言語は事実や現象を充実に表せるだろうか
Can language fully express facts and phenomena?
言語の違いによって
表したい現象に差が生じるだろうか
Would a language make difference when
a phenomenon is expressed with different languages?
私はたまにどの国の言葉で言われているのか
どの国の言葉で言っているのか
気づかないまま理解できる時がある
I sometimes can understand languages without awareness
of the language I am hearing
3つの国の言葉を
無意識的に使っていると
When I use three languages unconsciously
聞いている相手によって
使う言葉が決まってくる
Depending on who is listening to me
I decide which language to use
韓国の人、日本の人、英語圏の人
For Korean, Japanese, English speakers
それぞれ人によって言葉を使い分けている
I use a specific language for each speaker
そうしているうちに混線してきて
While I am using it in such a way, it gets to crosstalk
日本語で聞いているのか
So, it is confusing when I am listening in Japanese
韓国語か、英語かが分別できずに
Korean or English and can’t be aware which language is spoken
言語ツールがごっちゃ混ぜになる時がある
Sometimes my language tools get messed up
言わば、話されている言語が
That is, the spoken language
どの国のものかが意識に昇らなくなり
it is not conscious any more
どこの国の発音なのかも区別ができなくなってくる
the pronounciation becomes indistinguishable
仮に、私が『無我』という現象を
There is a phenomenon of『none-ego 』
ハングルの『ムア』英語の『Selfless』
such as『Mua』in Korean-Hangul or『Selfless』in English
3つの表現法の中から無我そのものを
those three ways to express selflessness
最も正確に表せる言語は何語になるかと問われたら
私はどっちの言語も選ぶことができないだろう
For example, if I asked to answer which country’s word
expresses most accurately the selflessness
I will not be able to pick up either language
『無我』という現象が、言語が生じる以前に
既に存在しているならば
Does『selflessness』as a phenomenon already exist
before language begins to express it
言語は文明と共に気候や風土によって
変貌してきた訳だから
Language has been changed in human civilization
and it is influenced by climate factors and natural features
その無我現象を言語で表すことになると
When the selflessness is expressed using language
国によって音声の差や音感の差が必然的に生じる
It inevitably produces gaps such as sounds differences
or sensing of tone based on a country’s language
『無我』という状態は不変なのに
The state of 『selflessness 』must be unchangeable but
『無我』という程度は
音感や言い方によって大いに変わってくる
the degree of 『selflessness』 changes greatly
according to the tone or way of speaking
昨夜、コーヒーの飲みすぎで
After drinking coffee heavy last night
朝方まで眠れず、言語について考えていたら
I stayed up till dawn wondering about languages
窓から吹いてくる冷たい風が顔に触れてきた
A cold breeze blew through the window and it touched my face
その涼しい風を肌で感じながら
While feeling the cold breeze on my skin
どこの国の言葉がその風の感覚を
ぴったり表せるだろうとあれこれ考えているうちに
I wondered which country’s language
best expresses the sense of breeze
そうならば『無我』という言葉も
国の言語文化によって
捉え方が変わるのでないか思いついたのであった
I have come to think that the meaning of
『selflessness』changes with each country’s language
その時の風の肌感覚は涼しいな状態なので
The sense of a breeze on my skin at that moment felt cool
私一人ではどの言語で言っても
涼しい感覚であることに変わりはない
The cool sense cannot be changed and it stays as a sensor
in any language when I say to myself
しかし、その感覚を私以外の人と共有するようになると
However, when sharing the sense with others
言語の表現法に対する感覚経験値も変わってしまう
their perception will not duplicate my experience
音声や発声は
Audio and utterance
口や舌の動かし方や鼻の響き方によって
rely on movements of mouth and tongue or vibration of nose
脳の言語中枢を刺激する度合いが違ってくるから
the stimulation of language center in the brain to a different degree
話す人も聞く人も
for speakers and listeners
身体感覚の反応領域も発する言語の違いで
どうしても影響されてしまう
the domain of body reaction and sense inevitably influences
different emitting languages
『無我』という現象が
The phenomenon of 『selflessness』
言語の差によって捉え方が変わっていくことからみて
in this point of view the method of interpreting word
changes by different languages
ことばは現象を表すのに不十分であるように見える
Words seem to have insufficient capacity to express phenomenon
同時通訳機械もある現代でさえ
通訳する際の言語のズレは乗り越えられない
Even a modern interpreter machine tool
cannot overcome the gap when doing translation
そのような言語の不完全さから考えると
Thinking of such linguistic imperfections, begs a question
何千年も前の仏陀の教えが何であったか
What was Buddha teaching thousands of years ago
誰も正しく知ることはできないことも明らかになるのだが…
Obviously no one can know it correctly…
放棄しておいたら
毎日のアクセスがガンガン落ちていくから
仕方なく形式的に更新してしまった。
面白くもなにもないことを投稿してしまって
読む人に申し訳ない気持ちでいっぱいだが
こういう低滅の時期も少なからずくるので
開き直ってみようと踏ん張っている。
こういう低滅は
普段の生活で勉強量や研究対象が
少なくなってきたからでもあろう。
以前は常に何かを知ろうとし
新しい知識を追い求めていたのに
近頃は体調がすぐれない言い訳に
生活パータンが乱れぱなしになっている。
今月は準備態勢を整えることに
赴きが入ってしまった。
先月のあのハイな状態が3週間も続いたから
今月は底を這入っている。
バランスか
福岡伸一のいう『動的平衡』なのか...
山口県大学の鈴木隆泰教授の論文の『諸行無常の再考』でも論じられている如く、日本人の『無常』観は釈迦の意図したモノとはとても違うと指摘されてるし、
もともと『諸法無我』だって、
釈迦は、「単に自分の観察する限りではアートマンは見つからなかった」と言っているだけなのに、
日本では全然違う『無我』が強調されてるし、
『一切皆苦』も、釈迦時代では『苦』の古代インド言語はドワッカであり、それは釈迦時代に存在した中心軸のズレた木製の車輪の事(人がそんなガタピシの車・・・馬に引かせた二輪車)の乗るのがとても難儀だったところから来ているし(=即ち、人生はガタピシ車の如し、と言う事)・・・
注;『苦』の英語訳では「unreasonable」という英単語が使われているらしいですが・・・
大体がテレビ番組でやっていた『連想ゲーム』で分かる様に、同じ言語域内でその場に集まっているグループあっても、
第一番の人が思った事と
最後の人が伝え聞いたと思った事は全く異なってしまう訳で、
言語の差感覚は人一人みんな違ってしまうのはしょうが無いみたいですね。
他者から押し付けられた「生」を、みずからが生きると賭けた事が「善の根拠」と言ってるらしいが・・・、
脳科学的に言えば、脳の発達段階で、
自分の行動や言語が相手を傷つけるのを学習した結果、そういう状況を脳の前頭前野で「良心の呵責」を感じる意識(部野)が培われる(=善悪の判断は自然に育成されてくる)という観察をする様だ。
そしてその判断が出来ない脳に育つのがサイコパスの人の特徴だ(=共感脳の欠如)とかというらしいし・・・
こうなると黒●ちゃんの善の根拠は一つの理論である様で、絶対的な唯一無二の正解と言う訳でもなさそうにみえる。
要は、此処にも歴然たる「言語の差感覚」が存在するみたいだね。。。
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無学な何処かの馬の骨風でこの世に現れたイエスはいざ知らないが・・・
(注;イスラム教開祖、軍師モハメッドの場合は、生前に多くの書記によって彼の言語が記録されている)
釈迦は王族の惣領(そうりょう)で、
学識は豊たかご尽(じん)に決まってる(生まれた痔点で天上天下唯我独尊と言った程の大天才痔だった訳だし・・・)。
如何に2500年前の生誕痔であろうとも、当時既に文字があった訳で、痔を読み、痔を掻く事は出来たであろう(注、ホントは【字】であり【時】であり【児】なんです、Tは【痔】が大好きなんです・・・「大迷惑」でしたねゾッ!!)
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で、既成概念に対抗して異端痔症を発病した黒●ちょんが、
『無師迷悟』の対処法として、自分の思想の確認の為には絶体絶命、何としてでも【執筆】をせざるを得ないという心理状態に陥った・・・(そして反響が少なくて焦っちゃった・・・K朕の如くだなァ~!!)。
同様に道元禅師も異端痔を患ったので、【執筆】せざるを屁無かった(注、Tは屁も好きなんです…大迷惑なやっちゃな~、まったく偏りっぱなしだし・・・)
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だからね、何が言いたいかと言えば・・・、
釈迦が、
世に変革を起こしたい、遠い先まで見通した知識人ならば、
何故『俺は書かね~ぜ!!』っていう心理心境に落ち込んじゃったんだ??
そんな筈有り得ね~んじゃなかろうか?、って言うことなんだよね。
書ける人は掻いて書いて書きまくればいいじゃん・・・なぜ書かない??・・・文盲じゃあないんだし周りに筆記できる人もいたろうに・・・当時文字も在ったんだし・・・
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言い訳的いい子いい子解答では
「当時は口伝え(くちつたえ)が【習慣】だった」とか言うが、
もともと釈迦が既成概念的【習慣】クソ喰らえ風の異端痔ならば、
そして全世界に広く問いたい程の強烈新発明的自己主張があるなら【執筆】は絶対必要だ。
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だから当時の状況を逆手に考えると、
実はまだ書き方教室が釈迦王国では施されていないレベルでの知識限定版の世界の出来事であったのか、
釈迦は我が教えは門外不出秘伝だと思って居たのか、
自分の思想は重要ではない平凡で下らない論理の帰結に過ぎないと思って居たのか、
うっかり書き残すと正式なバラモンヤカラに憎まれ毒殺されると死を恐れていたからなのだ・・・、とかとか
深層の大迷惑プロファイリングに迫るも一考(いっこう)だ。
ああ、またまた、今回のK記事で水平思考をしちまった・・・大迷惑現象が起きちゃった!!
Kアクセス病に汚染されて、Tもアクセス傾向みてみれば、
誰のブログでも何の変哲もない普通の事をいうならば、
誰も見向きもしない。
当然書く人だって人気取りで書く訳ではない。
(単に自己確認・・・自己存在証明の為に書くに過ぎない。)
自分は自分、他人は他人・・・それでよい!!
多分、無印良心さんらしいが、いつだかの黒●ッちコメで
「はすのはな」さんのアクセス過敏症は絶対治らない筈!!に(一票)賭けるとかコメントしてたよね・・・
勝てる??
釈迦には主張が無かった・・・
他者のアクセスなんかどうでもよかった・・・
と、いう訳で、
ならばThe【承認欲求】も当然無かった訳で、
ならばこその執筆不要、
『我はただ飄々と浮き世に漂いゆく!!』という心境だったのかも・・・
執筆して世に残す(世に問う)なんて愚者のわざ・・・、
承認欲求だってェ~、おめ~はバカか??
こんな根拠で釈迦は執筆しなかったのかも(口述筆記もふくむ)。
天上天我唯我独尊!!
追って書きたいですが
これから病院に行って診察受けにいくところです。
医療保険って毎月千五百ドールですよね。
Tのところもそんなにばか高いですかね?
もし、Tが痔屁症を例の山で書いたら
忽ち、変人扱いされるでしょうね。
罵倒されて、勉強出直して来いみたいなことを書かれるでしょうね。
あのー番外編ーは納得できましたけど
Tはどう思います?
あれはコメント不可になってましたね。
①は引っ込め和尚!!的・・・でもブログ管理者の権利だから如何ともしがたし。
これで面白くなくなったら、ただ読まなくなるだけの話だし・・・・