自分を見ることは可能だろうか。
Is it possible to see myself?
鏡に映る自分は確かに自分という物質であるが、鏡に映っている自分は実物ではなく虚像である。
A self which is reflected on the mirror is surely me as a physical matter, but the reflected self is not real of me, it is a virtual imaginary.
鏡に映った物体は自分でありながら自分ではない。
The reflected body on the mirror is me but at same time it is not me.
確か今でも目が見える範囲では自分の肉体が見えている。
Surely, I can see my body right now in visible angles within allowed eye sight.
頭を除く腕や胴体、下半身を見ることができる。
I can see my arms, torso lower body parts except my head.
鏡無しでは自分の頭、鼻、口、耳、目を見ることはできない。
Without a mirror I cannot see my head, nose, ears and eyes.
自分の頭が見えないことは目が見えない人が自分の体を捉えている視点と類似しているかもしれない。This fact that unable to see my own head it may be like the viewpoint of how a blind perceives his body image.
人は自分の身体を自分だと認識している。
People recognizing their own bodies are as their selves.
たが、私はこの身体が自分であるとの確信が持てない。
However, I can’t have a conviction that my body is myself.
常にこの身体は自分を表しているのか?と疑問を持っている。
Does this body always represent myself? I have doubts about it.
自分と言う感覚は他人の存在無しでは確かめることはできない。
I cannot ascertain the sense of which as me without presence of others.
私は他人が自分だと認識している自我体系を理解しようとしているが、私自身の自分を乗り越えて感覚できないことから凡その推定になってしまう。
I am trying to understand systematic ego-recognition of others that make feel as themselves, but it becomes an approximate estimate because I cannot sense other’s ego throughout my own self sensor.
他人とは私でない『その他の自分』の意識で構成されたシステムのように見えたりする。
As for me, the others look like a system which organized by consciousness that “other of a self” who is conceived as not me.
自人と他人の違いは何であるだろうか。
What is the difference between myself and other-self?
何がこの遺伝子の塊を自分だと決め、何が他の遺伝子を他人だと決めるのだろうか。
What is the decided factor which makes as myself that is a mass of gene and what is the decided factor making other gene as other-self?
何故に私は他人を自分だと認識できないだろうか。
Why I cannot recognize others as myself?
何故に他人の痛みは考える範囲に入り、自分の痛みは苦痛として感じるのだろうか。
Why others pain gets into the range of thoughts, but my pain gets feel hurt?
他人は絶対に自分にならない、この絶対的な法則はどこから由来したのだろう。
Others never become as myself, where is this absolute law come from?
脳科学に基づいた自他の認識に関わる原理説明については納得できるのだが、その科学的な根拠が全てに答えを出せるとは思わない。
It makes sense to me that explanation of principal recognition about self and others based on brain science, but I do not think that those scientific bases can offer answers for everything.
かといって、スピリチュアルな超自然現象や宗教の教えも答えには欠如感があるように思える。
To say of which, those spiritual supernatural phenomena and religious teachings are also seeming to have a lacking to answer.
作家で禅師でもある南直哉氏は『自分というのはドーナツの穴のようなものだ、穴は存在としてあるのだが、それを取り出して見せようとしても無いから取り出せない』と言った。
Mr. Minami Jikisai who is a writer and a Zen master, said “The concept of myself is like the hole of a donut, the hole is there as an existence but if we try to take the hole out to show, we cannot take it out because there is nothing.
彼はそれについてAはBであると断定していなく、AをBに例えている。
He does not conclude A is B about it, but he takes example A as B.
鏡に映る自分は見えていない頭も見せてくれるが、その頭に入っている意識を見せることはできない。
Myself which is reflected in the mirror can show my head, but it cannot show my consciousness in the head.
意識の無い自分は他人か?最近は答えを出すことに行き詰まりを感じるが、新たな疑問には可能性を感じることができる。
Am I someone if I don’t have consciousness?
Recently, getting answers make me feel stuck like end of the road but I can feel a possibility from a new question.
如何に生きるかの問題では無くて
何故生きてるかの自分探しタイプの思考ですかね。
十牛図の第十図では、
もともと【有りもしない自分】探しの放浪の旅を、
ヤッと悟って卒業して
平凡な毎日を平凡に生きる事に価値観を見出したという事に成る訳でしょうが、
在りもしない自分探しって、かなり疲れるよね。
もともと無いんだから・・・
心を病みそうだよね。
現実的で実践的なTとしてはmmmmm????
だれか新しい声がでるといいよね。
おーい!!Zちゃんどこ行ったァ~~??
そしてKアドマイアラーのいいひといいさ~ん??
I frame the question this way: "Why am I me?"
I do assume that "me" is NOT an illusion. I believe some people think that, but I have a different opinion.
The best I have come up with so far is that there is a consistent coded string of information in my brain which corresponds to my subjective sense of self. In other words, there is an objective basis for my subjective basis.
:-)
But, I would like to discuss more about this with you. My ideas have been rambling around my head for a long time. I would welcome some new ideas.
Why am I me?って言う事なら、
かなり自意識過剰でコテコテな哲学者思考ってとこかな…よく言えば。
I am what I am.じゃあいけないって事ですかね??
I am what I am=無条件の自己受容。
(まあロブさん的思考法)
ドーナツの穴に閉じ込められた、黒●ッチと黒Kッチ。
黒丸さんも、10才頃(10歳前)には【なぜ自分は他人じゃないのか??】という命題に心をチリジリに悩ましたそうだから、いまならその答えを知ってるかもね・・・
注;チリジリに悩むって言うのかどうかわからない。もしかしてT創作かもしれない。ニュアンスは
あれやこれや乱れに乱れて・・・という感じ。
Why am I me??が解らないと
自分の人生が楽しめない、
楽しんで良いモノなのかどうか分からない・・・
って言うなら、
Why am I me?の答えが出るまで煩悶しなくちゃならないね、仕方ないよね・・・例え精神を病んでもね。
しかしそんなこと関係なく
ごく素直にそして普通に、人生を楽しめるなら、
Why am I me? なんか考える必要はない。
Why am I me?なんかは人生の必修栄養素(必須栄養素)なんかじゃない。
自意識過剰になる必要なんて全然ない・・・
まあそんな感じかなァ~~。
Why am I me?とかで
自分なりのイメージがいっぱい創造できるなら、
脳が活性化するとかだから
Why am I me?もまんざら無駄思考って訳でもないかもね・・・・
mmmmm、ドーナツの穴に嵌(はま)り込んでも脳が活性化するかなァ~~??
どんな記事でもTのようにユニークな表現ができる人はこの世に無いなと思ってきて
もう眠れなくなりました。
エリックの表現も彼しか綴れない特独な言葉使いですが、
イメージ性には乏しい感じがありますよね。
そのイメージ化できる映像性から言うと
Tの表現は映画のシーンのように
私の心像で映像にできますね。
散歩の様子とか
中国からきた老人のゆったり感や
散歩で木の枝に顔をぶつかった時の驚きとか
ある女性の攻撃的な目線とかも
極明に表現できますよね。
絵でいうと精密画かも
エリックは白黒写真かもですね。
とにかく、Tのようなユニークで鋭いコメントを頂けて嬉しい限りです。
去年近所の国立公園を散歩していた時に撮った写真です。
恐らく同じ写真をGmailで送ったと思います。
パソコンでの映像やグラフは今回の記事にマッチするものが無くて
1時間以上検索エンジンを変えて探してみましたが、
つまらないものばっかで
仕方なく『投影』のイメージにあった写真を載せました。
本来はもっと抽象的なテーマにしようと下書きしておいたのですが、
抽象過ぎて書いているうちに
話が進まなかったので
中学生も分かるような哲学にしました。
心理も哲学から派生したので
哲学的な頭の思考散歩もたまにはいいですよね。
脳の活性化につながるとは思いませんが
少なくても鏡を見る時には
そういえば鏡でないと自分の頭は見られないんだなくらい思いついてくれたら
それで記事使命は全うできたかもです。
固まった思考に穴を開けて
その穴から見える中身を確認したりするためにも
自らの思考を見直す意味みたいな腹つもりで書いてみました。
自分を放つ手段にもなれるかもなので
己惚れ、自惚れからではないです。
病気でもない『湿ったところに日向』を射す予定でしたが、
自分に病的な拘りを持った神経症に見えた可能性もなくはないかと。
もし自分自分私私神経症なら
このような視点は得られないかもと
自己弁明しておきます。
たしか前記事での最終Kコメでは、攻撃型女がどうとかこうとか言ってたと思ったんじゃが今は無い・・・
なにゆえかァ~~???
それともTの錯覚で認知症の疑いあり??・・・
乃至は、Kの陰謀で、Tを認知症扱いする魂胆とか??
Tは囲碁ゲームを人間とするのは好まない。
人間とやると、勝ち負け(=優越感・劣等感)の醜い臭いがプンプンすをわけだし(まあちょっと大げさに言うとだが・・・)。
Kチンみたいに、相手が負けて人間性の脆さを露呈するのを見るとゾクゾクするとかの悪趣味はない。
純粋に思考過程をエンジョイするのみだ。
(ああ、Tって純情可憐だなァ~。なんか悪い人ではなさそうだよ、Tって!!・・・たとえ少々口が悪くてもね)。
で、Tが50代の頃だったら、もっとズット粘り強いはずだったが、75才とも成ると、
今51歳のKチンと同じが如く、ロクロク考えないで、とっさの思い付きで、次の手を打ってしまう(=Kチンの場合には、発作的言動を意味するね)。
するとAI君はさっそく揚げ足取りに来る。
「豚は太らせてから殺せ」を狙ってくる・・・まあほんと嫌な奴だぜ!!
でもなんせ相手は機械にすぎないからね!!
そんな時は、Tが人間様の権威を振りかざして、
Tが間違った処まで手を戻しての再開を強制する。
AI君はしょうがねェ~やつだなァ~とばかり、
Tの傍若無人を受容する・・・おおお!!それはいい考えだね・・・
かくてTは満足な一日を過ごし、囲碁家族の必須栄養素がはぐくまれる・・・・だって、その方が学ぶことが多いいし・・・幸せを壊される事もないし。うふふ。