに分けられる。

一つ目は体制の転換をスムーズに成し遂げた点だ。

全斗煥の軍事独裁政権期(1979年末〜88年2月)に政権のナンバー2として中心部に居続けた盧氏は、87年6月の民主化宣言(6.29宣言)を政府側の人物として発表し、直接選挙で争われることになった同年12月の大統領選で当選する。

そして、前任の全斗煥政権との差別化に乗り出すことになる。

政治における軍人の影響力を削ぐと共に、やはり全政権下で統廃合されるなど不当な干渉を受けていたメディアの自由化を進めた。

さらに経済成長が続く中で、大規模な住宅の供給も行うなど中産層の生活向上にも努めた。88年にはソウル五輪も成功させる。

これらの点から軍事政権から文民政府(93年に発足した、非軍人出身の金泳三[キム・ヨンサム]政権をこう呼ぶ)への橋渡しを安定的に行ったと評される(だが本人は自伝の中で「全政権清算」については非常に消極的な立場を明かしている)。

二つ目の功としては、「北方外交」「北方政策」と呼ばれた外交が挙げられる。

ソ連崩壊と東西冷戦の終結という転換期の中で、中ソを代表とする共産圏の国家と次々に国交を結んだ。その数は45か国にのぼり、韓国の国際的地位を急速に高めた。

これは同時に、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との関係性において圧倒的な優位に立つことにつながった。

北朝鮮への敵視を止めた88年の「7.7宣言」から91年の国連への南北同時加盟、そして同年の米軍の戦術核撤去と『南北非核化宣言』そして『南北基本合意書』に至るまで、韓国主導の南北関係を確立した。

これは後の金大中(キム・デジュン)政権下における「包容政策」に受け継がれている。

【参考記事】[全訳]民族自存と統一繁栄のための大統領特別宣言(7.7宣言、1988年7月7日盧泰愚大統領)

一方の「過」についてはやはり、79年のクーデターと1980年の光州民主化運動の弾圧の中心人物であった点が挙げられる。

盧元大統領は3年前から、息子の盧載憲(ノ・ジェホン)弁護士を弾圧の現場であった光州市に訪問させ、光州民主化運動の遺家族に謝罪を行っている。

だが十数年間病床にあったとはいえ、本人の口から謝罪はなく、真相究明にも協力しなかった部分は決して看過できないという意見も根強い。

こうした議論のかたわら、盧元大統領の葬儀は政府による「国家葬」で営まれた。葬儀委員長を務めた金富謙(キム・ブギョム)国務総理は弔辞で以下のように述べた。

私たちは国家葬に反対する国民たちの気持ちも充分に理解します。どんな謝罪でも5.18と民主化の過程で犠牲となった英霊たちをすべて慰労することができないことを私たちは知っています。

しかし全ての歴史は現在の歴史です。過去は葬られるのではなく、私たちの共同体が共に作り上げていく歴史として、常に生きています。

今日の告別式は故人を哀悼する場であると共に、新たな歴史、真実の歴史、和解と統合の歴史に向かう省察の場となるべきです。


●全斗煥の死には批判一色


盧泰愚氏の死を聞き「涙を流した」とされる全斗煥元大統領は、11月23日に90歳で死去した。

しかし、前述したような盧元大統領の時とは異なり、功過をめぐる議論はほぼ無かった。

理由は、選挙で当選した盧氏とは違い、全氏が権力を握る過程が違法なクーデターであった上に、大統領在任期間にメディアの統廃合や思想矯正施設の運営を行い、民主化運動を強く弾圧し続けるなど、一貫して民主主義と逆行する政治を続けてきたからに他ならない。

そして何よりも、民主化を求める市民に対し完全武装の特殊部隊をぶつけ、200人以上の市民が犠牲となった80年5月の「光州民主化運動」弾圧が大きな影響を及ぼしている。

全氏は当時、最高権力者として事に臨んだにもかかわらず、弾圧に対する謝罪を直接・間接的に一度も行っていない。

全氏はさらに、2017年には回顧録を通じ、当時の鎮圧側(戒厳軍)によるヘリ射撃を証言した人物の名誉を毀損する記述を行ったとして裁判中の身だった。

裁判に出席する際に「光州の人々に謝罪しないのか」と聞く取材陣に「なんだと!」と声を荒げる姿は全国に報じられ、反省しない印象をさらに強めていた。なお裁判の一審は有罪で、年内に二審判決があると見られていたが、死亡により裁判は終了となった。

一方の青瓦台(大統領府)も「国家葬」はおろか、弔花も弔問も行わないなど、盧氏とは徹底した差別化をはかった。

光州市内にある旧全南道庁と、518民主広場。1980年5月、光州民主化運動の中心地となった。21年5月、筆者撮影。

●両氏の「差」


功過を飲み込んだ上で「国家葬」が行われた盧氏と、議論の余地すらなかった全氏。この差は謝罪の有無にある。

だが、話はそう簡単ではなかった。

盧氏の「国家葬」の賛否をめぐり文政権側にも議論があったからだ

筆者の取材によれば、盧氏の遺族側や光州民主化運動の遺家族といった人々と政府との間の意思疎通があり、しっかりと判断した上での決定だったこと分かっている。

特に生前、盧氏が謝罪の意をいかに表明していたかが焦点となっていた。

息子を光州に送り謝罪させた背景に盧氏の意思が明確にはたらいていたのか、結果としてこの点で異論の余地がなかったことが「国家葬」を決める契機になった。

また、盧氏・全氏ともに1997年の最高裁判決で内乱目的殺人罪などが確定した後、恩赦となっているが、その際に日本円で200億円以上の追徴金が課せられていた。

盧氏はこれを完済したものの、全氏はまだ100億円近い金額が未納となっていた。にもかかわらず全氏はゴルフを楽しみ、「全財産は29万ウォン(約3万円)」と言ってはばからなかった。

また、両氏の遺族の反応も対照的だった。盧氏の息子、盧載憲弁護士は10月26日に出した声明の中で、盧泰愚氏の以下のような遺言を公開した。

自らに与えられた運命を謙虚にありのまま受け止め、偉大な大韓民国と国民のために奉仕することができて、とても有り難く光栄だった。

自分なりに最善の努力を果たしたが、それでも不足している点や私の過誤に対し深い容赦を望む。

自身の生涯に成し遂げられなかった南北韓の平和統一が次世代によって必ず成し遂げられることを願う。

一方、全氏の妻・李順子(イ・スンジャ)氏は27日の告別式で「夫の在任中に苦痛を受けた方達に、夫に代わって深い謝罪を申し上げたい」と述べた。

この短い一文の解釈をどう解釈すればよいのか。

答えは全氏の在任中に大統領府高官を務めた人物によりもたらされた。「5.18(光州民主化運動)に対するものではない」というのがそれだ。

全氏は1980年9月1日に大統領に就任しているため、同年5月に行った光州市民への武力弾圧は謝罪の対象に含まれない、ということだ。

1996年、法廷で手をつなぐ盧泰愚(左)、全斗煥両氏。(写真:ロイター/アフロ)

●受け入れられる「謝罪」がある


筆者が韓国に来たのは1999年であるため、両大統領の時代を生きた訳ではない。韓国政治や南北関係に関する取材する過程で両氏の時代に一定の知識を得ていたとはいえ、ここまで両氏の評価が克明に分かれる姿は、非常に興味深かった。

特に、盧元大統領への「赦(ゆる)し」を、文在寅政権が政治的な負担を抱えてまで行った点は印象的だった。

盧氏が死去してすぐ、ネット上でたくさんの知識人が発言をしたが、その中には「国家葬」に反対する声が少なくなかった。こうした人々は進歩派と呼ばれる文政権の支持層でもある。

だが、文政権は「和解と統合の歴史のため」(前出の弔辞より)赦しを選択し、結果としてこれは大きな混乱もなく韓国社会に受け入れられ、盧氏の「評価」となった。

盧氏の告別式後に行われたある世論調査では、55.5%が「国家葬」を支持するとされた。

もちろん、政治的な目論見もあった。

盧泰愚氏を赦し、全斗煥氏を赦さないという「価値判断」を進歩派が行うことで、韓国政治の主流を進歩派が占めようという意識がそれだ。

ただ、前出の弔辞の中で「在任時の多くの功績よりも私たちの心を動かしたものは、故人が遺言を通じ、国民達に過去の過ちに対する謝罪と容赦を求める意を明かしたことだ」とあるように、心からの謝罪なくして「赦し」も無かったことは明白だ。

いずれにせよ筆者は、こうした過程を見ながら昨今の日韓関係を考えざるを得なかった。

今や日本の主流層となった韓国に批判的な人々は、「どんな謝罪をしても、いくら謝罪をしても韓国は受け入れない」と思うかもしれないが、盧氏のケースは韓国進歩派や韓国社会が受け入れる謝罪が明確に存在するという事実を浮き彫りにしたからだ。

折しも日韓間の喫緊の解決課題である徴用工裁判問題においては、「被告企業の謝罪(日本政府ではない)」が大きな争点の一つになっている。

盧泰愚・全斗煥という両大統領に対する韓国社会の今回の反応は、徴用工裁判の被告企業はもちろん、忘れた頃に被害者の心を傷つける発言を行う日本の右派政治家たちに必要なものが何かを知る、格好の材料ではないだろうか。


徐台教
ソウル在住ジャーナリスト。「ニュースタンス」編集長


群馬県生まれの在日コリアン3世。韓国・高麗大学東洋史学科卒。1999年から延べ20年近くソウルに住みながら、人権NGO代表や日本メディアの記者として朝鮮半島問題に関わる。2015年、韓国に「永住帰国」すると同時に独立。2016年10月から半年以上「ろうそくデモ」と朴槿恵大統領弾劾に伴う大統領選挙を密着取材。その過程をまとめた「韓国大統領選2017」が多くのアクセスを集める。2017年5月からは韓国政治、南北関係を扱う「コリアン・ポリティクス」を創刊。2020年2月に朝鮮半島と日本の社会問題を解決するメディア「ニュースタンス」へとリニューアル。ソウル外国人特派員協会(SFCC)正会員。



ロシアが唐突な反日「歴史戦」 名越健郎(拓殖大学海外事情研究所教授)

2021-12-10 17:13:51 | 日記
2021.11.17 (水)

ロシアが唐突な反日「歴史戦」 名越健郎(拓殖大学海外事情研究所教授)

歴史認識問題での日本批判は中国と韓国が定番だが、今年はロシアがそれに加わってきた。

ロシアはこの夏以降、第二次世界大戦中の日本の侵略行為を批判したり「戦争犯罪」の文書を公開したりしており、中韓以上の「反日」が目立つ。

スパイ・ゾルゲの再評価も

ロシア外務省のザハロワ報道官は終戦記念日の8月15日、外務省声明を出し、「中国や韓国、東南アジアで日本の軍国主義者によって何百万もの人々が亡くなった」と批判した。

報道官は、事実上の対日戦勝記念日(ロシアでは9月3日)にも声明を出し、「日本はいまだに、第二次大戦の結果について国際的に受け入れられている評価を共有していない」と非難した。

9月には、細菌研究を行った関東軍「731部隊」の関係者を戦犯として裁いたハバロフスク裁判(1949年)を回顧する大規模な学術会議が開かれ、プーチン大統領は「第二次大戦に関する歪曲を防ぎ、歴史を保存すべきだ」とのメッセージを寄せた。

この前後に、シベリア抑留中の関東軍元幹部らの尋問記録が次々に公表された。

戦前、東京で活動した旧ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲを再評価する動きも目立つ。

旧ソ連が日ソ中立条約を破って対日参戦して、北方領土を占拠し、関東軍将兵をシベリアに抑留したのは「火事場泥棒」だが、プーチン政権はそれを無視し、なりふり構わず対日歴史戦を展開している。

無視も外交戦術として得策か

ロシアの唐突な反日歴史攻勢の背景には、安倍晋三元首相の平和条約交渉が失敗した反動もあろう。

ロシアの日本専門家は「プーチン政権はこの際、日本の北方領土返還要求を完全に封じ込めるため、情報・プロパガンダ戦に乗り出した」と分析していた。

政権が高揚させた愛国主義や戦勝神話はピークに達しており、昨年、「祖国防衛の偉業を過小評価することを禁止」する憲法改正も行われた。

30年前のソ連崩壊直後、改革派のエリツィン大統領は、大戦末期のソ連の拡張主義など「スターリン外交の過ち」を非難し、シベリア抑留問題で日本側に公式に謝罪した。

プーチン体制下で歴史認識は逆転したが、現在の「反日」は政治的要因が大きく、政権が交代すれば、また歴史認識も変わるだろう。

日本政府・外務省はこうした身勝手な主張に抗議や反論をしていない。

反論すれば、中韓両国が悪乗りする恐れもあり、無視することも外交戦術としては得策かもしれない。


10年前、金正恩氏は父の死に衝撃受け、「本当に、空が崩れ落ちたような心情」と吐露

2021-12-10 16:15:21 | 日記
10年前、金正恩氏は父の死に衝撃受け、「本当に、空が崩れ落ちたような心情」と吐露

西岡省二ジャーナリスト12/7(火) 11:04
  • 2011年12月24日、錦繍山記念宮殿(当時)を弔問する金正恩氏=労働新聞より
 北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)総書記が最高指導者になって間もなく10年になる。公式メディアは「革命領導の10年」などの用語で金総書記の業績を振り返るとともに、忠誠心を鼓舞する報道を連日のように続けている。金総書記のその「革命領導」はいつから始まったとみるべきなのか。

◇三つの節目
 10年前を振り返ってみる。
 金総書記の父、金正日(キム・ジョンイル)氏が2011年12月17日、69歳で亡くなった。19日には朝鮮中央テレビが「特別放送」を予告したうえ「17日午前8時30分、現地指導の途で急病により逝去したことを、最も悲痛な心境で知らせる」と伝えた。告別式は28日に営まれ、その2日後に開かれた朝鮮労働党政治局会議で、金正恩氏は朝鮮人民軍最高司令官に任命された。まだ27歳だった。
 年が明けた2012年4月11日の党代表者会で、新たに設置された「党第1書記」に、同13日に開かれた最高人民会議第12期第5回会議で、同じく新設の国防委員会第1委員長に、それぞれ推戴された。この時点で、金正恩氏は軍、党、国家の三つの最高指導者ポストに就いたということになる。
 北朝鮮では3代にわたって権力が世襲されてきた。この観点でみれば、金正日氏というリーダーが失われた時点で、金正恩氏はその地位を引き継いだことになる。一方、北朝鮮の権力の源泉が軍部にあるという観点に立てば、軍最高司令官に任命された時が起点ともいえる。さらに、北朝鮮における「すべての活動」は朝鮮労働党の指導の下にあるという点から考えれば、党代表者会で党の最高位に就いた時に権力を掌握したともいえる。
 ちなみに、金正恩氏の祖父・金日成(キム・イルソン)氏から金正日氏が後継体制を引き継いだ際、党中心ではなく独断専行の形で国家運営を進めた。北朝鮮からみれば、当時は冷戦崩壊に伴う「危機管理体制」にあり、軍優先の「先軍政治」という異例の形態をとっていたのだ。
 一方、金正恩体制への移行には十分な時間はなく、金正恩氏が若かったこともあって、金正日氏が生前、党中心の国家運営のシステムを組み立て、金正恩氏を補佐する後見人として、義弟の張成沢(チャン・ソンテク)氏=2013年12月に処刑=や、軍総参謀長などを務めた李英鎬(リ・ヨンホ)氏=のちに粛清=ら実力者をあててきた経緯がある。

◇金正日氏死去を伝える日付を金正恩氏が指示
 筆者が入手した金正恩氏の発言録によると、金正恩氏は父親が亡くなった当日、党指導部のメンバーを集めて、金正日氏の健康状態について振り返りつつ、葬儀の段取りなどについて指示していた。
 2011年12月に入って医師団が金正日氏に「健康には特に注意しなければなりません」と伝えていたが、金正日氏はそれを振り切って現地指導に赴いたと記されている。金正日氏の訃報に触れ、金正恩氏は「あまりに突然逝去されたので、本当に、空が崩れ落ちたような心情です」「到底信じられません」と吐露している。
 翌年2月16日に金正日氏が70歳を迎える予定だったため、金正恩氏は「最も有意義に記念する」ことを考えていたという。しかし、それがかなわず、「七旬(70歳)も迎えていただくことができずに旅立たせてしまったことに、さらに心が痛みます」と吐露している。
 金正日氏が亡くなったその日から、金正恩氏はさまざまな指示を出している。金日成氏の遺体が安置されている錦繍山(クムスサン)記念宮殿(現・錦繍山太陽宮殿)に金正日氏の遺体も永久保存すること▽金正日氏の訃報に関する報道を「12月19日に出す」ようにする▽その際、「逝去に関する訃報」としてではなく「すべての党員と人民軍将兵と人民に告げる」とする▽国家葬儀委員会の構成と哀悼期間、弔意訪問期間を知らせよ――などと党指導部に伝えている。
 こうした点を考慮すれば、金正恩氏は、金正日氏が亡くなったその日から最高指導者としての役割を果たしていたとみるのが妥当のようだ。

西岡省二
ジャーナリスト


大阪市出身。毎日新聞入社後、大阪社会部、政治部、中国総局長などを経て、外信部デスクを最後に2020年独立。大阪社会部時代には府警捜査4課担当として暴力団や総会屋を取材。計9年の北京勤務時には北朝鮮関連の独自報道を手掛ける一方、中国政治・社会のトピックを現場で取材した。「音楽」という切り口で北朝鮮の独裁体制に迫った著書「『音楽狂』の国 将軍様とそのミュージシャンたち」は小学館ノンフィクション大賞最終候補作。