心に炎のように燃え上がっている
情や念があるとしたら、
それらを燃やし尽くし
無くせることができるだろうか。
If there is emotion or thought
like flames that flaring up in mind,
will it be able to be burned out and eliminate it out?
炎は燃える素材の物質と
炭素原子が結合するための促進剤である酸素、
燃える温度に瞬時にさせるライターのような引火道具、
これら3つの要素が同時に作動すると、
忽ち炎になり燃える作用が起動し始める。
The flame starts to ignite simultaneously
when three elements operate at same moment
with a burnable material and oxygen
which to be combined carbon atoms as an accelerant,
also with an ignition tool like a lighter
which can make burning temperature instantly.
先週末の土曜の夜、
エリックと私は夫の長年の友人宅で行われた
Mulvill’s年間行事ボンファイヤに招待されて行ってきた。
Last Saturday night,
Eric and I were invited to Born Fire party
which held at Eric’s friend house,
the friend who has been friends with Eric for a long time.
パーテイー開催者であるブライアンとペッテイーは
私達がメサチュッセツ州に住んでいた時の
真向かえの家に住んでいて、
毎年10月になると多くの友人を呼び、
裏庭で巨大なファイヤを作る。
Brian and patty who are as the party organizers
live in a house which is across of our previous house
where we lived in Massachusetts.
They invite many friends every year in October
and make a huge fire at their backyard.
去年は風邪のため参加できなかったが、
今年で2回目の参加になった。
Last year I was not able to participate
because of a cold I had,
and this year was my second time for the party.
ブライアンとペッテイーのボンファイヤパーテイーには
多くの人が来るので、
ただ2回目だけなのに
もう知り合いが何人かできて気楽に話せた。
Many people come to Brian and patty’s party,
so I could make some acquaintances
even it was just second time for me
but could talk with them comfortably.
彼らは車庫用のガレッジをカフェ風に変えて、
毎週末には何かしらの小さなパーテイーを開いている。
They changed car garage to a café style
and the café often opened for small sized somewhat parties
on every weekend.
そのパーテイーにはレトロなジュクボックスから
テンポの速いノリノリの音楽が常に流れ、
主催側のペッテイーが作った料理と
参加者達が作って持参してくる多彩多様な食べ物や飲み物があり、
皆各自の好みで取って食べたり飲んだりできる。
At the party, there always high tempo moody music
from a retro juke box
and there are lots kinds of foods and various drinks,
the foods which cooked by organizer Patty
and others brought from participants
so, people can take free to eat or drink in way they prefer.
彼らの広い裏庭には
ボンファイヤ用の大きな火処が作られてあり、
燃やすための木材が高く積もってある。
In their large backyard there is a big fire place
which has had built for just fire and woods to burn are piled high up.
ブライアンは火の維持担当で、
ペッテイーは来客の接待をする。
Brian charges of fire maintenance
and patty entertains gusts.
息子さんのブレッドはガレッジカフェの中で来客を迎え入れ、
娘さんのブリジットはあっちこっち回りながら
一人ずつ談笑したりしながら忙しくしている。
Brad who is their son welcomes in guests in the garage café,
Bridgette who is their daughter making herself busy
to runs around all the spots
for chatting with everyone and make gusts laughing.
ブライアンが作る炎は燃え上がりの勢いが良く、
毎回タイミング良く木材を付け加え、
常に新しい火の模様を作る火の達人でもある。
The flame Brian makes it has a good momentum to kindling
and adding firewood with a good timing at each moment,
also he is the expert who can create a new flame pattern.
エリックと私はガレッジの中で人と話すよりは、
裏庭の外で火の回りほとんどいる。
Eric and I prefer to be outside backyard
than talking in inside of garage
and we are mostly flocking around the fire.
火の回りにはエリックの昔からの知人と
まだ知らない人が群がっているので、
私達は用意された椅子に座ったり、
立ち話をしながら体を温める。
At the fire place there are some groups
some of them are Eric’s friends for a long time
and others are not known yet,
so we sat on a chair which was prepared already
or warm up body while enjoy the standing talking.
私は初めて参加してから
ブライアンが造る炎をじーと見るのが好きになった。
Since I participated from the first time,
I became fond to gaze at the flames that Brian creates.
炎が燃えて、
木が溶けて灰になっていく過程をただ見ていると、
情熱のような感情が燃えて消えていく過程を
見ているような気になる。
When I look at the process of flames that are on fire,
the firewood gets melt down and it became ashes,
such processing makes me feel a similarity
like see a passion or emotion gets burn and it disappears.
昨夜は炎を見ながら、
私の雑念も炎になり、
その炎が灰になって消えていけたらと願った。
While I was watching those flames,
I wished that my unnecessary thoughts
become flame to be ashes and it could disappear.
また、炎が燃えて消える過程を見ながら、
坐禅の心構えである
『身の回りの事情に執われることなく、
真実の在り方を見極める』
教えの一つについて考えた。
To add, while I was also watching
the process of flames is burning out and it disappears,
I thought about one of zazen teachings
for guide as a mindset that
“Not to be taken by one’s belongings,
probe to make sure the way of truth should be”
炎は材料、酸素、燃える温度
これら3つの要素が同時に揃えば燃え始める。
Flame begins to fire at the moment
when those three elements are aligned
such as materials, oxygen, a certain burning temperature.
一旦、燃え始めると
水の他にその強烈な燃焼運動を止めることは無い。
Once it on fires,
there are no other things that can stop the intense burning except water.
その炎が燃え尽くされるまで待つしかない。
There is no other choice but only waiting until the fire burns out.
人の心の中で炎のように発火する要因があるとしたら、
燃える素材で言い換えられる感情や念、
燃やせる発火作用で言い表せる動機や起因、
意識できないが行動を起こす原動力である無意識を
酸素の働きに例えることができる。
If one’s mind set on fire
like burning flame triggered by something
and if there is a cause factor,
can replace some metaphors such as
a notion or thought as a burnable material,
a motivation or cause to express as a trigger
or an ignitor to set on fire,
and the unconscious that cannot be conscious
but it works as a driving force
to behave as the oxygen function.
それらの感情や念、
動機や起因、
無意識の連動等が炎のように引火されると
心の中で燃焼し始める。
Those emotions or notions,
motivations or causes,
linkage unconsciousness
if it is ignited like flame of fire,
those begin to burn in one’s mind.
それら火の動力は強引に焼却しない限り、
材料が燃え尽くされるまである程度の時間を必要とする。
Also, unless forcibly incinerate the dynamic force of the flame,
it needs a certain time to burn itself out.
誰が言ったか覚えていないが、
真の情熱は
『炎になって燃え尽くされた後でも生き延びる木の根のようなもの』だと言っていた。
I do not remember who said that
a true passion is like tree’s root that will survive
even when after the flame is completely burned out.
坐禅の坐る行為は
心の中で燃え上がる炎のような情や念に、
燃える絶対条件である酸素の供給を止めることに
似ているかも知れない。
The act of zazen may be similar with an action in mind
like the way of incineration against burning emotion or notion
and it is under controlled by stopping oxygen supply
which works as absolute condition to burning.
酸素が無くなったら水で強制に止めなくても、
自然に、尚且つ静かに焼却できる。
If oxygen runs out,
the incineration naturally stops quietly
without forcing with water.
その炎の後でも生き延びる真の情熱のように,
真の坐禅の行為は
情や念が狂おしく燃え上がった後でも、
その燃えてた痕跡である灰も消えた時でも、
生き残っている自我の生命力のような
真の力であろう…
Like a true passion which survives even after burned out,
a true act of zazen is like can survive
the crazy flame of emotions or notions in mind burned all out
and even the remained ashes disappear,
even when the flames marks to trace also long gone,
the true vitality of zazen is still be there
as like a true force of ego…
拘りというより、「欲望」だからではないですかね。そのような態度では、「悟り」が何かを知るどころか、つまりそれも執着ですから、「悟り」からどんどん離れていくのではないですかね。ズブで素人な私でも察するところであります、はい。
イチローのような一流選手は、理論と練習のバランスが良いのでしょうね。
基本的には、一に練習、二に練習、三四が理論で、五に練習、といった感じでしょうか。
ただ、ここのどこに、「悟り」があるのでしょうかね。そんなものには、関わっていない、役に立たないから、無記なのでしょうかね。
そんな私にコメントを寄せるあなたは、そんな私から解脱したら宜しいのではないでしょうか。
>じゃあ、たかはしさんは何故
そんなに『悟り』にこだわるのですか??
じゃあ、あなたは、なぜ、釈迦の悟りとは何かを知ろうとする私の拘りを捨てさせようとするのですか?
>もしかしたら、
生きる事が辛くて辛くて、
苦しくて苦しくて、
悲しくて悲しくて
もう、泣きたくて泣きたくて
この世を恨みたくて恨みたくて
誰かを殴りたくて殴りたくて・・
>そんな自分が嫌でしょうがなく
反吐を吐きそうになるから・・
あなたも、私のコメントを見ると、そういう気持ちになるのだ、だから止めてくれ、ということでしょうか。
>だから、悟りたい??
さとって楽になりたい・・
って事ですか??
出家する覚悟はありません。在家として、自分に出来る範囲で無理なく、が私の方針です。
そうやって、今日を生きるのが、私の仏道実践です。
生きるのが苦しくなかったら、仏教なんて必要ないでしょう。
これも何回言ったかなあ。
全然理解してもらえないのですけど。
あ、こう言ったらどうかな。
例えるなら、私は、野球のイチローには、なれないけれども、イチローの打撃理論を知って、それを草野球で応用したい、ということ。
そこに余りがある、と執着のある我々には思えるが、執着を滅尽して悟った当人には、そこに余りがあるという想いが無いのだろうなあ、と思っています。
558 わたしは、知らねばならぬことをすでに知り、修むべきことをすでに修め、断つべきことをすでに断ってしまった。それ故に、わたしは<さとった人>(ブッダ)である。バラモンよ。
(スッタ・二パータ)
何でもかんでも知る必要は無い。
悟るために知る必要のあることだけ知ればそれで完成。
そういうことだと思います。
悟っていない我々は、余りを気にしてしまうのは仕方ないとして、それをあまり気にしないようにするのがいいのでしょうね。
難しいですけど。
だから、余りがあって当然だからと、余りを残そうとするのも、有効な手法な一つだと思います。
どうでもよいこと、としてすぐに引き下がれますか?
恐らく釈迦は、どうにもならないこと、としてやむを得ず断念したまでで、まあこれも、未解決を解決していた、と言われれば、そうかもしれないという、たかはしさんの主張も有り得ることで否定はしませんが、その考え方には賛同は難しい、というところですかね。
今回の論点は、余りが有るか無いかで、これも、有るとも無いとも言わない、というのが無記、ということも有り得る話ではありますかね。
意味が分かりません。
>釈迦の画期的な発明でもあり、叡智なのではないでしょうか。
悟りの役に立たない問題だから関わるな、それに関わっている限り、余りが生まれて、それに悩まされて悟れないのだ、ということを明らかにした、という意味で画期的だと思っています。
釈迦の画期的な発明でもあり、叡智なのではないでしょうか。
解決の必要が無い、関わる必要の無いことは、それは未解決な問題にならない。余りにならない。
そういうことを私は言いたいのです。
その問題に関わらない、ということが完全には実現されていませんから。
余りを気にしたから無記にした、というのは、どういう意味でしょうか。
問題を問題として意識しなかったら、それは問題が残ったということにならないでしょう。
だから、無記の意味をどう理解しているのでしょうか、と聞いています。
釈迦も、余りを気にしていたから(問題が残っていたから)、「無記」としたのではないですか、ということです。
そこで、10を3で割るという問題は、悟りの役に立たないから関わらない、ということが完全に実現出来たら、そこには余りという概念も生じない。
私が言いたいことを、無理矢理例えると、そういうことです。
そこにどう書かれてましたか。
どういう意味で無記という言葉を使っているのですか。
それが明らかにならないと、議論のしようがないでしょう。
そこには、どう書いてありましたか。
そこを踏まえていないと、議論にはならないのではないでしょうか。
無記(むき、巴: avyākata, アヴィヤーカタ、梵: avyākṛta, アヴィヤークリタ)とは、仏教において、釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う。仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される。主として、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対して、こうした態度が採られた。
(引用終わり)
その解説についてどう思われますか。
ちなみに私は、
仏道修行の役に立たない問題には関わらない、ということを完全に実現出来たら、そこには余り、という概念もない。
余りというのは、特定の問題に関わったことにより生まれる概念だから。
と理解しています。
前言撤回します。
無記をどういう意味に理解しているのでしょうか?
南さんがそう言ってるから?
いえ、これは釈迦の「無記」を理解する上で欠かせない、重大な要素かと思いますね。
考え方として、余りを出さない「無記」があるのでしょうか、ということです。
ここを押さえておかないと、「無記」の理解も困難になるでしょうね。
終わりの挨拶で締めて絞り切らず
そのまま、
余りがあったままに
しておこうと思います。
この1週間600以上のコメントを通して
私は大きく成長したと思っています。
600以上のコメントの中に
要らないものや余計なものは一切無く
全体からみると
一つ一つが織りなっていて
巨大な織物になっているような気がします。
毎回のコメントが追加される度に
新たな発見があって
生きているうえで
ぶつかる人との意見の違いに
より真剣に対面できるようになった気がします。
皆様のご指導深く感謝申し上げます。
悟りからの解脱何て面白い考え方ですよね。
しかし考えて見ると
釈迦もそんなことは一応、言ってるんでしたっけ、
ねえ、たかはしさん。
でも、人生は苦あり楽ありが当たり前、ヤッターと自己満足したり、今回は残念だったけど、明日また朝が来るさと考えられれば、
まあ自殺しないで済むし・・・
今日をなんとかやり過ごせるし・・・
ただ単に単純に、
人生なんてそんなもんだと
思えばいいだけの話で、
じゃあ、たかはしさんは何故
そんなに『悟り』にこだわるのですか??
もしかしたら、
生きる事が辛くて辛くて、
苦しくて苦しくて、
悲しくて悲しくて
もう、泣きたくて泣きたくて
この世を恨みたくて恨みたくて
誰かを殴りたくて殴りたくて・・
そんな自分が嫌でしょうがなく
反吐を吐きそうになるから・・
だから、悟りたい??
さとって楽になりたい・・
って事ですか??
仏教を学ぶ者にとって、釈迦の悟りというのが経典にアチコチに出てきて、魅力的に映るのでしょうが、それはいくら探しても、どのようなものかなど、「本人」ではないのですから、決して見つけられる事ではありませんよね。
それに救いを求めてる面もあるのでしょうが、それに拘り呪縛となり、つまり妄想や錯覚をし続けることになるだけではないでしょうかね。
たかはしさんの信念は
まさに偉人(=釈迦)の言葉に信頼する事から来る。
そして偉人の言葉は数限り無くあるから
偉人のどの言葉が今回の話題に
適材適所なのか抽出する必要が有る。
それ故の引用であって、
それが無ければ自分の主張(=由るべき根拠)は無意味になる。
だから偉人の言葉を引用するのですよ、ケイレンさん。
それをケイレンさんが本当にウンザリだと言い、
しかもたかはしさんの意図を誤解して、
たかはしさんは、
自分(=ケイレンさん)を弱だとおもって、
自分を洗脳しようとしているが・・、
自分(=けいれんさん)は、
人の言葉(=偉人の言葉)に洗脳されるような弱じゃない・・・・
と反発するのはなんかおかしいと思いますね。
有効な手法の一つだと思います、の誤り。
558 わたしは、知らねばならぬことをすでに知り、修むべきことをすでに修め、断つべきことをすでに断ってしまった。それ故に、わたしは<さとった人>(ブッダ)である。バラモンよ。
(スッタ・二パータ)
何でもかんでも知る必要は無い。
悟るために知る必要のあることだけ知ればそれで完成。
そういうことだと思います。
悟っていない我々は、余りを気にしてしまうのは仕方ないとして、それをあまり気にしないようにするのがいいのでしょうね。
難しいですけど。
だから、余りがあって当然だからと、余りを残そうとするのも、有効な手法な一つだと思います。
yesかnoかの断定をしない、
しないでそ知らぬふりでやり過ごす(ケイレンさんの最も嫌いな、どっちつかず方式でもあるが・・)。
それが要するに「無記」ということで、
それは釈迦の態度である
形而上学(=超越的論点)にはいっさい立ち入らないという態度と解せられるが、
それは他方では「曖昧さを持った思考方式」と他者からみなされ後代僧侶達への批判となった。
断定してこそ宗教ではないのかと。
バラモン教徒から「お前の教主は何て曖昧な懐疑論者なんだ!」と。
そこで、やむなく形而上学上の仏教見解を打ち出すハメとなった(賽は投げられた!!)。
その結果が、
宇宙には自性はないとか、
宇宙には実体がないとか、
宇宙的に絶対的な無常無我なのだ・・
とかを仏教の真髄だと論理付ける羽目になった・・・釈迦の意図とは関係なく・・・
だから南さんはそういう断定をきらう。
釈迦と同じに余りを残したい。
しかし南さんは仏教界の孤児だ。
なぜなら仏教はすでにルビコン川を渡ってしまったからだ、・・超越理論擁護へと・・・
はい、そう思います、わたくしは。
あまり余りを出さず落ち着いて来て
ちょうど良い大きさの座布団となりました。
ケイレンさんもいよいよ、それなりに
「老師」の域に達しつつありますな!
いや、めでたい、あはははははは(爆笑)。
たしかに爆笑、笑いのCombustionはいいですね。
そろそろ、冷笑・あざ笑い・嫌悪笑い・サイコ笑い・反感笑い・・・
などなど根拠のない笑いは卒業して・・・・
仏教者としての品格のある、透き通った、すがすがしい笑いに
我々一同、進化したいものであります。
2018-10-28 15:45:33
染まりも汚れもしないこと、と道元禅師は言われていますね。
また、沈黙も修行の一環。
無視ではなく、「沈黙」です。<
もしかして、あっち山で上記のコメントをしてくださった方がここでのコメンテーターの中にいらっしゃるのですか?
いるのでしたら、教えてください。
ずーと気になっているので、
あっちではコメントに対するコメントはしないようにしているから
どなたさまか聞けなかったでした。
そのまま放っておこうと思ってたのに
どうも気になりますね。
何となく、慈愛に満ちたコメントのように受けとれて、どうも放っておけないですよね。
途中から、あれ、別の名無しさんだな、ZIPさんかな、と思えて、尚更スムーズにやれた気がします。
文体云々したのは
矛盾がありますが、
文体や言葉使いから
人格の形態が見え隠れたりするので
その面は特に心構えて頂きたいです。
人とのぶつかりの(特に女性に)原因の一つに
言い方が癪に障るような共通項があるようで
内容も大事ですが、
その伝え方も大事だと思います。
ブログの記事への方針みたいな
ブログ記事へのコメンテーターへの要望などですかね。
しかし、常に新鮮な話題を書かれているので
特にこれはぜひ!といった要望もないですが。
追伸:文体統一件につき素直に受け入れて頂きありがとうございます。
ZIPさんかな、と思って対話してましたよ。
南さんの言説を理解する上で、
>この「答えがあるから大丈夫」というところが気に入らない。
というのがキーポイントだと思えますね。
どこかに、余りを出されているのではないでしょうかね。
<しかし私には、この「答えがあるから大丈夫」というところが気に入らない。問いは問いのまま抱えるべきで、ブッダも安直に「大丈夫だ」と言ったとは思えないのです。>
と、ありましたね。
釈然としないのなら、仏教的にも、それはそれで結構なこと、なのではないでしょうかね。
だったら、言い切らなけれいいのに、と思いますね。
なんで言い切っちゃうんでしょうね。
そこを堪えろ、堪え抜け、と釈迦は示しているのではないですかね。
これは、私が見た文章や動画には現れていない面だと思います。
でも、そうかもしれないな、という気もします。
自己が自己であることに根拠は絶対に無い
そこにどんな違いをみているのでしょうか。
つまり、根拠が無い、ということを言いたいのだろうとも思います。
でも、根拠は、絶対に分からないものなのか。
そう言い切れることに根拠はあるのだろうか。
そこが私は釈然としない、ということです
これのどこに「絶対」がありますかね。
>何度も言うように、「死」そのものは、我々の経験外であり、それが何であるかは「絶対に」わかりません(わかったら、それは「死」ではありません)。
死に関して持ち出すのは、やや卑怯ではありませんかね。
ですがこれも、「死とは~である」という絶対視を、否定されての内容ですよね。
というより、高橋が疑問視されている「絶対」の問題とは、提起が違うのではないですかね。
>そこに絶対の根拠は設定できないからです。
これは、説明済みですよね。
>つまり「自己が自己であることに根拠はない。
>何度も言うように、「死」そのものは、我々の経験外であり、それが何であるかは「絶対に」わかりません(わかったら、それは「死」ではありません)。
>そこに絶対の根拠は設定できないからです。
南さんの文体で、一致したわけではないですよ。
>人は人であるかぎり、たとえやめたくても、「なぜ」と問うことをやめられない、ということである。我々は「なぜ、なぜと問うのか」とさえ問いうる。それこそが根源的な欲望、「無明」なのだ。<
ですが、欲望を抑えられなかったようですね。
なぜか?
そう思える文体を見たことがないからですかね。高橋のように、読み違えるような要素があったとしても、よく読むと絶対視とは思えないのですよね。
また、絶対視が気に入らないか、気をつけているか、かなり注意されている面を見受けるからですかね。
なぜ?
(文体は一致してますよね?)
さて今夜は、そちらでは朝になりますかね、あちら山の更新がありそうな日ですが、もし可能であるなら、どのようなテーマを希望しますか?
想像しても、大抵は裏切られてしまいますね(笑)
名無しさんは常に丁寧語で一貫していますが
たかはしさんは言葉使いが荒いですね。
文体を統一させてから人様と論議しては如何でしょう。
思いませんね。
>出来るかもしれないし、出来ないかもしれない、ということまでだ
この文脈には賛同していますが、そもそも、出来る出来ないということなのか、も不明なことですので、つまり何とも言えないことではありますかね。
それがまさに南さんだと思わない?
あとは御自分で、よく考察してみて下さい。
ということは、人間に悟りは実現出来ない、という断定にも、根拠が無いから、絶対に実現出来ないとは言えない、ということになり、
また、絶対に実現出来るとも言えない、ということになる。
つまり、言えるのは、
出来るかもしれないし、出来ないかもしれない、ということまでだ、
ということにならない?
元の文章のどの部分か、該当する箇所を示して下さい。
How is it possible?
I'll be able to get through the comments in 15 years. I just have to learn Japanese first.
根拠のない笑い
ニカッ エヘッ
あざ笑い
冷やかし笑い
嫌悪笑い
漏れる笑い
サイコ笑い
コメ笑い
アクセス笑い
神経症状笑い
脳神経疾患笑い
リンク集笑い
コピペ笑い
炎上笑い
無常笑い
解脱笑い
無頓着笑い
無神経笑い
反感笑い
笑いを笑う笑い
笑う者を見てあざ笑う、そのあざ笑いで苦笑いする私であります。
ビッグニュースです!!
高橋くんが、笑った模様です。
地球が笑うくらいの奇跡でしょうか!!
簡単に答えを出さないで下さい。
余りを出して下さい。
問い続けて下さい。
。
なぜ、そう思ったの?
Jさん、あなたは、私に信頼されていると思ってるの?
カウンセラーになったつもり?
それとも覗き趣味?
そうとも言えますが、ここでの「絶対」の使い方は、絶対性を肯定することになりませんかね。
絶対確実な根拠は無い、ということですよね。
すいません。何を言いたいのか分かりません。
これは、絶対性への否定でしょう。
これは、設定できない、という部分で絶対性は回避できるのではないですかね。
「釈迦の悟り(釈迦の悟った内容)とは、
①.他人の事は絶対分からないという事
②.自分を分かって貰う事なぞ絶対に出来ないという事
の、2点だったというご意見、まことに新鮮な発想に見えますが、
そう言える根拠はなんですか。
何処かの経典とか、或る仏教学者がそう言っているという事なのですか???」
この質問に、応えて下さいませんか。
あなたの「正常」と言う当てにならない具合も、知ることができますので。
一般論で逃げてるようにしか見えないですよ。
生活の環境、境遇等も自主的にコメントして貰えると分析しやすくなりますので、よろしくお願いいたします。
兎に角、ちゃんと読んで下さい。
単語だけでなく、文章全体を。
当てにならないから、疑うんでしょう?自灯明へ続く道であります、はい。
御自身が仰るように、単なる自利や自己満足優先なだけでしょう。
蠅や蚊は、高橋さんの脳に住み着いているのかもしれませんから、御早めに受診を。
集団いじめにあっても
立ち上がる打たれ強い性格の持ち主ですよね。
常に
かかってこい!で
打たれても
それだけか?はははで
また、リンク先の石をみんなに投げてきますよね。
仏教を学んでいるわけです。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/49078f654a88463cc8cdef60fe8dbf93
>なぜなら、「ダメ」の老師も自分の見解を言っているだけで、そこに絶対の根拠は設定できないからです。すなわち、およそ自分の立っているところには、コメント老師の「間違ってるな」も含め、無条件に通用し得る、何ら確実な支えもないということです。
ところで、また読み違えでしょうって、私の印象では、名無しさんの方が読解力に問題があるように映ってますよ。
苦という思い通りにはいかないことを、しかと学ばれ実生活に活かせますように。
誰かが集団いじめにあったら
ぽっつんとどこからで表れて
ぽっかんと言葉を落として
ひゅーんと去るZIPライダーでございます。
危ないところか、宛てにできない刹那な存在なのです。
どうせ、また読み違えでしょうが。
自利が利他になるということでしょうから。
ZIPさんや高橋さんのように、自分を疑うことをしない態度は、非常に危険な状態かと思われます。
南さんのブログで、検索機能を使って、絶対、を検索してみてください。
いろいろ見つかるでしょう。
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上記の解析コピペはこのブログ会社のもので
グーグル分析とは結構違う結果です。
ブログコメントは
検索でもひっかかるようですね。
誰かが南師の呼吸法について
検索すると
私のブログが上がるようだし
面白かったのは
昔の記事で師匠Tと相対性理論を話したことも
リンク先として挙がってましたね。
脳がフル回転し、活発に働かせてくれる要素は、満載ですよね。
ありがとうございます。
そして、管理人さんのその発言を、他のコメント者もちゃんと読んで下さいね。
①.他人の事は絶対分からないという事
②.自分を分かって貰う事なぞ絶対に出来ないという事
の、2点だったというご意見、まことに新鮮な発想に見えますが、
そう言える根拠はなんですか。
何処かの経典とか、或る仏教学者がそう言っているという事なのですか???
たかはしさんはいたって正常です。
私も私自身を悟りたくてしている事です。
他人がその事についてとやかく言ってくるのであれば、それは私にとって、蠅や蚊と同じだと思うわけです。
たかはしさんは他人を蠅や蚊としてではなく、人として応答しているわけです。
無我の境地になるやもしれませぬな!
そこで現著に現れているのは
たかはしさんは
人の言う皮肉を感じることができないというです。
皮肉を考えてしまうから
それを逆に相手への質問にして投げる、このパータンの繰り返しなので、
それが脳の損傷が原因で起こる症状なら
人が何で言ってあげても
効き目ないと思うのですが、
たかはしさんも諦めず
自ら歩み寄ろうとする姿勢が必要かもです。
リハビリのつもりで
思ったことや気になったことを
リンク無しで
心から出ることばで
書いていくと役にたつかもと思えたりします。
たかはしさんと真っ正面でぶつかってくださる名無しさんは
たかはしさまにとって
救いになるかも知れません。
その文章には、確実に、「絶対」と付いていましたか?
これは、「確実な」というところを重視すると、高橋さんの読みと変わるのではないですかね。
たかはしさんは感情で人と関われない脳神経系の問題があるかもと
思い始めました。
人の気持ちが共感できない何かでしょうね。
人の気持ちも考えないと
何が裏に隠れているか
感じることができないと思うのです。
何かの事故で脳が損傷されたのでしょうね。
たかはしさんの灰汁が出て切られるまで
灰汁が出終わると本来の味になるでしょうから、
灰汁が出たところで
たかはしさんの本来の味がどうかが
たかはしさんの裸でしょうね。
リンクや引用の衣もきていない
本来の姿や味が悪くないといいですけどね。
仏教の根底には、絶対や断定の否定が流れているのだろうし、根拠も無明なのではないですかね。
悟りが人間には無理だと言うことには、絶対確実な根拠が無い。
ねぇ。
ふぅ~ん。
悟りについての話ではなかったですか?
たかはしさん、神通力か何かを持ってると、言いたいの?
あなたは、それに共感してますか?
もし、共感してるなら、人間には、それは出来ない、と断言することにも、絶対確実な根拠など無い、ということにならない?
桂蓮さんなら、そんなこと聞かないと思いますよ。
どの程度かを説明してから、発言して下さいね。
この語り口が、洗脳者によくある症状なのかもしれません。
今は出来ないと思える。
今は出来ないと断言する。
その違い、分かりますよね。
未来にも出来ないと思える。
未来にも出来ないと断言する。
その違いも分かりますよね。
私にも他の誰にも、今も、未来も出来ないと思える。
私にも他の誰にも、今も、未来も出来ないと断言する。
それらの違いも分かりますよね。
これ、管理人にも言ってる?
へ~。
だから、その人間とは、誰のことですか?
今は医療も進んで来ていますし、先日に何の疾患名か忘れましたが、アメリカ在住時に発症し治療していた人の番組があっていて、その後、日本に帰国すると、それを治療する病院がなく、治療と認知に奮闘された話がありましたね。
同じように苦しんでいる人がいるかもしれないと、障害手帳や障害年金を受けれるようにまでされたのではなかったですかね。
そのように日本には、まだ遅れている分野もあるようですね。
>だから、ここで私にいろいろ指摘されてきたようなことは、幼稚だなあ、としか思えない、というのが正直なところです。
カウンセラーやドクターが、対応出来ていないだけの事を、「幼稚」と見るのは流石ですね。
幼稚だなあ、と思いながらコメントしている自分は?と考えないところも、流石ですね。
こちらで「幼稚代表たかはし」、としておきましょうか。桂蓮さん。
それは、人間には無理だ、とは断言できない、ということですよね。
そこが論点です。
生きてることには必ず苦しみが伴うと言う時の苦というのは、仏教以外の苦でなくて、何になるのでしょうね。
釈迦が、苦を発見したんですよね?
>また、それが同じだったとして、生きてる限り、悟りの実現によってその滅尽が実現するということはあり得ない、と断言できる根拠は何だろうかと。
前述からの流れでも、生きてる限り、であるなら、完全な苦の消滅は不可能といえませんかね。
>出来るかもしれないし、出来ないかもしれない、言えるのは、そこまでだと思います。
現時点では、自分は出来ない、と言えるのではないですかね。もし出来たとしても、他人の悟りなど、決してわかり得ない事でしょうから、それ自体、苦とも言えそうですね。
それよりも、悟りの段階というのを、どのくらい苦が減少したかの段階として捉え直した方が、現実的ではありませんかね。
ちなみに、私は、厄介な病に罹って大学病院の専門教授から、じつは治療法が無くて自然治癒力に期待するしかないのです、と言われて途方に暮れて、精神的に追い詰められて、職場のカウンセリングや診療内科を受けたこともありますが、特に何らのアドバイスも無く、それで、もはや仏教しかないだろうと探して、初期経典に出会って、これだ、と救われた気持ちになったんですよ。
だから、ここで私にいろいろ指摘されてきたようなことは、幼稚だなあ、としか思えない、というのが正直なところです。
カウンセラーや診療内科医でさえ稚拙に思えてしまうのですから。
たかはしさんの態度や反応し方は
行動心理学を活用していく上での
貴重な例になると思っているので
私には参考になります。
>弱く見えることは
相手への狙いでもあるから
作戦上の戦術の一つなわけですが、
コメント続けていいんですよね?
他人のことは絶対に分からないという事と、自分を分かってもらうことなど絶対に出来ないという事です。
釈迦は、自分のことは完全に分かったのですかね?
エスパーでも乗り移ることなどできんでしょうな。
これって、スッタニパータの何処にありましったっけっな。
そう、考えます。
他人のことは絶対に分からないという事と
自分を分かってもらうことなど絶対に出来ないという事です。
今まであっちのブログで
打たれ、叩かれ、嫌味を言われ
反省しろと言われ続け、
だが、稀に賛同者によって
背中押され
それいけ、たかはし!になってしまい
ここでも誰かが
私がたかはし引用してくる『~~しろ』系の知識が
必要とされるから
たかはしよ、いけるだけいけ!
みたいなコメントが
結構ありましたね。
で、たかはしさんは
世間(コメの世界)で溺れ
引用が無いと論理的になれないと
思うようになったようですが、
あっちであんなに叩かれても
何一つ変わらないので
それがたかはし頑固流かもです。
あっち山で
私宛てにたかはしに洗脳されるなみたいなコメがありましたが、
洗脳のところか
たかはしさんの態度や反応し方は
行動心理学を活用していく上での
貴重な例になると思っているので
私には参考になります。
第一、引用何かで
私が左右されると思われていることには
一応、私も弱く見えるんだねと
内心、嬉しかったのでちょっと一安心みたいな
安堵がありましたし。
弱く見えることは
相手への狙いでもあるから
作戦上の戦術の一つなわけですが、
ですが、たかはしさんは
自分の傾向、パータンをもう読まれてしまわれているので
既に弱い立場に置かれていますよね。
引用だけのカードでは
打倒打ちできないかなとおもいますし。
Good Newsを言ってます。
まず正法眼蔵、新草(12巻)を読みなさい(現代語訳あり)
新草では
道元禅の本質が分かりやすく語られてます
どんな記事になるでしょうね。
アソコ立つ
鳥肌立つ
あ~寒い🆒
サーファーのように波に乗るのは
①波を待てるか
②波が来た時に乗れる状態であるかどうか
③滑る板があるかどうか
④滑る技術を備えているか
などの条件ですが、
ここでの(あっちでも)コメントの流れにのること
を波に乗ることに代入して考えてみると
①波を待てるか=コメントをするタイミングを待てるか
②波が来た時に乗れる状態であるかどうか=コメントすべき時にコメントできるか
③滑る板があるかどうか=コメントするのに相応しい人格があるかどうか
④滑る技術を備えているか=コメントによって相好関係が向上できるかどうか
コメ投稿を波に乗ることで例えてみました。
人の意見が異なることは
DNAが異なる如く
DNAらせん構造を変えることは
神でもできないと思っています。
嫌悪感、人を排他する背景には
歪んだ捉え方や実利主義といった後天敵要素が
絡み合って生じる現象だと思います。
そこの歪みや絡み合いを
解いて
また結んでいく、その業を教えてくれるのが
偉人の方々の教えに隠れていると思ってもいます。
自分本位で考えることは
DNAの織りなす業だと思った時、
私達人間はその膨大な力の前で
波に飲み込まれること無く
荒波に乗って
荒波を統制しながら
また、荒波に統制され
波が連れていく岸に辿りたい、それが因果であるなら....
だったら、私に成り代わって管理人さんに確認してみて下さい。もうコメントするなという意味なのかと。
(相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁741項)
貪り、怒りの終わりが、心の解脱。
愚かさの終わりが、智慧の解脱。
そういうことかな、と私は解釈しています。
貪瞋痴が終わったと知るって、どんな感じなのだ、と質問されても、答えようがないと思えますね。
『素直に答える・・・
それに答えると私が自己嫌悪に落ちそうだし、
・・・
たかはしさんの無頓着ぶりを指摘しても
それから
ウナギのように滑り逃げるし
かといって無視すると
・・・
答えはこうです。
・・・
自分の無頓着に気がつかないんだと』
>>>これほど指摘されてもコメントを自粛できないのは病的あるいは疾患が? 発達障害か過剰内向的傾向性格で理解の範囲が狭く精神がアンバランスで他者が自分の事や発言に理解を示さないのは他者の理解する努力の足りなさにあると捉えていて、自己中心だと自覚することの出来ない疾患、病院にゆくことを勧めます。
苦の意味が問題になるでしょう。
仏教における苦の意味と、生きてることには必ず苦しみが伴うと言う時の苦の意味は同じなのかと。
また、それが同じだったとして、生きてる限り、悟りの実現によってその滅尽が実現するということはあり得ない、と断言できる根拠は何だろうかと。
出来るかもしれないし、出来ないかもしれない、言えるのは、そこまでだと思います。
724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──
725 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。
726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──
727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。
(スッタ・二パータ)
なんか爆発的なニュアンスが有って、
実際、化学物質の瞬間的反応で
強烈な強い炎を出して燃焼する、例えば、
4、3、2,1、ゼロ、ロケット点火!!みたいな感じだけど、
心のコンバッションが炸裂して、
とうとうコメ数538迄行っちゃった。前人未踏の暴走事件、月にまで到達しちゃうのか・・・
ケイレンさんあたり
もう飽きて来ちゃって
本当にウンザリです!!が炸裂しそう・・・かな?
は議論百出なのかも・・・
往々にして、自信家とか勘違い野郎とか妄想狂とか井中のカワズちゃんが「俺は悟ったぜ!!」って言う(世に向かって宣言する)可能性が高く、
又は、単に、なんか気にしていた小さな問題に対して直感が湧いて答えが出た時を、
気軽に「おれは悟ったぜ」というケースも往々にあり、
それこそブッダが言う「悟り」がなんだか分からない。
でも多分、理屈上分かる事は、
ブッダは悟った途端、「苦」という感情が滅失してしまった、としなければ話が合わないという事。
そしてその後の釈迦の人生を通して「苦」を感じたことが無いらしい…それを称してThe「悟り」という??
そんな境地だったら自知なんでしょうかね、たぶん??
でもその悟りに至る道が八正道とはね、これ如何に??
以前、たかはしさんは
「伝説であった古城へ至る道を発見した」という、
発見を指して、発見=悟り、だと定義したが、
それなら、八正道=古城へ至る道=悟りに至る道と話がつながるが、
「釈迦的悟った現象」は
あくまで、苦の完全滅失を指すと考えられる・・・かな??
でも生きてる人間にはそんなことはあり得ない。
なぜなら、
生きてる事=苦が存在する事,が同義語だから・・
恍惚の人、すなわち認知症のアタイ以外は
・・・みんな苦しんでおじゃれ!!
質感を言葉で表現することは不可能です。
これは、善悪で言うところの「強制」なのか、「取引」なのか、根底に流れているものが、セコく見えるのは、気のせいですかね。
同感します。
後処理お願いしときます。
あなたもそうして欲しいの?
あなたは、自分は辻褄が合わないことを言うという自覚があるということ?
私があなたを嫌悪しているか、
どちらも、取るに足らないことなら、嫌悪を話題にするのは、止めましょうよ、ということです。
脳細胞がイカれてませんか、と言う人もいるようですから。
S長老は、神経細胞がやられるから、酒は良くないように言われてましたね。
>①あなたから嫌悪されているのは間違いないと思っています。
②あなたは、私から嫌悪されているとは思っていないの?
この①②において、①②のどちらも取るに足らないこと、という事ですかね。
辻褄が合わないと思って指摘をしているところでしょうが、これは、桂蓮さんに「辻褄が合わなくても好きに書いて下さい」発言が実行された時、挙げ足を取り巻くる、という前置きでしょうかね。
>2次元に現れる人の姿は
その人が持つ温度を映せることができないかもと思ったので、コメントしておきます。
それはそうでしょうが、そこでの「あなた」や「わたし」に対する好感や嫌悪などとするなら、その時点では、「あなた」や「わたし」の<言葉>に対してですよね。
身を含めた「あなた」や「わたし」では、決してないはずですよね。
また、現実だからといって、確実な温度はわからないでしょうね。
ワンパターン。
それ、誰が書いたの?
それ、誰が書いたの?
はい、また逃げた。
桂蓮さんの判定や如何に?
あなたは、私から嫌悪されているとは思っていないの?
どちらでも、どうでもいい事ですね。
嫌悪が、どうかしましたか。
もしかして、人から嫌われてるかどうかを気にする人ですか?
>だから、お互い、多くを望まず、話が合わなくて当たり前という感覚が良さそうですね。
もう提案ですか。
自分が変わる気ないから、これなら楽チンでしょうね。
これは、関係が良好な場合に言えそうですが、無茶ぶり帝王でしょうか。
この短絡的に考える無頓着さを、桂蓮さんは問題にされているのではないですかね。
スッタニパータで思考停止状態が続いているのか、思考の成長が見受けられないようです。
恐らく、ザ・ワンパターンは、ウンザリでしょうね。
あなたは、私から嫌悪されているとは思っていないの?
>2次元に現れる人の姿は
その人が持つ温度を映せることができないかもと思ったので、コメントしておきます。
これは、「変わる気ない」宣言ですかね。
話の振り方にも問題があるようです。
それに気付いていないようですので、念のため指摘しておきます。
たかはしはさんは、スッタニパータからは、何十年くらい御世話になっているのでしょうかね。
せっかく格闘して、それを語る相手に御披露目するなら、相手に響くような届けた方をしても宜しいのではないですかね。
それが、あちら山やこちら集いで、荒れる原因になっているとは、どういうことか。
少しは、考えてみましたか。
そして、未熟な自分を変える気もなく、その調子で周りから嫌悪され続けているなら、どこか遣り方を間違えている、という他ないでしょうね。
だから、お互い、多くを望まず、話が合わなくて当たり前という感覚が良さそうですね。
それから、いつものワンパターンは、もはや見たくないという時は、遠慮なく言ってください。
自分の無頓着に気がつかないんだと。
無条件に付き合える相手とするなら、この「女性」の枠は不要だったかもしれませんね。そこは人間としてで宜しかったのではないでしょうかね。
だから高橋くんから、女性と適当に付き合っていた話などを、聞かせられるハメになるのですね。
桂蓮さんのマジメな文章は、内容の是非はともかく悪くはないと思いますよ。
理路整然と向上されているのではないですかね。
桂蓮さんのいう高橋くんの欠落部分は、スッタニパータを指標にしているからといって、引用を投げ付けるようなマネをするなら、それを自分にどう落とし込んで、使用しているのかの説明がない、という事なのでしょうね。
そこから、桂蓮さんにとって、スッタニパータが意味を為していく、ということなのでしょう。
無条件に付き合える相手と
運悪く出会えなかっただけかも知れませんね。
ええ、出会えませんでした。初めからそんなことは考えていない、というのは、いずれ考える、という意味だと後で知らされる、ということの繰り返しでした。
また、文章にするのがそもそも負担だということもあると思っています。スルーで構いません。
翻訳については、周囲の注文が多過ぎるのではないか、と思っています。
その注文をクリアできる人と言ったら、南さん本人しかいないのではないかとさえ思えますね。
経験によって構成された人格は
人の指摘によって簡単に変われるものでないと思います。
異性との付き合い方も
何かを前提にしない
条件など要らない関係もあるのですが、
たかはしさんはその
無条件に付き合える相手と
運悪く出会えなかっただけかも知れませんね。
その付き合いでの経験不足は
心理学も、宗教も、偉人の教えでも
置き換えることができない
体で実感していく感覚なのですから、
引用した南師の見解は
たかはしさんの直面した状況を代弁してくれそうな気にさせるかも知れませんが、
あくまでもそれは南師本人の感覚であって
他人が感覚できるような範囲ではないです。
対面したとしても
文で読まれない奥の意味が読まれていないのに
表情だけ読めたからといって
感情の複雑な絡み合いから生じる矛盾に
順次に出していく明確な回答は見いだせないと思います。
では、そのままの状態で諦めるしかないかというと
そうでもなくて
こうやって
色んな方からたかはしさんの言動について
話をしてくださっているから
それらを心で聞けば
人の気持ちに少しずつ共調できるように
なるだろうと思います。
長い間
たかはしさんは人と感情でぶつかることを
避けてきたようですが、
諦めず、ここでだけでも
本心で、頭でなく
人と語り合うことで
現実に根を下ろすことにつながるかもしれません。
生意気でたかはしさんの気を害しているかもとおそれはありますが、
たかはしさんの凍った心を溶かすのは
冷たい分析ではなく
たかはしさんが
そうせざる得ないことを理解していくことも
私達コメントで関わった人の輪での課題かもと
思ったので、辻褄の合わない文を書いてみました。
どんな時も愛語に勉めること。
愛語の威力を示されていますね。
一昔前は、文通で結婚した事例もありましたが、今はネットでする事例もあるようですね。要は、必ずしも文章だけではわからない事もない、と言いたいだけです。
今はテレビ電話などもありますし、アメリカまで行かなくとも、「対面」できるかもしれませんね。
お二人の御活躍をお祈り致します。
あ、桂蓮さんには旦那さんがいることをお忘れなく。
(手を出すなという意味。)
文面が読めないなら、いつも相手が、嘆き悲しんでいる姿を思い浮かべてみては如何でしょうね。
弱気な人には優しくできるのでしたかね?
>ただ、聞くだけではダメな時もある。つまり、嘘をつくわけじゃないけど、抱えている悩みや問題を正直に言わない人もいるわけです。その場合、「なぜこの人はこの話をするのか」を考えないといけない。問題がきつければきついほど、表面に出てくる言葉と距離が生じるので、その距離をはかるためには、会って対面でやらないと意味がない。
兎に角、今あるもので、何度もやってみては如何でしょうね。
それで何度も見直す、納得いかないなら捨てればよい、でまた拾う。
作家の高村薫氏が、阪神と東日本の大震災で言葉を2度失った、ように言われていたのを思い出しました。
それで、言葉を1から拾い始めないといけなかった、拾って、かき集めて、自分に落とし込んでいく、というような作業が、とても困難だったようですね。
自分の無頓着に気がつかないんだと。
これは当たってます。
結婚を前提にしない付き合い方しかしてこなかったので、相手はかなり傷ついたのだろうなあ、と今にして反省しています。私は女性に手を出すべきじゃなかったと。
他人の言葉で、急進的に回答を突き付けられたくない。
そういうことなのでしょうか。
すいませんが、私には分かりません。
順を追ってだんだんに進むこと。「目標に向かって漸進する」⇔急進。
少しずつ進歩すること。「漸進的に改良される」⇔急進。
コトバンクから引用
漸進は
私の道を表す言葉です。
この言葉の意味如く
私は常に段階を踏み、ものことを進めてきました。
踏むべき道を確実に踏み、
基本を固めて
基本を知り尽くし
その基本の全貌が掴めない限り
ものを言わない方針でして
私が今まで行った言動は
段階的に必要な過程でもあり、
その中で正直に
自分に嘘をつかず
誤魔化すこともせず
少しずつ、だが確実に歩んでいます。
今、私は翻訳の仕事を本格的に始める前に
踏むべき段階である
『ことばの海を渡る舟を作る』ような過程にいるのです。
ですが、それがなぜに苦になっているかというと
作るべき舟を作る道具や材料が手に無いからなのです。
この必要苦を
坐禅によって安易に楽に変えたくも無ければ
偉人のことばで塗りつぶしたくもないです。
なので、苦を受け容れ
苦に身を置いています。
ですが、皆様の激励で
私の周りが人の気配で暖まっていくような
独りぽっつんと立っていた岸に
一人二人人が集まってくる気配を
やっと感じるようになりました。
無動詞を書いていた時期
必死に平然を偽っていましたが、
心の中では
自分との妥協の無い
極限な闘いがありました。
今、無動詞について
話せるようになったのは
きっと
心のどこかで
自分の無能力を責めないでいいような
余裕が出たからかも知れません。
まだまだ私には
この苦を通過しなければならない
長い道のりがありますが、
皆様の激励、叱咤で
心に刺さっている釘を抜いていける気がします。
改めて皆様に感謝申し上げます。
無頓着でしたか。
正直、どういうことなのか分かりません。
やはり、相手の表情が見えないことがネックになってるのかなと。
言葉の論理だけを追ってしまいますから。
とことんぶつかっていない人は
人間関係を頭でっかちで
計算して打算する。
計算してプラスにならないと
表面的に適当に扱いだす。
計算してみてマイナスが著しい場合は
相手の気持ちを害して
自分の得にしていく。
この現状を気づかないまま
偉人の言葉を並べても
それは空っぽな独り善がり
人が本当に言いたいのは
その人が恐れて言えない隠したところにある。
その隠れたところに
日光が当たると
少しづつ殺菌作用が始まる。
今、浮かんだ気持ちを言葉にしてみました。
それでも
この言葉を切り刻む人は
憐れかも知れませんね。
原稿を確認してもらえる環境にはあるのでしょうか。
それとも、その原稿を書くことが怖いほどに知識不足を感じているということなのでしょうか。』
上記に引用したたかはしさんの質問に
どう答えたらいいだろうと結構長い間、考えました。
素直に答えるには
たかはしさんの質問が無頓着極まるので
それに答えると私が自己嫌悪に落ちそうだし、
たかはしさんの無頓着ぶりを指摘しても
それから
ウナギのように滑り逃げるし
かといって無視すると
私の良心が痛むし
で、あれこれ
考えた結果、
答えはこうです。
たかはしさんは女性とまともに、真剣につきあったことが無いから
自分の無頓着に気がつかないんだと。
原稿を確認してもらえる環境にはあるのでしょうか。
それとも、その原稿を書くことが怖いほどに知識不足を感じているということなのでしょうか。
上記のURLは私が5月に投稿した無動詞の記事です。
あの記事は英訳を振っていなく
他のFacebookや他のサイトへ外部リンクさせてもなかったです。
読んでほしいだった一人の人のために
独り言を書きました。
このブログのコメント欄を閉じていた時、
自分を修行の身に置き
起きてさえいれば
只管、言語の訓練に没頭してました。
その苦しみがあって
心構えをリセットに繋がったかも知れないし
自分の目的に辿る地図作りのような時間にしていたかもと、
今になって、その頃を思い返せるようにやっとなりました。
私は毎回、今回の記事が最後の記事である覚悟で書いています。
だからか、書いてから二度読まないない。
書いてから、書こうとしたことは
もう済んだ状態になりますが、
この無動詞の記事は
私にとって始まりで
気を済ませることができない『未来進行形』です。
今もこの記事は
心の苦痛なしでは読めないですが、
私にあのような時期があったと
その自分との闘いを潜っていると
皆様に知ってほしいのもあって
リンク先を添付します。
あの時は
人様から判断や批判を受けられる状態ではなかったし
今のような激励、叱咤、アドバイスさえ
受けられる状態ではなかったです。
只管、自分の能力がOKになるまで
努力していた、畑を耕していた時期でもありました。
今、こうやって
皆様から種を植えて頂き
それを育てていき
いずれは、いつかは
実を収穫できる日がくることを
指折り待っているのみです。
2018-10-27 22:29:33
南本翻訳者としてのケイレンさんに私が期待したいことは7つ程あります。
1.仏教本翻訳者としての品格を身につける事
2.英語ネイティブの知識人階級の人に認められるような格調の高い英文で書いて貰いたいという事。
3.原文日本語の日本人魂を間違えないで伝えて欲しい事。
4.日本的仏教用語とインド仏教用語との齟齬(そご)をよく理解し、適宜に脚注を入れて欲しい事
5.独自の仏教観をもつ南師の真意が伝わる様に適切な解説を挟み込んで欲しい事。
6.自己判断をしないで、南師の指示・指摘に忠実に従って頂きたい事。
7.南ファンの期待を裏切らない事
もし他にもあれば別途書き添えますから、ベット脇の家訓としてくださいますれば幸いです。<
上記の教訓を教えてくださった方へ
それら全て私が念願した『要求条件』でした。
他人が私に何を要求しているか
明確にしておく必要がありましたが、
中々それを聞ける状況でなく
またタイミングも巡ってこなかったので
私なりに掴めていこうと
思っていた時でしたので、
目から鱗が落ちる瞬間でした。
先は出かけの支度で急いでいたので
真面に返事できなかったのでした。
南師と面談から一年がすぎ、
今まで、自分との葛闘
自分の能力不足の不甲斐なさ
脳の処理限界性など
始めたくても
始められない苦しみで
生地獄を彷徨う感じでした。
まだ、私の心の底から
『では、始め』との声が出ない状態ですが、
私が目指す目的地を設定された感じがします。
ご指導本当にありがとうございます。
公で処罰を受けている感じですかね。
花をくれる人もいれば、
水をくれる人もいる。
石を投げる人もいれば、
パンをくれる人もいる。
刺された傷口に
塩を塗る人もいれば、
手当をしてくれる方もいる。
だから、このコメント場は
私にとって決闘の場であり
私が試される試験場でもある。
「縁起」は仮設された「空」である。
「空」とは何かに執着(縋りつく)事を無効化するマジックワードだ。
いいような気がしますが。ちょっとなんか、うまく言えないです。
御用心あれ。
調子に乗るのも今の内かもな。
○山が荒れた状態に似てる。
管理人なら疲れるわな。
直情径行的にその時々の感情をペロッと喋って、
あとはスッカリ、あっけから~んと忘れてしまっていて、
しかも自分の垂れ流したコメは二度と見ない性向があるようだから、
ケイレンさんの言葉を真に受けない事も必要なのかも知れない。
同感!
念押しの意味合いもあります。
そういう意味で言ってるのか(そうじゃないよね)という。
日常生活で使ってない?
がケイレンさんのホントのホントの本音かどうかが先ず問われるべきですね。
本音なら・・・、
『私が本音を言うと、
相手が私から去っていく
私の周りには誰も居なくなる
哀しいかな
我が本音
冬ばかり』・・・(ケイレン作短歌)
これが現実に成りそうだ。
しかしケイレンさんって
直情径行的にその時々の感情をペロッと喋って、
あとはスッカリ、あっけから~んと忘れてしまっていて、
しかも自分の垂れ流したコメは二度と見ない性向があるようだから、
ケイレンさんの言葉を真に受けない事も必要なのかも知れない。
普通、こんな取り違いをするか?
それで、人の論理性を非難してんの?
それで、S長老は悟ってないと?
ほとほと馬鹿馬鹿しいわ。
管理人さんは律儀な方みたいで、読み流しができないのではないですかね。
スッタニパータに関しては、高橋さんのブログに、見やすい語録を作られては如何ですかね。
S長老が悟ってない宣言も、そちらで大いにされると宜しいのではないでしょうかね。
賛成!
絶対服従と意味を取り違えた、ということを重要視したいということ?
それは議論の本筋?
そういうところが、子供の口喧嘩レベルと感じてしまう理由です。
特に取り立てた改善は必要ないと思いますね(=現状維持賛成!)
管理人さんはイヤなら(引用・リンクを)読まないでいれば良いだけで、
もし気にくわなければ削除する権利を持ってるし、
なによりも、それらの引用・リンクを全て読んで新たな知識を吸収したいと思っている読者もある訳ですから(またそれが新たな話題にもつながっていく訳だし・・・)。
引用・リンクの全くないコメなんて
あまりに「井の中の蛙お喋り会」になってしまって、まったくもってつまらない(=わたしゃ、ごめんだ、ここにはもう来ない、となること明白)
と言われたから、
それは絶対服従という意味なのか?
と聞いたのです。
意味が全く違いますね。
皆さんへ
改善が先決を、絶対服従と捉えますか?
そして引用するなら、これこれこうしてほしい、という要望もされています。
その意を組む気が、高橋くんにあるのかどうか。
要望を提示されても尚、連発スッタニパータの貼り付け状態とは、嫌がらせの領域かもしれませんね。
わざとですか?
「縁起」は仮設された「空」である。
「空」とは何かに執着(縋りつく)事を無効化するマジックワードだ。
この指摘に対する改善が先決なのでは?
改善が先決なのでは?
と言われたから、
それは絶対服従という意味なのか?
と聞いたのです。
これ以前に、どこから絶対服従という単語が出てきた?
また、これは、絶対服従宣言をしない限り、改善するつもりはない、と言ってるようなものだろ。
というかヘタしたら閉鎖になるかもしれませんね。
もしかして、高橋さんが絶対服従の支配者だから、そう思うんですかね?
ブログのコメントも少ないようですし。。
まさかね。
それはケイレン流見方の一つに過ぎず、
要するに自分が裁き切れずに値を上げているに過ぎないとも言える。
でも現在のケイレン氏の生活環境なら充分こなせる程度のように思えるが不思議??(仏教優先とするならばだが)。
引用した人は、
ケイレンさんを始め、このブログを読んでいる人への、タイミング良い記事を紹介したいと思ってリンクしているのだから・・・引用者の好意に乗ってみるのも悪くない。
少なくとも私はそうしている。そして大部分の場合、それらを読んで見て良かったと思っている。
色々新たに考えるべき情報が含まれている。自分の思考の枠が広がるのを感じる。
許しがたい、というかポアッチされるかも~ヽ(;゚;Д;゚;; )ギャァァァ
迂闊なこと言えまっしぇん!!
だったら私と同じですね。
だから、私は、その改善要望について私の判断で対処します。
そういう感情があなたにもあるの?
それはスマナサーラ長老の教えに合致するの?
私には、そう思える、と言うことは、許されないの?
シンパではない。話をそらさない。癖か?
解脱とは凄まじいこと、何ちゃらかんちゃらという解釈をしている人間が、修行もしていない未熟者が、判断する(できる)ようなことではない、ということ。
あなたが判断できる程度なら、解脱という事が軽いことになる、ということ。
あなたが、解脱を理解しているようにも取れるということ。
まさか
解脱を理解してると示してるの?
示したいの?
たかはし宅へサリンをまいてポアしたい位、たかはしさんを憎む事に成るでしょうね。
彼等にとっては自分が悟れるという希望まで否定するのと同じ事だからですよね。
お~い高橋君、宜しくご自愛なさってくれたまえ。
ならば、管理人もあのようなコメントはしないだろう。
なぜ改善を、絶対服従と読むんだ?
酔っぱらってるのか?
あなたには、そう思えたのですか。
私には、これまでの経緯からみて、そうは思えないのですけど。
そして、悟っているとは思えないという判断も当然にあり得る、ということですよね。修行してない未熟者だから。
勘違いしないで下さいよ。スマナサーラ長老は悟っていない、が真実だ、と言ってるわけではないのですから。
あくまで、在家の私個人の判断に過ぎないのですからね、
スマナサーラ長老のシンパにとっては、そんな言葉を目にしたくない、という心情は分かりますけど。
それはお前の個人的な見解に過ぎない、で済む話だと思うのですが。
引用した人の真剣さが伝わりにくい、
管理人さんからこう思われてるなら
この指摘に対する改善が先決なのでは?
思慮が浅いとかではなく、乱用しているようにしか見えないと思いますよ。
高橋さんが格闘したんなら、それぞれにどう格闘したかのエピソードでも入れて、意味付けされては如何でしょうね。
真剣さも伝わることでしょう。
善は為すべきこと、悪は為さざるべきこと、という判断があってこその強制ですよね。
会うだけでもダメなんではないですかね。対話というか、そのような事がないと。そもそも修行か出家をしてないことには、話にならないことかもしれませんがね。
引用した人の真剣さが伝わりにくい、
それは自分の思慮の浅さに問題があるかも、とは考えないのでしょうか。
安易に使えるようになるまでには、その言葉と格闘した歴史があるとは思えないのでしょうか。
そうなると、S長老の文章は下品の分類になるんですかね。たまたま、格調高いと思える文章を見たことがないだけですかね。実生活は、格調高いのでしょうけどけど。
桂蓮さんのブログであるより、た○○さんのブログの如く変えている行為が醜悪ですらあります。悟りとか宣う前に自己を省みるのが自称仏教者の在り方でしょう。これに反論する前に、自分の思考と言葉でコメントして下さることを望みます。
実際に会ったら違う印象を受ける可能性があるぞ、と言われれば、その可能性は否定できないと思います。
そうやって守った部分について、守ったことに拘らないようにする、というのが今の私です。
守る気ないなら、こんな理想を掲げてもクソですよね。
縁起には、常住な「それ自体」を介在させるものがありますね。それがバラモン教。バラモン教では、常住なアートマンを介在させた因果関係、輪廻について語っています。
だから、縁起を空の意味にする、というのは、常住な「それ自体」の存在の可能性を排除するということだと思います。
空とは、〜が無い、という意味が語源だから。
だから、その時点では、無記ではないと。
その空ということは、実は、執着を脱するために仮に設けられたものなのだ、ということを表明するに至って初めて、それは無記という意味になる。
そう思います。
会われてもいないのに、悟っていない発言は、論理が問題どころの話ではないのではないですかね。
その阿羅漢さんは、智慧で悟った僧侶と書かれていましたから、スッタニパータが智慧なら、その内容が「わからない」事はなかったのではないですかね。
高橋くんもね。
コメントは絶対ではありませんから、気軽に構えられて宜しいかと。
毎週の土曜は
2週間分の食料、備品などの買い物があり、
コストコに50分かけて行き
日本食や韓国食品の買い物のため30分の片道
クリーニング屋15分
その他の細かい食品などで近所のスーパー20分の距離
それらの店を走り回るのです。
帰宅してパソコンを開けるには11時過ぎになる見込みですから
これから5~6時間は応答コメができません。
帰宅し、コメントをまた読めるようになりましたら
報告します。
悪であるが故に禁止されるのではなく、ある欲望が禁止される。
その禁止された欲望が悪であり、禁を犯せば罰せられ、罰せられたことが罪と呼ばれることになる。
他方、善は課せられる。自ら進んで善を行う者は尊敬に値するが、尊敬されるということは、まさにそれが、本来したくないことだという事を示している。責務として課せられることが、善の基本的な存立構造なのである。
従って、悪には常に罰する者が、善には常に課す者がいる。ということは、善悪には、その根底に強制があるということだ。」
この、通常とは違う視点から、ものごとの在り様を冷静に見る方法は、流石だなと思いましたね。
「関係に関係ができた時、つまり関係を認識できた時、その両端に他者と自己が発現する。すなわち自意識とは、私の意識ではなく、私と他者の関係、の意識なのである。」
そうなると、自意識とは縁起、ということにはならないんですかね。
そのように書いた背景には
①私は偉人が言ったことは実践であって紹介ではないと思っている
②コメントの数の比率性質を観察した時に
偉人のことばを安易に使っていて
引用した人の真剣さが伝わりにくい、
と言いますのは、
偉人の言ったことば引用6割強に対し
それを砕けて解釈できた意見は3割程度
その他の1割はユーモアなど
③引用だけして置き、それでお終いな傾向が著しい
④引用してからその引用文への考察が為っていない
⑤あまりにも引用が多すぎて、それにうんざり
毎日、引用のステーキだけ食べられないです。
自分の意見という野菜も食べないと
引用の便秘になるでしょうから
未然に防ぎたいなと期待しながら
書いたのです。
これから、またコメントを熟知を目指し再読みますね。
その人が言おうとした論点が何なのかを見極める必要があるかと思います。
言おうとしてることの論理に問題があると感じる。
だからそれを問う。
私にとっては、そういうことなんだけど。
それに、言いたいことを汲み取ってほしい、ということなら、分かるように語る努力が必要ですよね。
単なる揚げ足取りだと批判する前に。
心が激昂(Combustion)しちゃって脳パンク状態。
ほんとうにウンザリ。
みなさまご自重を
今回のコメントは
私にとって定石となる貴重極まる内容だということを
伝えたいです。
皆様のコメントを
ワードでまとめ
暗唱できるまで
読みまくります。
ありがとうございましたとのことばは
軽い感じがしますが
それしかいいようが無いですね。
>知識分野で分からずとも、阿羅漢となった僧侶がいる、釈迦はその阿羅漢を誉め称えた、これは、知識の無い人にとっても心強いことでしょう。
スッタ・二パータは、単なる知識じゃないと私は思っています。
悟った人には当然に分かる智慧の分野だろうと。
まあ、スマナサーラ長老のシンパには、受け入れたくないことだろうとは思います。
なお、私は、スマナサーラ長老が完全には悟っていないと思っていても、尊敬してるんですよ。
偉人とは釈迦の事で、たかはしさんの引用文ということなのでしょうか。
ちょっと心配になりました。
それは修行ではなくて、当たり前のことをしているだけだ。
そんなようなことを宮崎奕保禅師が言ってましたね。
なお、守ることに拘らなくていいのだから守らない、というのは、もちろん駄目でしょうね。
苦しみを終滅せしめる、の誤り。
文章家(翻訳家)としての真価(真骨頂)は、
とくに仏教書関係(宗教関係)では、
実生活かつ文章上で其の品格を現わせるかどうかであるともいえますね(=言動一致)。
格調が高い文章に人(読者)は震える(共鳴)するのだと思います(勿論内容も大切ですが・・)。
下品な人が格調高い文章などは書け無いでしょうし・・
398 また飲酒を行ってはならぬ。
この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。──
これは終に人を狂酔せしめるものであると知って──。
399 けだし諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、
また他人の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。
この禍いの起るもとを回避せよ。
それは愚人の愛好するところであるが、しかし人を狂酔せしめ迷わせるものである。
400 (1)生きものを害してはならぬ。(2)与えられないものを取ってはならぬ。(3)嘘をついてはならぬ。(4)酒を飲んではならぬ。(5)婬事たる不浄の行いをやめよ。(6)夜に時ならぬ食事をしてはならぬ。
401 (7)花かざりを着けてはならぬ。芳香を用いてはならぬ。(8)地上に床を敷いて伏すべし。これこそ実に八っの項目より成るウポーサタ(斎戒)であるという。
苦しみを修滅せしめるブッダが宣示したもうたものである。
402 そうしてそれぞれ半月の第八日、第十四日、第十五日にウポーサタを修せよ。八つの項目より成る完全なウポーサタを、きよく澄んだ心で行え。また特別の月においてもまた同じ。
403 ウポーサタを行なった<ものごとの解った人>は次に、きよく澄んだ心で喜びながら、翌朝早く食物とを適宜に修行僧の集いにわかち与えよ。
404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。」
(スッタ・二パータ)
私は、自分に出来る範囲で無理なく、という方針です。
昨日は楽しい酒を飲みました。
彼の事を批判する根拠は、
彼は日本人、日本の文化を見下している感じが有る。
自分は高尚・高潔な国からやって来て、ダメで下品なニッポン人を教導してやるのだみたいな上から目線がみえ隠れする。
自分の国は10年前まではテロリストの国で、敬虔な仏教国なんかでは無いのに、日本よりずっと正当な(正統な)仏教国だと自慢してる感じが有る・・・とかとか。
それが言葉(文章)のはしはしにでるのだ、とか何とか。
まあ彼からいわせれば、それはやっかみだ、偏見だということになるのでしょうが、人さまざまですから・・
とかから
理想の(仏教本)翻訳者のイメージを自らの心の中に立ち上げて置けば、
その教訓に日々自省の心をもってすれば、
自分を善導しようとする意欲が湧くし、
お釈迦様もきっと喜ばれる事でしょう・・
ナイショ。
下品な人が書く文章は、いかに気取った文を書いもすぐにお里が知れるという事が有りますね。
慇懃無礼でいやったらしいとか。
とくに仏教書の翻訳では、書き手(訳し手)の下品さが表に出たらそれでアウトですね。ただただいやらしさのみが浮き彫りされて・・・
文章には人の心が現れる!!
桂蓮さんは翻訳に取り組む上で、文章の品格を向上させる為に、反応を見ながら勉強されているのではないでしょうかね。
必ずしも物書きの人格が、書物に影響するとは限らず、デキとしては別で、仕事としての才覚になってくるのではないですかね。
またいくら実生活で品格があるとしても、文章にそれが現れるとは限らない、ということですね。
理想的には、両立に超したことはないのでしょうが、それも本人次第ですよね。
ある意味、出来ることをするより、好んでいることを禁止されて「しない」ようにする方が、難しいことなのでしょうね。
私は、酒が無くても困りませんがね。
実践してみる、実践して見せる、実践して見せろ・・・という事なんだから、
引用文・リンクに他者がどう反応するのか観察するのが役に立つ、ってどういうことですか??
それでご自身の品格(品性)が上がるのですか??
引用・リンクされた金言・名言を自らのモノとして実践してみる、
それは実践する価値が有る、
実践を通して自らの品格を上げる・・・
という事ではないのですか?
たかはしさんだってスッパニパータを人生の教科書として、なるべく実践に励もうと意識しておられるから、今の状態で収まっている訳で、
もしスッタニパータと出逢わなければ、
世の不条理・理不尽に耐え切れず、
反抗心から、
大変な暴漢・テロリストになっていたと思われますよね・・・
或いはそそくさと多くの他者を巻き込んでの自爆行為をやらかしていたかも??
まさにスッタニパータがたかはしさんを救い、周りの人も救ったという意味になりますね。
いずれにしても、酒は悪行為で、業を積むことになりますから、私は断酒にしています。
悪に染まることがあるなら、善に染まることもあるでしょう。
よい香りのする処にいると、自然によい香りが衣に染みているように、人に対しても、よい香りを出せると、香りが移るのかもしれませんね。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-161.htm
チクリと刺す諌言なんかは怒りが噴き出す対象で、
そいつに銃口向けてズドンとぶっ放すか、
脚けり頭つきで相手を流血騒ぎに追い込む勢いだったけど、
さいきんのケイレンさんはかなり穏やかで、品のいい人に変身してますよね。
品性を養って来ている証拠ですね。
たかはしさん効果が確実に出ていますね。
南本翻訳者を志しているケイレンさんには特に、
凡人の人間的反応を学ぶんじゃあ無くて、
リンクされた記事、引用された記事等の、
偉人・賢人・覚者・知見ある人の言葉をジックリ学び、じっくり味わって、じゅうぶん倣ってご自分を変えて行って欲しいですね。
そうすれば、必ず品性も養えますよ。
まず真似しようという意志が出発点なのだと思いますね。
https://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/627dad2ee3b36d2d7999012f4f739d42/?cid=1df19f260652c9fc7de23fe323745f92&st=0
品性も養えるか?
面目ない🙇
なんつって。
でも飲み過ぎ運転して、上等ニューベンツを傷つけないでくださいね、ご自愛、ご自愛だよ!!
百薬の長という見方もあるしね。
煩悩を解放するケースもあるし
煩悩を深めるケースもあるし
単に一律にあーだこーだとは言え無いよね。
ただ単に釈迦時代の出家グループの中では不要だって言っているに過ぎないし・・・
イエスキリストだって、婚礼の席に出席した時、ワインが足りなくなって、婚礼の主催者が窮地に陥った時、
ただの水を、品格のある極上のワインに変えて主催者を助けたって逸話もあるし・・
自らわきまえた上での自由自在は一つの見方だし、少なくとも一休禅師ならね、「いよォ~、御同輩」って喜ぶかもね。
南さんの品位を傷付けるような事があれば、
われわれ南ファンは一生ケイレンさんの事を恨む事となりますね。
そうならないように、どうぞご自愛くださいますようお願いいたします。
1.仏教本翻訳者としての品格を身につける事
2.英語ネイティブの知識人階級の人に認められるような格調の高い英文で書いて貰いたいという事。
3.原文日本語の日本人魂を間違えないで伝えて欲しい事。
4.日本的仏教用語とインド仏教用語との齟齬(そご)をよく理解し、適宜に脚注を入れて欲しい事
5.独自の仏教観をもつ南師の真意が伝わる様に適切な解説を挟み込んで欲しい事。
6.自己判断をしないで、南師の指示・指摘に忠実に従って頂きたい事。
7.南ファンの期待を裏切らない事
もし他にもあれば別途書き添えますから、ベット脇の家訓としてくださいますれば幸いです。
それしか、
小さい、せこい自分という奴隷から解放される道はないじゃありませんか。
自説を主張する事が先ではないでしょう。」
A~こと言われますな、旦那さんよ。
だけんど、適宜1コメ1個の意見付きくらいにしないと、管理人さんがキーッ((ヾ(≧皿≦メ)ノ))となりますわな。
どうすっぺ
残念‼
悟っていない人はみなボンプ(凡夫)・ボンメ(凡女)で、従って貪瞋痴で、従って井の中の蛙で、従って「無明」の極みで・・・
(たとえ南さんでも、悟っていないなら・・、
まあ大部分の他者よりか大分マシだとしても・・、
やはり凡夫で貪瞋痴で井中の蛙で無明人な訳で・・)
もっともっとひどい極低レベルの人間である我らが、自分の意見はど~だ、
自分の立ち位置はこ~だと表明したって、
井の中から大海になんか出られるはずがない。
身心脱落しなければ、単に呪縛に陥るだけ・・
だから、順番を間違えては
いけないのではないでしょうか。
先ず大海を眺めなさいって事です。
どうするかって??
賢人の意見を良く聞き、その言葉を引用し皆にも知らせ、自分も学び、相手も学ぶ。
そうやって大海が在る事を知る。
それしか、
小さい、せこい自分という奴隷から解放される道はないじゃありませんか。
自説を主張する事が先ではないでしょう。
奴隷状態にある自分が
自分の論理を必死になって主張しても、
賢人からは鼻で笑われるだけです、あんたって何様?って。
まず謙虚にヘリ下って、己を学ぶ(=他者から倣う)。
其の為のリンクが有って引用が有る。そうやって私が習う、あなたも習う・・・
そうゆう事ですね!!
これが余計
反省が先
言ってる事に辻褄が合わない事、
言ってる事に矛盾がある、
って事でよくねェ~??
賛成!
1歩、成長しましたね
パチパチ
この発言は、南さんのシンパですね。
よく観察なさっていますね。
自己を成長させていくには、他己からしか学べないし、またそれを自覚していかないと育たないんですよね。
こちらも勉強になっています。
有難うございます。
その人が言おうとした論点が何なのかを見極める必要があるかと思います。
高橋くんは最近、その傾向が顕著に見られるようでしたね。故に、中身が無いとまで言われてしまうのでしょうね。
ですが、耳を傾けるかどうか、、、
スタンスを変えない堅固さをお持ちのようですから、中身が無いと言われたことでプライドも傷つき、イジけているやもしれませんね。
まあ、そこまで幼稚かどうか、、、
いつか、どこかへ辿り着くでしょう。
それが彼岸だったらいいですね。
連られて来られた方々からの率直なコメントを
頂けるようになり、
私はそのコメント往来のありさまを読むことで
知識活用術を学ぶことができました。
以前は、私を含め2人だけで
コメントの交流をしてましたから
(稀にくる人はカウントしない)
どうも話題が限られてしまってました。
それが、今や2人以上の人が
誰かが振ってくれた話題を話し合えるようになり
私はそれら会話全体から
知りたかったことを自由に学んでいます。
名無しさんが、私はたかはしさんからだけに
仏教の諸知識を学んでいると
一々注意を促し(何回もコメントされ)
それに(たかはしさんに)
感謝しろみたいなニュアンスで言っていますが、
私がたかはしさんから学んでいることは
偉人のコピペや偉い教えの引用ではなく
彼が人と関わる態度
その態度から人がどう受けるか
彼が思う自分と他人が思うたかはしさんの違さなどを客観的に学んでいます。
仏教の教えは
私が翻訳をするのに知るべき根本知識ですが、
私はそれを英語で訳す役目があるため
人の知識の捉え方を知る必要があるのです。
偉人が言ったことばは
既に他の訳者が訳しているので
私の翻訳仕事とは直接な関りが無いです。
私が今、皆様にコメント欄で
乞うていることは
偉人の偉いことばでなく
偉人のことばを
各位様による受取り方、
つまり、どう受け取っているかです。
この私の趣旨をご理解頂けたらと願いながら
できるだけ論理的に書いてみました。
これも妙な話ではありますよね。
そもそも言葉とは、欠けている道具なのではないですかね。
「火」という言葉は、燃やすことも消すこともできないのですから。
決して「そのもの」には届かない、という欠如です。
必ずしも、「何も自分で考えていない」
「欠けている」とは、「言い切れない」という事です。
引用文無し、コピペ無しで
『論理的であることはどういうことか』
『論理的であることはこういうことだ』
について生の声が聞けるようになりましたね。
>自分の立脚点を述べてから始まるのがお互いの思考の在り方を問い認識を深める方法<
Bさんの提案に一票です。
人の言葉の上げ足を取る前に
その人が言おうとした論点が何なのかを見極める必要があるかと思います。
偶には頭脳系のギャグも面白いのですが、
やりすぎると、真剣に書いている人に失礼になるかと思いますし、
あるAの案が出て、それを熟知する前に
そのA案を批判や判断で誤魔化すことは
討論のマナー違反だと思うのです。
ここまで来たのなら(生で話せるようになったなら)
(本当にうんざりの)偉人の言葉で自らを代弁せず
自分の言葉で
論旨を明かす必要があると思います。
>何とかにこう書いてある、あの人がこう言ったとか、権威や信仰に頼るのではない、思いを言葉にしてゆく、この事が欠けていて、
私は上記のBさんの
『欠けている』ことへの返事が辻褄の合う答え方だと思っていましたが、(たかはしさんが自分に対して論理的だと思うことと、本来の論理的あることにとは食い違いがあり、論理的であることに何か欠けていると言った私への答え)
>そんなことはありません。
まず、「頼る」と「拠り所」の違いを教えてもらえますか。<
と忽ち反論にいきなり飛躍させているので
その飛躍は性急な判断ではないかと思えてきますね。
>何とかにこう書いてある、あの人がこう言ったとか、権威や信仰に頼るのではない、思いを言葉にしてゆく、この事が欠けていて、
そんなことはありません。
まず、「頼る」と「拠り所」の違いを教えてもらえますか。
各々、思いを言葉にしているようには映りますが、変な方向に行くだけの事でしょう。
また、子供会で、このような話題で話ができる者に出会ったことはありませんし、聞いたこともありませんがね。
念のため。
これは、どんな人を指すのでしょうかね。仏教者なら、先人の教え抜きに「気にしない」ということはないのではないでしょうか。
また、どうであろうと、自分で考えることに比重を置くことに、何か問題があるのでしょうか。
このような極端思考が、コメンテーターとの関係を悪化させてしまうのではないですかね。
何とかにこう書いてある、あの人がこう言ったとか、権威や信仰に頼るのではない、思いを言葉にしてゆく、この事が欠けていて、イ○○ちゃんと同レベルの懐古趣味的な胡散臭いコメント、老人の紋切り型のお説教でしかなく、普遍性のないただの自己満足でしょうね。
これが真理であると思い込む、「た○○さんやイ○○ちゃん」は同類の非院代的思考なのです。この事に気付かない、いや気付く事が出来なくて、また同じ過ちを桂蓮さんにご負担を掛けているのです。自分ブログでもないのに繰り返し自己宣伝、自己主張ばかりの己の姿が見えていないのですか。そこが嫌われる大元でしょうに。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/5bea75bf22d9d0247adb0582ffdf8fb8
<「縁起を見ることが空を見ること」と言うなら、常に同一な「Aそれ自体」の存在を無条件に肯定する判断は間違いだと考えることが、「空」の実質的な意味であり、したがって、「空」は「無記」の論理的展開だと言えるだろうと、私は思います。>
条件があって肯定される、という存在の仕方がAでありBでありCであるということですかね。
そ~そ~。そういう見方もあるね。
頭の良いのも「ほどほどに!!」(byS長老)
非論理的って、
言ってる事に辻褄が合わない事、
言ってる事に矛盾がある、
って事でよくねェ~??
ロンリー的って最高のジョーク。
今夜は気持ちよく眠れそうです。ありがとさん。
自分が持つ力の1%なのか、100%を実践しているかで人の尊さは決まるのだ
極端は、中道から外れるんじゃなかったですかね?
先ずは仮定や仮説を疑う必要があると思うのです。
(南師による、結論を裏切る技)
AがAであるために必要な前提
AがBに為れない根拠
AとBの相関関係から
言えることをCだと仮定すると
CがAに辿る過程式が成立する因果関係も成立すると言える
私が思う論理的であるということの定義ですが。
筋が通ることは説得力の一つであり
論理的であることの絶対条件にならないと思うのです。
キリスト教聖書でも同じ事が言われていますね。
金持ちが10万円神に献金するのと、
千円しか持っていない貧しい寡婦がその千円全てを献金したら、神はどちらを尊ぶか??
イエスはその寡婦を褒め称えた。天国はその寡婦のものだと言って・・・
知識の量、金額の量では無くて、
自分が持つ力の1%なのか、100%を実践しているかで人の尊さは決まるのだ、ジャン!!・・・とてもGood Newsですね。
非常に分かりやすい定義ですね。
なぜなら、たかはしさんがご自身を論理的だと思うようで、その捉え方が辞典的な意味と食い違ってないのかなと、
でなければ、論理的であること自体と
他人が思う論理的であること他体は
そのことばや現象をどう捉えているかによって
論理的だ、論理的でないと言えるようになると
思うのです。
私にたかはしさんの言い方や論じ方は
論理的に見えないのですが、
本人のたかはしさんは
ご自身の考え方や言い方が論理的だと思っているようで、
ならば、他の人の考える『論理的であることはこういうことだ』について知りたかったからです。
ロンリー的にしときます、はい。
もし「論理的」がどうとかこうとかという事なら、
理(物事の筋道)が通る様に論ずるという事で、
何故ケイレンさんがわざわざそんな質問するのか意図があまり分からないかもしれません。
Aという見方、Bという見方、Cという見方等々
色々あって、
AならAなりに、BならBなりに、CならCなりに
それぞれ言う事が筋が通っている(一貫している)・・・
そんな感じですよね、まあ当然ながら・・・
他にも、悟っていないと思える発言がいくつかあります。
龍樹批判記事の中に、ある知的僧侶が、阿羅漢僧侶に質問責めをして、わからないと言わせるシーンがありましたが、それに類似していませんかね。
ここのキモは、釈迦の質問に応えられたかどうか、ということですよね。
知識分野で分からずとも、阿羅漢となった僧侶がいる、釈迦はその阿羅漢を誉め称えた、これは、知識の無い人にとっても心強いことでしょう。
つまり、わからないと言うことと、悟っていることは関係ない、ということでしょう。
わかるかな?
わかんないだろうなあ
たかは( 以下略
仏教世界では自己(自我)は無我になっても良い。
でも無我になった人をケイレン的旦那は有罪に出来ない、
なぜなら我(自己)が全く無いんだから?????
つまり「無我の人」は自己責任を負えない、
なぜなら左脳機能停止と同じ状態だ・・とか??
「無我」中死ねば渇愛エネルギーも発生しない。
これは輪廻からの解脱でアラメ!!
もともと無記の教えでもありますし。
答えていないようですが?
コピペ無しでは誰も答えられないとか?
ZIPさんのA=A、A=B説は分かるような気がしますが。
シッダルダ青年が初転法輪で、5人の比丘に認められて、「あなたは今では立派なブッダ(覚者、悟った人)です」と認定された(追承認)という事ならば、
そのご伝道旅行する時に、自分はブッダ(悟りを開いた者)であると自ら名乗って、それがスッタニパータに記されてもおかしくありませんね。
すでに社会的に認められた(=認定された)「悟り人」な訳ですから、
伝道する上の「肩書」と言った処ではないでしょうか。
その方が他の修行者や衆生が尊敬するでしょうから効果抜群。
それはS長老と逆のケースで、自分は悟っていないと言うとテーラワーダ伝道上具合が悪い。
処が「悟り」を至上命題にしていない曹洞宗の南さんは「我、無師迷悟なり」と平気な顔をしていられる。
(もっとも曹洞宗僧侶の中でも見性大悟をトクトクとと喧噪するグループもあるが・・・ひとさまざま、いたしかたなし哀しからずや…)
これは無理筋ですかね。
親方の事例を使うと、無人島に一人なら、自分という響きもクソもないですよね。
https://blog.goo.ne.jp/gorian21
アナウンサーが、その番組で自分を高めたいとかで出演されて、妙なダンス?などを指導されていましたが、何か可笑しく?何かの実験をされているように映りました。
まあ無我夢中で何かにのめり込むみたいな響きとか、
アホアホぽか~んみたいな響きとか、
焼いて食おうが煮て食おうが、おめ~さんの好きなようにせい、ムガムガとか、
あとはなにかなァ~。
イメージ女王のケイレン様
なんか言って他漏れ!!
ケイレンさんに読んでもらう方がよいという意味で、
必要がある事に成りますね。
高橋さんは(ケイレンさんの)大切な教育担当大臣ですから・・
彼のマジックの如きの超飛び跳ねた超越的表現が思い出されますね。
私はさるブログ(中野禅塾)で読んだだけですが。
横山さん、アナウンサーの女性に向かって曰く、
あなたの手の平の上にリンゴが有ると唯識(想像)しなさい。
そうすればあなたの手には現実のリンゴが現れますよ・・・とかなんとか。
今やケイレンさんの心の支えとなったZIPさんの露出があまりに無かったし、
ZIPさん自身、「最近興味が薄れた」とか仰ってたので「むむむ、いよいよ認知症か?」と諸行無常を感じておりましたが、
(やっと露出が有って)以前と変わらない小難しい事をおっしゃっておられて安心しました。
何時もの如く意味を解読するのに時間がかかりそうですが頑張ってみます。
応答コメ出来るかトライしてみます。お時間下さい。あしからず。。。
「唯識の歴史と基本思想」
横山鉱一氏は、仏教の根本思想と語られていましたね。法然・空海・親鸞・道元祖師方も、そうだという語り口でしたが、どうなんでしょうね。
自分というのは、言葉の響きであると。
無我というのは、その響きも無いんじゃないの?
子供の頃から、仏教教育局であ~だこ~だと喧々諤々(けんけんがくがく)、論じ尽くして来たS長老に、
竹村さんや南さんが歯が立つはずがない。
それを根拠にしている、ということなら、あなたにとって、それで何も問題無いと思います。
私の解説など気にする必要ないですよね。
高橋さんは実にビックリする程、
生真面目一徹なお方ですね。
過って仏教的に不真面目で、
世俗的にも男たちから逃げまくっていたケイレンさんに取っては
今こそ、欠かせない人材(教育係)ですね。
今後も宜しくお願いいたします。
なにせ、
今こそその時だとケイレンさんが気付いて呉れたのは、これひとえに高橋さんのお陰なのですから・・
これで南仏教本を翻訳するのに望ましい品格を
ケイレンさんが身にお付けになるでしょう。
素晴らしい事であります。
理論にまつわる裏話(宗教の歴史本を読んだ者でしか語れない)には妙に避けてるし、
無意識に読み飛ばしているかも。
それが話題になった記憶が無いので。
そのあなたの判断も、経典を根拠にしているんじゃないの?
他にも、悟っていないと思える発言がいくつかあります。
もちろん、それは、あくまで私の個人的な判断です。
そこをどう考えるかの違いだと思います。
あるいは、そもそも歴史上の釈迦の真実になど拘っていない、というスタンスもあり得るとは思います。
そういう人は、先人の文献、学者の解説など気にしないで、自分で考えることに比重を置くのでしょうね。
個人的に思うのは自由かもしれないが、実際に会話をした訳でもなく、在家の立場で判断できるものなのか?
ネットでも、「私は悟った」などの発言をする輩もいるようだが、それと同類思考ではないだろうか?
いくら経典を根拠にしようとも、経典に登場する釈迦が、悟り発言をしたという類いのものは、釈迦自身が記したものではない、ということを踏まえておく必要がある。
つまり、根拠のないものを根拠にするとはどういうことか?
釈迦は、根拠の無さも示す為に無記として、我々に問わせているのではあるまいか。
ずかぴょ~ん!!(⊃ Д)⊃≡゚ ゚
ZIPくんのは
人が生きてる限りは
私という名の名刺がいる
ってことでOK?
必然性は「私が無い」という事が不可能なことです。
「私が私である」【A=A】
即ち、同一性として、私が私の内に、私である為の理由を有しており、私が私として与えられた私を保有する限り、私は自己同一性として
存在するわけです。
私があり、私が私である(A=A)は、一般社会即ち、世間において生活する為の前提として、必然としてなくてはならないわけです。
しかし、
これから先が仏様の教えになるわけです。
世間で通用することとは無関係であり、言い方として適切ではありませんが、次元の違う話しなわけです。
桂蓮さんのご主人の仕事が成り立つ為の前提でもあるわけです。
即ち、A=Aではなく、A=Bでもありうるわけです。
A=Aでなければ罪を負わせることは出来ないからです。
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この何日間の解析です。
このブログ会社解析からは結構違う数値です。
ブログ書くものとして
アクセスは気になりますね。
煩悩の種ですけど。
追伸:微塵も無い、訂正ありがとうございました。
私に投票権が回ってきたので。
はい、引用無しでは自らの意見が言えない
たかはしさんは
中身が薄いと思います。
英語混ざりのギャグは避けているし
理論にまつわる裏話(宗教の歴史本を読んだ者でしか語れない)には妙に避けてるし、
偉人がこう言ったああいったの引用文で
自分の考えの空っぽさを誤魔化しているようだし。
第一、たかはしさんは
論理的だということを
引用だと思っているのでは?
名無しさんは論理的ということをどう定義しているのでしょうか?
同じ質問をたかはしさんにも聞きたいです。
考えて見ると、
南サイトに通常日での
出入り禁止を喰らったたかはしさんが、
(物言わぬは)腹ふくるるワザと、
脹(ふく)れ上がった御腹ゆえに
激しい腹痛を起こし、
寝るのも坐るのも
歩くのも立つのも
激痛です・・・
ってもしかしたら高橋さんの事??
どうぞご自愛くださいませ。
なお、
激痛が紛れる様に、
お相手させて頂いているわたくしは
利他行をしているのでしょうか??
とにかく同率おいわいいたしまする。
いくら竹村さんや南さんが逆立ちして頑張っても、
子供の時からサンスクリットやパーリ語を母国語の如く自由自在に操って、
子供の頃から、仏教教育局であ~だこ~だと喧々諤々(けんけんがくがく)、論じ尽くして来たS長老に、
竹村さんや南さんが歯が立つはずがない。
だから私はS長老に1票いれたのです。
中論文章を引用した高橋さんのコメントの意味をまともに真(ま)に受ける真剣味はサラサラ起きない訳ですね。
まことに相済みません、すみません、すみません、すみません!!
すべてケイレンさん自身が発した言葉ですね。
なんか意味深で象徴的なニュアンスがありましたので、
引用させて頂きました。
記事にしろコメにしろ、
アタシって、
(書きっぱなしで)二度と読まない主義なんです、
というケイレン親分はとうの昔にお忘れなのかも知れませんが・・
指が震えるだけでなく
>寝るのも坐るのも
歩くのも立つのも
もう激痛です!!
これは誰のことですか?
名無しさんがそうなったということ?
まあ、それをあなたに強制するものではありません。
スマナサーラ長老の方が専門家だからと、そちらを信じるのは、あなたの自由だと思っています。
あっち行ってぶつかり
こっち来てぶつかり・・・
でも肉を切らせて骨を切る。
とばっちりを受けたわたくしは、
指が震えるだけでなく
寝るのも坐るのも
歩くのも立つのも
もう激痛です!!
激痛ながらのボンファイアー
大概、相手が離れていき
回りに誰も居なくなる!!
哀しいか
我が本音
冬ばかり!!
スマナサーラ長老はこう言っているが、私は、こういう学者の解釈に共感している、ということを言っています。
S長老なんかは100も承知で、
高橋さんより専門家だが、
それでもS長老は
龍樹の言う意味が全然分かっていない!!
注;たかはしさんが龍樹を読み始めたのは、そんなに古くは無い筈では…
だから、スマナサーラ長老のことなんて言ってないですよ。
スマナサーラ長老は、私のコメントなんて読んでいないでしょう。
これってS長老の事ですよねェ~、
いいんですかS長老に向かってそんなこと言って。。
いけいけドンドン
ボンファイアー
ああ、指が震えちゃう!!
此処のブログコメを読む限りでは
この言葉はたかはしさんに宛てられた言葉では無かったんでしたっけ、よくわからないけど。
折角だから、コメ数最高値更新を目指して協力させて頂いております。
(過去最高値は前回の348コメ)
南記事10-20発で142コメ、
此処記事10-22発で334コメ。
これ全てタカハシ効果!!
それをわれわれは空と説く
それは仮に設けられたものであって
それはすなわち中道である。
(中論第24章18)
>勝義諦縁起=相依性縁起(by南師Definition)。
私は、どのような縁起であれ、それは仮に設けられたもので、それは勝義諦ではないと思っています。
大事なことは、その想いから解脱することだと。
そのための道具が、縁起という概念であると。
『空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた。』(『中論』13・8)
『行為と煩悩が滅するから、解脱がある。行為と煩悩は、分別思慮によっておこる。これらは、多様な想いやことば(プラパンチャ)にしたがってあるが、多様な想いやことばの世界は空性の中に滅するのである。』(『中論』18・5)
〇・・微塵(みじん)も無いので
心塵脱落の極意
名無しさんのコメントに乗っかっただけです。
>桂蓮さん、もし、さよならしたいということなら、はっきり言って下さいね。感情的な遠慮は無用です。
そんなさよなら的なことは二陣も無いので
誤解なさらずでお願いします。
言葉の上辺だけ読まずに
その奥の意味を読むことが望ましいかな。
私の見解はたかはしさんへの批判でなく
あくまでも私に読めたことを
遠慮なく書いたまでですので
受けとる、無視するは
たかはしさんのご自由でしょう。
人が見せた鏡は
自分が持っている鏡より
リアルであり、
見たく無い自画像を容赦なく映してくれるので
その他人に映された自らの像と
自分が見ている自画像を照らし合わせることによって
ズレを防ぎ、
新たな発見を見出すことができると思っているから
コメントしたわけです。
さよならとはどんでもないです。
おそらく名無しさんも
さよならの意味をジョークで例えたと思いますが、違いますかね?
AIの脳内はブラックボックスで、ポッと答えだけが飛び出してくる・・・
人間にはAIが何故そんな答えを引っ張り出して来たか全然分からない
・・・という現象が有りますね。
龍樹氏の言う勝義諦縁起とはその様なモノで人間ワザではない。人間では何故と文章化して説明する事が出来ない。
勝義諦縁起=相依性縁起(by南師Definition)。
釈迦が定義した原型12支縁起は
円周上に一方向の矢印(時計回り)で繋がれている居るモノで、決して相依性とは言いがたい。
もし相依性を表したいのなら、
各点を互いに全ての点へと相互に線を結び、
更に外の余白からも、無数の線が出入りし、入り乱れる図形にしなくちゃならない。
それは実感する事は、如何に釈迦と言えども人智では無理である。
ーーーーー
それはそうとケイレンさんに
この図形のイメージが湧いたら、次の記事でのダイアグラムで表現してみてください。
>『誤字脱字
先を急ぐ指
指の責任か
詠み人:桂蓮さま
焚火、それは人の心を強力に惹きつける古来からの行事。
獣たちは、その音をたてて燃え上がる不思議な生き物に恐れをなして一目散に散り行くのであります。
言葉の発端は、人の湧き上がる感情が火種となり着火に至らしめるのでございましょう。
指先は、時には意図せぬ独立した動きを見せることもあるこの事実。
桂蓮さま、喜んで下され ♪
この一句、100点満点中の100点でござるよ。
配点
① 熟睡中にも勝手に動く指先の謎( not スリ師 ) → 30点中の30点
② 桂蓮ブログ、記事の更新と共に、訪ねてみればコメ数がいきなり100超えの不思議 → 20点中の20点
③ いつものカワユさ ♪ → 50点中の50点
合計①+②+③=30+20+50=100( 点/100点満点 )』
スレクサ様のブログコメント欄での私へのお返しコメントコピペで、
『その言及なさったコメントの数ですが、
訳アリで専門的な流れになりつつあります。
部外の人は中々入りずらいので
義理コメ、なさらなくても宜しゅうでございます。
お気になさらず。』
と私がまたお返しコメントしたら、
>訳アリで専門的な流れ・・
→ そうそう、玄関チャイムの無い哲学問答のごとく。
コメンテーターの知能の高さに、積もったコメの意味を解読する能力は、ハッキリ申せばワぃにはござらん。
しかしながら、あの独特のバリアは仙人の糸電話のごとくダイレクトに我が腹に部分的には届くことも( 自分で何を書いてるのか分からなくなりました )<
とお返しのお返しコメントがありました。
何故、他の人のブログコメントをこっちにまでコピペしたかというと、
他の方からこのコメント欄がどう見えるかを皆様と共有したくなったので番外編として、
また他方放送局から流れたこっち系ゴシップなので、面白半分のコマシャールコメ系を貼り付けたくなったからです。
これからまだ読んでないコメを読みますね。
私のコメントをそういう風にしか読めないという自分に問題が有るとは思わないのでしょうね、の誤り。
私のコメントをそういう風にしか読めないという自分には問題が無いとは思わないのでしょうね。
釈迦は因果関係の因と果という流れを世俗的に発見した(だけ)という感じがしないでもありませんね(=世俗諦見たいなモノを説いただけ、十二支縁起の質素な原型の発明)。
874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。──このように理解した者の形態は消滅する。
1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」
(スッタ・二パータ)
それって世俗的でしょうか。
世俗の人は理解に苦しむと思います。
世俗の認識システムの否定とさえ言えそうだと思います。
龍樹の言う勝義諦とは、想いから解脱した境地のことだと思っています。そして、想いとは言葉ですから、言葉ではその境地「そのもの」は言い表せない、ということになるでしょう。
南さんが、経典における涅槃の説明が具体的ではないと感じるというのは、そういう理由だと思います。
八 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。【その二つの真理とは】世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。
九 この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。」 (中論第24章)
言葉で表現されたその言葉は、世俗諦ということになるでしょう。
涅槃とは、言葉で表現できない世界だ、というその言葉も、世俗諦ということになります。
涅槃は、自ら実現することでしか分からないもの、と言えると思いますが、でも、その言葉も世俗諦である、ということになってしまう。
凄まじいと思いませんか、仏教って。
自らの我を入れ混ぜない方が
望ましいかなと思っています。
私は、悟っていないので無我は無理。
だから、論理に徹しようとしています。感情を入れないようにして。
それが、反論された相手には嫌なのかもしれないですが、でも、それは相手が論理で反論してきたからこそのことですから、お互いに覚悟すべきで、どちらかが一方的に悪いということではないと思っています。
>反論や同調以外にも
人と論争を通して
互いを理解でき、支え合うことができると思ってもいます。
反論や同調以外の論争とは、どいうことでしょうか。
ね、私は、そういうことが気になるのです。変な論理じゃないかと。
私の解釈も書いてるつもりなんですけど。
それから、引用した部分に、なるほどそうだ、と私が思っている、ということでもあります。
なお、逃げたな、という部分を感じたら、お前はそこをどう解釈しているのだ、と具体的な箇所を示して聞き返して下さい。
どういう意味か分からないです。どこに書かれているのでしょうか。
以前では、私が師匠として接していたT(本人は私の師匠になりたくないと表明し続けていたが)と
私だけで1対1の対談形式でコメントが行われていました。
ですが、師匠Tの幅広い見識に私のような浅はかな者が
相手にできる訳がなく、
師匠も話題のテーマを
私が対応できる身の回りの出来事に
サイズを縮めてくれました。
その結果、雑談的(私のレベルで負えられた範囲)になった時もあれば、
科学的知識(私の興味分野)を交わす対談になった時もありました。
私は当時、私のレベルでは
師匠に応じられないことを
認めたくなく
頑なに我が道を歩んだ訳でして、
(中間の経緯は省略)
それで、今他の仏教の諸知識が豊富な方々が
このコメント欄に参加して下さり
削除の心配なく
ほぼ自由に独自の見解や意見を交わしている現場を
目撃して、
如何に、私の我が道は狭かったかと痛感せざるを得ない状況に置かれました。
認めたくない私の不甲斐なさを
認める時期がとうとう来たと
今、思っています。
読んで(≒読めて)理解できたからでなく
(漢字と文字さえ読めれば、誰でも理解できる)
その理解できた知識を
如何に、現象や抽象に関連づけて
そこから自分の見解を明確にし
知識を伝えた者と伝授された者同士で
コミュニケーションを行う手段だと
私は定義しています。
その私の見解的な定義からみると
たかはしさんの理論の展開は
どこか欠如している箇所があり
それらに直面しない態度が見られます。
たかはしさんが提供する情報源は
私にとって有益ですが、
その伝え方に
自らの我を入れ混ぜない方が
望ましいかなと思っています。
反論や同調以外にも
人と論争を通して
互いを理解でき、支え合うことができると思ってもいます。
博識を誇る(リンクのコピペと引用術では特に)
た〇〇〇さんがご本人の自己申告に従って
徹底して論理的になるかに着目して観ましたが。
問いへの答えにならず、
引用で逃げ回っている感じがしますね。
無我だと唯識が成立しない
=唯識が成立すれば、無我が成り立たない(対偶関係)。
ワチキにはようわからん。
はい!、たかはしさんの出番です。
私が読みたいサイトです。
龍樹は釈迦に遅れる事6~800年後に生まれたお方。
その龍樹さんが世俗諦と将棋亭(訂正・・勝義諦)と言う言葉を発明した。
龍樹さん言によって、釈迦は相依性縁起を悟ったのだとされた。
では、歴史上の釈迦の実像はどうだったんでしょうか??
なんか私的には、
釈迦は因果関係の因と果という流れを世俗的に発見した(だけ)という感じがしないでもありませんね(=世俗諦見たいなモノを説いただけ、十二支縁起の質素な原型の発明)。
注:釈迦の功績を否定する意味では決してありません・・・どうぞご理解くださいませ。
唯識の「万物は心の働きの産物に過ぎない」を引用されていたので、たかはしさんとは無関係に私見を述べれば、
その言葉の対偶は(対偶は常に真である!!)
「人の心が思い付いた産物(目の前に見える現象、脳内で描いた事象)が無ければ、
この世の万物(森羅万象)などは実存し得ない』
これって真実ですか??
対偶
A=Bが真ならば、not B=notAが成立する。
notB=notAが真ならばA=Bも真である。
対偶って言う言葉を南ブログ上で私に教えてくれたのはZIPさんですね。ZIPさんはわたしの師匠です。
http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/06.html
結果論からすれば、(龍樹さん自身の善意に反して)龍樹さんがバラモン人に揚げ足を取られるような言動をしたので仏教を自滅させた(らしい)、
という見方もあり得る
ということだけ分かれば充分です。
(世の中には色々な見方があるものです。)
(ダンマ ・パダ)
それが唯識が生まれる元になったと私は思っています。
スマナサーラ長老は、人間の認識は、脳で合成された現象認識である、というようなことを言いますね。
ちなみに、茂木さんの言う「仮想」もそういうことだと思います。
哲学では、「もの自体」は認識出来ない、ということが取り沙汰されるようですね。
世親 … 唯識の思想。万物は心の働きの産物にすぎない
その唯識者は、世親のことですかね。
インドでの仏教は破綻したとしても、「仏教を破壊」したとは言えないですよね。当時の社会的な問題で、支持者や理解者が得られなかっただけなのかもしれませんし、S長老の言う「実践」が何を指しているのか、やや支離滅裂な文体となってませんかね。
経典引用の阿羅漢の僧侶の話では、一つか二つの智恵で修行をして悟ったことは、「実践」と見なしていませんかね。
また、インドに仏教が残っていないのは残念なことでしょうが、仏教界全体で見ると、中論の功績は多大なるものではないでしょうかね。日本でも、祖師方に与えた影響は一目瞭然ですよね。
もしS長老の言う実践を取り入れていたら、逆に中論は完成していなかったかもしれませんね。
私流では、S長老の方が論理の整合性があるのかなと思う訳です。
話がより具体的で現実的で実践的で、
頭だけで捏ね上げた単なる空論(=空虚な論理)に流れず・・・
なおS長老が言うには、
龍樹説に引きずられて、「唯識」なんて言うワケわからんモノが出てきてしまった・・・とかとか。
唯識反対者の私の側にS長老がいたなんて、新発見に驚きと感動!!
不滅のアートマンが有る、という実体論がインド人には、受け入れやすい、ということでしょう。そして、それは世界の趨勢。(日本の現代仏教も不滅の魂が有るかのような葬式をやりますよね。)
だから、釈迦の教えに、それが混入されて、結局は、バラモン教に取り込まれることになって、純粋仏教は衰退し、イスラムの侵攻で寺院が破壊されてインド仏教は壊滅的状態になり、イスラムの影響から脱した後も、インド人はバラモン教(ヒンズー教)の方を復興した、ということだと私は理解しています。
しかし論法が帰謬論法(背理法)で、「悪魔の証明」的手法。
自説の真実性を真正面からドウドウと証明したモノではない。
だからバラモン人シャンカラに悪用されて、
仏教はそれに付け込まれてしまって、
仏教はインド宗教界から姿を消した
・・・とはS長老の辛ら口説法。
龍樹が自殺したという説も私は分かりません。どんな理由だとされているのでしょうか。それは、どの文献に書かれているのでしょうか。
私が投稿する前に、すばしっこい高橋さんがすでに投稿してましたね。牧村様の肩を担いで・・
ではたかはしさん、
S長老の言うバラモン人シャンカラと言う実名人の話はどうなんですか。
自殺したかとさえ噂が出たほど
龍樹が悩んで自分の失敗を悔いたとかの話はどうなるんですか。
現代に飛び交うフェークニュースが
龍樹さん時代も飛び交っていたのかしら???
それは、釈迦の死後に分裂した教団から派生した部派仏教(特に説一切有部)が、初期経典を曲解して、実体論を持つようになったから、それを是正しようとしたもの。
そう私は解釈しています。
新情報をリンクして頂いて
マコトにマコトにありがとう。
さて、たかはしさんの見解が是非聞きたい。
いかが??
南ちゃん辺りの反論なども聞きたいよね、
流血乱闘、アッパーカット一本勝ちはどちらかな?
輪タクシー流ではS君に一票投じたい!!
そこで言ってるのは、理論としては、釈迦の言ってることを基にした立派な哲学体系になってるが、実践編が無いという批判ですよね。
龍樹の中論は、実践に結び付かないという批判は、以前にスマナサーラ長老が言っているのを聞いた記憶があります。
しかし、仏教学者の竹村牧男氏は、龍樹作とされる書簡形式の「勧誡王頌」には、戒めと禅定によって涅槃を得ることの重要性や、智慧無くしては禅定はあり得ず、禅定無くしては智慧もあり得ない、と書かれているから、龍樹は、理論だけの人ではなく、中論は禅定の修習の中で観察された世界であり、深く禅定も実習した仏教者であったろう、と解釈しています。
そして、それが現れているのが中論の以下の文だろうと。
七 心の対境が滅したときには、言語で表されるものも無くなる。というのも法性は不生不滅であり、実に涅槃のようだからである。(第18章)
私も、中論に実践編が無い、他に実践編の論書が書かれていないからといって、龍樹は理論だけの人だとは言えないと思いますね。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/04/16/050000
中論は傑作でも、インドにおいては相当なダメージを与える結末となっていたんですね。
実践というものが如何に仏教の肝か、実践なくしてはサンガの維持も困難で、それを残せるか残せないかの分かれ道ともなるようですね。
そろそろ300コメント
行きまっサァ
チョロはしスパイが
炎上させようと計画中
行進しまっサァ(・´ω`・)ゞ
チョロはしさんよ
そこはハイやなく
イェッサァー( "`д´)ゞ
くらい言えないのサァ?
はいは、一回ですね。
はい。
こっちも炎上させる気だな
1つ前の記事を
ウロついてなさいよ
懲りもせずに、ね
僕ちんのコメント読んで読んで~モード
つうか
終わりにせんでも始まってもねえわ
つまり終わっとる(笑)
なら、誰に対して書いてんだ
思想の押し売りか?
押し付けがましいっつうの
こりゃ、モテんわな
なぜ、そう解釈したの?
もうこれで終わりにしましょう、という意味には解釈しないの?
これって何気に誘ってますよね
高橋ったら、ヤダ~
勝つではなく「克つ」ですよ、克つ。
ほらね、それも私に対してでしょ。
だから、私のやれる範囲で実践してます、と答えることになるのです。
仮定が多いかなと。
次々と私にコメントしてくる人が現れると思いませんか?
私とたかはしさんの決定的な違いは
特別意識を持つか持たないかだと思います。
私は自分の言動に対し
特別に思うことは無いのですが、
たかはしさんは
ご自身のコメントに誰かが興味を持っているとの
仮定が多いかなと。
世欲的な違いとしては
私は若かった時、異性にモテすぎて困るほどでしたが、
たかはしさんのことば使いからは
異性にもてない特徴があるかと。
それら二つは人格形成にメインな要素なので、
いくら言い方が似ているように見えても
(活字の面で、実際の人を知らない場合のみ)
実際の人柄に大きな差があるだろうと思います。
好かれてしまう人と
努力しても好かれない人には
文字の世界で類似点はあるかも知れませんが、
現実では偽れない、求められない要素でしょう。
たかはしさんのように
ご自身の知性の度合いに頑なな確信がある人は
結婚したら
もう、毎日喧嘩になるでしょうね。
私は実生活で喧嘩は好きですが
必ず、笑う結果になるように
闘います。
(でも例外に私の姉には通じなかったのでしたが、うちの姉は自分が悲劇のヒロインですからね)
ここまでのコメントの流れを読んで
ふーと思いついたので書いてみます。
自慢話ではなく、
文字上で現れるのと実では違いがあるとのことです。
ならば、たかはしさんも実生活では
文字上の人格と違うでしょうね。(?)
きついことを礼儀正しく指摘する名無しさんも
実生活では甘い性格かも...(?)
>怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克つべきである。(スッタ・二パータ)
しっかり実践して下さいませ。
勝つではなく「克つ」ですよ、克つ。
興味があるなら、暇な時にでも探してみて下さい。
指摘が、興味や気になるという解釈なら、致し方ないです、はい。
だから、気になるの、と聞いたのです。
桂蓮さんの話言葉の御指摘は、それかと。
このような文句が、求めたり得ようという衝動を引き起こしているのでしょうね。
お得意の出来る範囲宣言。
反論出来ない時の出来る範囲宣言。
出来る範囲って、何が出来るんですかね?
あなたの見解には興味ありませんので、御調子に乗らないで下さいまし。
スッタニパータに取り組んでも、偏屈ジジイにだけは成りたくないでし。
そして、創意工夫の果てに実現した。
そして、それを教えている。
私は、悟った人なのだ。こうやれば、そなたも実現できると。
釈迦は、これは、古城に続く一本道である、と言ったようです。
つまり、昔の悟った人も、こうやったのだと。それを再発見したのだと。
そういうことだと思います。
高橋さんには、太い矢が突き刺さったままのようですから、読むだけで実践してないんでしょうね。そろそろ取り組まれては如何ですか?
早く抜き去らないと毒が回りますよね。もう回っているのか?
道元禅師も、禅宗という区別を否定されていたくらいですから、認可状も重視していなかったでしょうし、曹洞宗の名付け親でもなかったようですね。後の瑩山紹瑾禅師が、曹洞宗とされたとも言われています。
南さんは、仏教・私流とか、アウトローだとかと公言していますから、どういうところが私流でアウトローなのか、ということも理性的に検討する必要があると思いますが、それをやっていますか。
気の知れた信じている人に限ってですけど、
①言葉は使わない、拳で勝つ
②勝てるゲームしかやらない
③喧嘩は必ず勝つ
④絶対的に理論を使わず、事実を扱う
⑤暴力的
ですが、上記のことを交わせる人は
私の人生で3人しかいなかったです。
その3人以外の他の人とは
①理性的
②論理に基づく
③暴力は絶対しない、されない
④負けを勝ちに活かす
⑤因果関係を明かすなどですかね。
>何よりもトコトン、勝ちを優先し、
相手を許さず、完璧にやっつける為に
自分の力を総動員させ、
相手が根を上げるまで(=悲鳴を上げるまで)、
決して諦めようとしない粘着質、執念の強さ。<
上記の名無しさんのコメントへの補足を兼ねて書き残します。
まあ~思えば、言われたことを流すことができず、執念深く掘り下げることは合ってますね。
(スッタ・二パータ)
私の見解に興味があるなら、そろそろ、スッタ・二パータに取り組まれたらいかがでしょうか。
この解釈でも、競技の分かれ道になるかと。
同じ名無しさんですか。
反論してきた名無しさんとは、別の人ですか。
???
瞑想を完成した時、
釈迦が、自分はブッダだと宣言したなどと、
南和尚は解釈していないですよね。
シッダルダ青年がブッダと呼ばれるようになったいきさつは
初転法輪での出来事であって、
他者である5人の比丘が二三日真剣に議論した結果、
彼らが釈迦をブッダであると承認したから
「あなたこそブッダと呼ばれるべき人です」という話に成った。
ブッダ=覚者=悟った人
私も南流解釈に一票入れたいですね。
南ブログ記事「ブッダ誕生」2018/8/10
ちょっと意味が分かりません。補足説明願います。
どちらが成長しているでしょう、か!
(スッタ・二パータ)
あなたの判断が正しくて、私の判断は、間違っている、と言いたいの?
だったら、その理由を具体的に説明して下さい。
すぐ論点がズレませんかね。
釈迦が追い込むのには、それなりの理由があり、勝ち負け前提ではないでしょう。いくら罵倒されても黙ったり、その場を引き下がって教える、という経典もありませんでしたかね。
高橋さんのように、議論に勝つ為の下心と、釈迦のそれとは違うと思いませんか?
それはそうでしょうね。僧侶は、菩薩行でもあるのでしょうから。
「私はブッダだ」と「私は悟っている」というのは、内容的に同じなのかどうか?
自称ブッダもいるようですが、まあこれは無視されるだけでしょうけどね。
ブッダと修行僧の悟りを区別する為のニッバーナなのかと解釈していますが、S長老の記事を見ていると、段階はあれどニッバーナと一括りにされてませんかね。
釈迦が、徹底的に理詰めで相手を追い込む経典もあります。
なお、ショックを受けそうな気弱な相手には、質問に答えずに無言で応じたという経典もあります。
それほどに気弱な相手だと分かったら、私も対応を変えますよ。
でも、私に対する応じ方を見る限り、そこまで気弱な人には思えないのですよ。名無しであれ、ここで自己主張する人というのは。
なぜ、それがいけないの?
指摘されたくないから?
自分の見解を主張していながら、相手からの反論を嫌がるとしたら、それは適切なことなの?
かなり承認欲求が強いのか、ただの欲求不満な偏屈屋、という傾向もあるようです。このままでは、老人の危機に陥りかねませんが(もうなってるのか?)、脳ミソ柔かくしているのでしょうかね。
仏教は、相手が問題ではなく自分ですよね?徹底的に議論して、勝つか負けるかではないでしょう。
すぐコメントを返すことがキレること、などと子供染みた返しをする、そのような子供染みた議論展開を、釈迦がしていたとでも?
そのような、見苦しい議論展開を釈迦がされていたようには思えませんけどね。
スッタニパータを読む限りでは。
スマナサーラ長老が言っているのは、現代人で、私は悟ったと言っている人は、勘違いか嘘の場合が多い、という意味だと思います。それをちょっとオーバーに言ったと。
それから、スマナサーラ長老が、自分が悟ってるか、悟っていないか分からない、と言うのは、方便だと私は思っています。
スマナサーラ長老は、自分が完全には悟っていないことを分かっていると私は思っています。
それは、説法を聞いていてそう感じます。
それから、なぜ、分からない、と答えるかについては、スマナサーラ長老は、かつて、こんなことを言ったと記憶しています。
自分が悟っているかどうかは、答えないことになっている。それはなぜかと言うと、それを言うと、話を聞かないようになるからである。(ちょっと恥ずかしそうな声のトーンで言いました。)
つまり、悟っていないと本当のことを言うと、話を聞いてもらえなくなるから、ということでしょう。
また、説法できる資格というのは、自分が完全に悟っているということではない、ともどこかで書いていたと思います。
個人的には今はここに来なくなったZIPさんと私は似ているのかなと思ってましたけど。
たかはしさんと似ていると思われたのは
以外ですね。
たかはしさんの言い方のように
読んで捉えられることですね。
考え方や傾向が似ていると見えるというのは
私の表現法、伝達法に客観性が無いということでしょうね。
先生を長年やった者として
恥かもです。
反省すべき点は反省して
足りない客観性には気を払うべきでしょう。
因みに、たかはしさんの論旨の展開方は
根本的に私と異なる点があるので
その辺は考慮したほうが、
私は一人だけでも私と異なる観方をする人がいれば
それらを重んじます。
ですが、私の特性をたかはしさんの傾向に類似して
関連させている名無しさんは
今だ私を理解できないかなと。
S長老は「自分が悟ったなどと言う人」は(頭がおかしい??==意訳)といっているとかで、
では「釈迦の悟り」はどう解釈したらよいのかという、疑問が提示されていましたが、
それに関連したコメを読んで、たかはしさんはどう思われますか??
こうやって矢継ぎ早にコメントを返すのもキレたと思われますかね。
冷静に直ちに対応してるつもりなんですけど。
コメントが皮肉っぽい、辛辣だ、ということだろうか。
それは、相手の態度を、そのまま返してるだけのつもりなんですが。それもキレたと判断されているということだろうか。
バカヤローとか、アホか、とか言った覚えは無いのですが。
気が強そうなとこや
本音がひねくれてる?
すぐキレる(感情的)とこかな?
もちろん知らないだけで
他に長所もあるだろうし
ちょっとした印象でした
気分害したなら
ごめんなさい
それから、徹底的に議論する、曖昧決着を避けるという私の姿勢は、もう了解済みだと思っていますので、私の相手をしようという人は、それを覚悟されていると思って私は対応しています。
そう言われてみると、わたしも
ケイレンさんと高橋さんはそれなりに似てる処が有るかなァと思います。
論理的に理路整然というのが好きで、
自分の思考には絶対的自信を持っており、
自分の考える事には間違いが無いと思い込む処と、
自分は正しい、違っていないという前提で、
相手を徹底的に追及して追い詰めて、相手の心の脆さを暴き出そうとするところ。
何よりもトコトン、勝ちを優先し、
相手を許さず、完璧にやっつける為に
自分の力を総動員させ、
相手が根を上げるまで(=悲鳴を上げるまで)、
決して諦めようとしない粘着質、執念の強さ。
たかはしさんがケイレンさんを直情径行と思ったが、たかはしさんが自分の思った事を決して譲らないのは、似たような性癖があるからなのかも・・・
総合的に言えば、
つまり包容力に乏しく、とても頑固者!!
他者から見たら・・・それなりに、
ヘ・・ん・・く・・つ・・・に映るところ。
まあ一個人の偏見的見解ですから
あまり気にしないでくださいませ。
(きっと、私の見方への反対者はある事でしょう)
それはちょっと解せないですね。
ならば
徹底して弁論し、起承転結で文法に従い理論を展開することが前提でしょう。
いくら論理的になりたくても
伝え方が口調の話し言葉だと
凸と凹が合わないので矛盾が生じます。
相手の考え方を批判するのであれば、
それこそ、根拠を明かすべきだと思うのです。
Hyper super strong ego
ウルトラスペシャル自我
Ultra ego
つまり、ウルトラマンで
スーパーマンということですかね?(ジョークです、あしからず)
また、昨夜言った知識で頭が重くなったと言うのも
ジョークでした。
まともに受けてたから
面くらいましたね。
何か似てないかな?
まさか、似てないと思いますけど。
私から見るとたかはしさんと私は全く違うと。
何がそう思わせたのでしょうか?
差支えが無ければ、知りたいので教えてください。
ご他愛申し上げます。
アイドンットノウ。
名無しさんによるそのコメント読んだ?
そして、指摘の中身を受け入れるかどうかは、自分で解釈して決める、ということです。
何か似てないかな?
では、OKとは、どういう意味です、か!
>指摘されたことを、なるほどそうだと解釈するのが先、感謝は後。
それはそうでしょう。
何言ってんだ、この人。
帰依にかんする解釈について怒濤なコメが行き来してましたね。
それらのコメントをじっくり読み直しします。
『注:怒涛:荒れ狂う大波。また、はげしい勢いで押し寄せるようすのたとえ。「逆巻く怒濤」「怒濤のごとく進撃する」』
その引用文を私の立場に置き換えて代入すると,
偶然の怒濤:浮き沈み
渡ろうとして:乗り越えようとして
数々の難破の果てに:数々の育成を目的としたコメントの結果から
ついに彼の岸に乗り上げた必然:最終的には教えに対し受け容れるようになった経緯で
多少、代入ズレがあるかも知れませんが、
今まで皆様から頂いたコメントで私が会得したことを例えてみました。
また、リンク先チェックが終わってないのですが、
今、ちょうど思い浮かんだことを書いてみました。
特定な宛てとなく、このコメント欄参加者全員(私も含め)に向いてですが。
まず感謝でしょうね。
幼稚性が高いのでしょうかね。
危険な信者に見られる傾向?
なるほどそうかと思うのも、自分で判断したことですから。
読むのに面白い、気づきがあるリンクでしたね。
このような内容でしたので、後の変化の凄まじさが強烈になるのですね。
検討を重ねた上で、よしこれで行こう、と決心する。
そういうことですよ。
⑦リンクで怒りを感じるという事であれば、やっぱり中年の危機での情緒不安定ということでしょうか。
S長老が言う通り「私のこの返事に対してあなたは気が立っている可能性があります」・・
はケイレンさんの上に成就しましたね。
これも縁起のなせる業でしょうか。
ならば此の時間的縁起もじきに通りすぎて、この業から卒業できますよ、きっと。
中身を検討せすに、自分の考えに反するものを危険と短絡的に判断してない?
これのどこに、疑う要素があるのだろうか。
非常に危険な信者の気配。
疑わずに解釈してると決めつけてない?
それもあなたの解釈。
危ない信者のようですね。
自分の解釈を信じる、という意味で、自分の解釈に帰依する、と言っています。
感情の浮き沈みでしょうかね。<
感情の浮き沈みもあるでしょうね。
なにせ、更年期ですし、
内容が変わるのは
リンクを読みながら、コメントしたからです。
リンク一つに対しコメント一つの場合もあって、
例えば⑥と⑦のリンク先は
読み手の私にとって
全く違う状態へのアドバイスだからです。
⑥と⑦は根本的に似通っているかも知れませんが、
説教の狙いとした相手が違うと思っていますが。
それに対し、全く同じ反応は
真面に読んだら、同じ反応はできないでしょうから。
正直な意見が浮き沈み激しく見えるでしょうけれど、Aのケースに対しAの反応ということです。
坐禅などで、遮断する時間を取り入れてまいりましょう。
マナーを守って頂きたいと願います。
スッタニパータ先生にも当てはまる内容ですかね。
たかはしさんのコメが気になったので...
>自分の解釈に帰依してるって、明確だと思うのですが、駄目ですかね。<
自分の解釈に帰依:
『すぐれた者 (特に人格者) に対して,全身全霊をもって依存すること。仏教では特に,信仰をいだくことに用いられる。』
帰依に対するコトバンクの定義ですが、
ならば、たかはしさんの言いたかったのは
『私(たかはし)の解釈にーすぐれた者 (特に人格者) に対して,全身全霊をもって依存すること。仏教では特に,信仰をいだいている』とのことですが、
文脈上、矛盾があって
明確のところか、何か勘違いがあるようですが?
或いは、文法上のミスですかね?
目障りなら消せば宜しいかと。
桂蓮さんも、最初の返信と後では、返信内容が大きく変わってませんかね。
感情の浮き沈みでしょうかね。
リンク先をお勧めなさる時は
①なぜ、このリンクを添付するかの要旨を伝える
②添付した人の読んでほしい人へのメッセジー
③添付した記事や引用文の自分の意見を明確にする
上記の①~③の箇所をしっかり
マナーを守って頂きたいと願います。
なにせ、今の世の情報はクラウド状態なので
知識はパソコン持ちなら誰でも手に入れるからでしょうし、
今はその有りと溢れている知識を
どう、伝達していくかの時代なのですから。
何か、その間違いも甚だしい感じですね。空や相依性縁起は、どこへ行ったとなりますよね。
ですが仏教は何時も最先端で、厳しい教えでもありますから、それを謙虚に受け取るしかありませんよね。ですので、桂蓮さんの御姿からは、修行が進んでいるように映ります。
厳しいと言っても、それは慈悲でもあるのですよね。
⑥はお勧めもらい納得ですが、
⑦を進めてくださった背景には
【私がその自分がプロです。プロにならなくてはいけない。プロとして腕を磨かなくてはいけない。退職するその日まで。】という文の中の
自分をしっかり磨けとのことを私がしっかり受け止めてほしいらから勧めたのでしょうかね。
と言うのは、私がそれに気づく必要があると思われているとのことのようですが、
①それ(磨く必要がある)については十分苦しんでいるので、また言われると疲れます。
②それに(まだプロになれない)ことで、準備をしている段階なので、急げ!というように取られますね。
やっぱり、余計なお世話
③私が何故に、仕事上の自分の能力不足で苦しんでいるかが名無しさんには理解できない。
など、頓珍漢な所見ではありますが、
その⑦の勧めを強調したことで、
私には余計なお世話のように捉えてしまうのです。
ですが、それも『そう見えた』私に欠損があってのことですから謙虚に受取ります。
引っ掛かることを強いて言えば、
何かいいものを人に進める時、
相手がその勧めに対し、既に苦しんでいるかどうか、
勧めることでなお苦しみを増加させるのではないかを思いやる必要があるとのことです。
頑張っている人に、頑張りが足りないと叱咤すると
頑張りも嫌になります。
私は自分の知識がまだ足りていない、能力が過不足であることに苦難の過程を通過しようとしているのです。
龍樹は実体論者だとか、縁起を否定したと言ったのを聞いた記憶があります。
龍樹がそんなヘマするかな?
リンクを間違えてますね
これも違いまする
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2014/10/05/023417
相対性理論では一対一でないものもありますよ。例えば四角はどうでしょうか。ほかの形、たとえば三角、六角形、八角形、円形、そういうものの存在があって四角が成り立っています。相対する対象は一個じゃないのです、その場合は。色の場合も同じです。赤は他の色のおかげで成り立っています。
相対性の場合は、2種類があります。残念ながら龍樹*1は一種類しか見つけていないんです。善悪とか、そこだけじゃないやと。しかし大半は二次元性ですね。対立する。すべて観念的なんですね。<
上記に引用した部分は非常に面白いですね。
インスピレーション的な『何かを閉じながら開く』ような感じがあります。
リンクして下さった方に、素直にありがとうと言いたいですね。<
確かに、おっしゃる通り!
読むのに面白い、気づきがあるリンクでしたね。
特に⑥はブックマーク入れておきました。
面白い見方、見解ですね。
リンク集、ありがとうございました。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2018/07/26/181902
自我によって解釈するしかないでしょ。
みんな心配して、いろいろ言ってくれる。
いろいろリンクして良い記事を紹介してくれる。
そして今のケイレンさんは
充分な時間が有って、良い環境が有って、
ジックリと真剣に且つ深く、
仏道を学べる時間が与えられている。
ご自分に内在している問題をさぐりあて、
改善して行くチャンスが与えられている。
本物の自分を造っていくチャンスが与えられている。
自分の周りに人が集まって来る人間になるチャンスが与えられている。
今がまさにまさにそのタイミング!!!
「ちょっとリンク」の⑥、⑦なんて最高のお勧め品。
リンクして下さった方に、素直にありがとうと言いたいですね。
自分の解釈というのも、自我が働いている時は、当てにならないのではないですかね。
つまり駄目ですかね。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2016/09/27/040000
freeに感情と理性があるように、直感にも2種類あるのでしょうかね。
小林秀雄さんは、直感の後に、それを理解するのに時間がかかると言われてませんでしたかね。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2014/11/09/200000
いとも簡単に答えている!?
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/07/20/050000
S長老は悟っている?という質問に
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/07/26/050000
②http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2016/07/05/050000
③http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2016/11/24/040000
④http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2018/07/26/181902
⑤http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2018/07/10/195915
⑥http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2014/11/19/210000
⑦http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/01/10/053000
前に読んだ記事が見つからないのですが、どこかでまた行き当たることでしょう。
という訳で、目障りのようでしたら消して下さいね。
覚えたことは捨てて、頭を軽くしていなければならない。
そして、問題に直面した時に、瞬時にその知識が活かされる。
それが智慧である。
そんなようなことをスマナサーラ長老が言ってましたね。
good night
昨日起きてから寝てないので、これからそろそろ寝ます。
たかはしさん、ななしさん
今日も新しい知識を学び、頭が少し重くなった感じです。(知識の量で)
また、明日も指導お願いしたいです。
文系の答え方みたいな。
もし、塾でそのような答え方をしてたら
生徒たち、
”わかんない”
”で、結局はどっちの宗派でもないわけ?”とか
ズバズバいわれますよ。
子供達は社交辞令が分からないので
思ったそのまま
直情径行、そのままですので。
ですが、何となくわかりました。
ご自身のことになると
コピペして引用する箇所がないからか?
でも、その真実は、その絶対の証拠が無い、というのが現実です。
だから、自分で、これが釈迦の真実だろう、という自分の解釈に依拠する、ということになります。
いろんな宗派や学者の解釈を参考にしながら。
だから、私も、「仏教・私流」です。
結局、みんなそうですよね。
でも、こちらで言われています。(笑)
けれども、自分さえ良ければいい、という考えでは、慈悲からは遠退きますよね。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2014/10/21/050500
心の師匠みたいな方もいますかね?
南師が師匠に当たるのですか?
でも、私からそれは言えないです。
でも、実は、他にブログで知り合った人が、それ以前に私にあのブログを紹介してくれていて、それを見た私は、興味が湧かないと返答したそうです。覚えてないのですが。
なんでその時には興味が湧かなかったのか、今にして思えば不思議です。
そうか、そう考えるのか、でも、私にはその考え方は無理だな、ということでも、もちろんOKです。
そこは理屈が通っていないじゃないか、という指摘もありがたいです。
でもまあ、それは、おいおい、ということでも。
確か、イエス系の聖書丸写しのブログがあって、
2年か前に、
読者が一人もいなかったから
慈愛の気持ちで読者になったブログ主がいましたが、
まさか、その人かな?
因みに私が読者登録するブロガーは
寂しい人
読者がいない人
独りでも自分が信じていることを書く人達です。
本当の読んで良かったと思える人のブログは
全体の3~4割です。
あっちでイ○○ちゃんのブログが話題に上がりましたので、参考まで読んでみようと。
上記の添付されたURLに行ってみました。
私なら見つける確率ゼロ系ですね。
参考になりました。
>そんな私のコメントに反応する人がいる。
あなたもその一人。<
コメント反応できずすみません。
知識が浅いので
只管習い、指導受ける立場です。
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/sansuikyou2.html
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2016/01/08/050000
そんな私のコメントに反応する人がいる。
あなたもその一人。
>釈迦の言葉を、私の解釈を理解してほしいという私の欲の充足(自利)のためにやっていますからね。
知ばかりに重点を置いてるから、慈悲行が不足し至らず、すなわち解釈の理解が得られ難いとは、バランスが悪い、ということでしょうかね。
〘哲〙 事物の本質的でない性質。その性質の有無が、事物の何であるかに影響しないような性質。例えば、人間にとっての「色白である」という性質。付帯性。
偶有性
ぐうゆうせい
アリストテレスの用語で、endekomenonの訳語。存在することもしないこともありうるものの在り方をいう。ラテン語ではcontingensという。論理的には「その存在が必然ではないが、それが存在するとしても、そのゆえに、いかなる不可能も生じてこないもの」と定義される。必然性に対する。必然的なものについては論証と理論的知識が成り立つが、偶有的なものについてはこれが成り立たない。
偶有性は、形相と質料から合成される存在事物(感覚的個物)の在り方である。質料は偶有性を本性とするからである。この偶有なる個物にかかわることによって、行為とすべての実践的知識が成り立つ。行為は、存在することもしないこともありうる存在事物のうちに、或(あ)る目的を実現することであり、実践的知識はこの行為を導くものだからである。中世の形而上(けいじじょう)学は、創造者である神を必然存在とし、すべての被造物を偶有存在とする存在把握を根幹とする。偶有存在の現存の事実から、その存在の原因として必然存在である神の現存を推論する道は、トマス・アクィナスの神の現存証明の第三の道である。[加藤信朗]
偶性ともいう。哲学史ではアリストテレスが初めて用語化したが,彼にあってはそれは存在者の一つのあり方を示す語として,それ自身においてあるあり方と対立的に用いられる。かかる意味はのちに実体と対置されるようになっても保たれており,偶有性は実体の現象様態を示している。
戦慄(読み)センリツ
恐ろしくてからだが震えること
辞書の世話にならず
上記の漢字が分かる人は
どんな脳構造になっているのでしょうかね。
或いは、私の漢字能力が低すぎるでしょうかね。
私の自己中心的な本音に
恩寵なアドバイスをありがとうございます。
(社交辞令ではない)
恩寵にあんな深ーい意味があったのでしたね。
南師は作家でもおられるからか
辞典を探さないと分からない難易度の高い字をお使いですね。
>『角が取れた』ということは、自我が抜けたということですかね。
恐らく、あの先生は
私の攻撃的な言い方を指摘したと思います。
学生の時は
弾頭直入的な
ストレート極まる言い方が好きでして
特に公で話す時は
自分の主張を明確、否!し過ぎていたと思います。
角が取れたと言われた背景には
皆から
”あら!腰低くなったね”と結構言われたので
謙虚になってたのでしょうね、きっと。
本当に刻少数で
大概、相手から離れていきますね。
その本音というのが、理に叶っていることなのか、それが煩悩の塊であるから、相手も離れていくのかもしれませんね。
言いたい放題、遣りたい放題というのは、一方的な行為ですが、もしそれに相手が同調したとして、その流れが氾濫するようなら、それはそれで尚問題になることでしょうね。
「基本的な煩悩は、無明と渇愛という二つです。この二つは絶え間なく流れるものです。しかしこの煩悩に、仲間が顕れてくるのです。欲・怒り・嫉妬・憎しみ・落ち込み・慢・他を見下す気持ち・自分を過剰評価する気持ち、等々が顕れるのです。煩悩は千五百です。これも絶え間なく流れるのです。」
煩悩がある限り、注意してくれる人や、第三者の目線というのは、意識して取り組んでいかないと、煩悩が洪水となり大変な事態となりかねませんので、時々に応じて流れを切る勇気を出していきたいものです。
今の流れがスムーズになっているとするなら、避けては通れない出来事でもあったのでしょうね。
仏教というのは誤魔化さないことが基本でもあるでしょうから、本音は本音として見て、それをどのように改善していくかが修行というものではないですかね。
『角が取れた』ということは、自我が抜けたということですかね。
【知に働けば角が立つ
情に棹させば流される】by漱石
智慧と慈悲の両立が機能しているなら、どちらか一方で苦悩することも無い、ということでしょうね。
なりほど、そのような流れだったのかと
納得できました。
私もコテハン(コテンパにハンデイを負う人:あっちでの名無しさんのコメから)
付けないでコメントした時もありましたが、
自分を隠すとどうも
これ以上に本音が出るので
仕方なくURLとか名を明かしています。
私の本音に付き合える人は
本当に刻少数で
大概、相手から離れていきますね。
私も実はやりたい放題
言いたい放題やると
回り誰もいなくなるかもです。
でも最近は
自分のブログ内だけ
本音度30%に収めています。
否、20%かな。
昔は5%~10%でしたけど
ZIPさんからそれでもじゃじゃ馬
(救世不可能)
威張り狂ったとか、言われ
名無しさんからは
サイコパスとか言われたのでしたね...
哀しいか
我本音
冬ばかり
そんならZIPさんも私のように
少し『角が取れた』系ですかね。
昔、大学の授業で
(討論の授業でしたが)
先生から”言葉に角がたっている”と指摘され
凄く落ち込んだ時がありました。
悩みに悩んで
自分なりに訂正に励んだら
2年後、”角が大分とれましたねえ”と言われました。
私もZIPさんも角を落とし
円くなっていくのでしょうかね。
1年前だったら、翻訳宣言に対するバッシング後の事に成り、たかはしさんとケイレンさんが初交流をする時期だったわけですが、
ZIPさんの場合は、ケイレンさんが南ブログでのデヴューを果たした時ですから、もう少し前の時代になりますね。
ケイレンさんの(南ブログへの初)デヴューは、
例のドーナツの穴事件でケイレンさんが南さんにメロメロになって、なんとか南ブログのフォロワー参加をしたいからと自分のブログを立ち上げた・・・という訳でしたね。
などという詮議は全然無くて・・
(ZIPさんがZと名乗ったのは比較的最近の話で、
それが南ブログでのZ氏とダブるので、昔のZIPハンネに戻ったというのが実情ですね)。
でZIPさんがなぜケイレンブログに顔を出すようになったかと言えば、勿論、出だしはケイレンさんの南ブログでのデヴューですが、
ケイレンさんがご自身の幼少期の家庭環境に言及した時に、
ZIPさんの奥様が似たような環境での幼少期を過ごされて精神的に悩んでおられたので、
ケイレンさんとZIP夫人の類似性を確かめる(ヒントを得る)つもりで、ZIPさんはケイレンブログに顔出しする様になった・・・
これが時系列での現象ですね、たしか。
はケイレンさんの誤解です。
ZIPさんの言葉です、99.9999999%確かです。
ZIPさんはその後ケイレンさんを評して「(制御不能な)じゃじゃ馬で、(ケイレンさんの言葉を)年寄りの空威張りにしか見えない」とも言っていた訳ですが、
あれから1年、
ZIPさんもケイレンさんの精神的熟成を認めて、今ではケイレンさんの心の支えとなって、ケイレンさんをして感激で涙を流させるようになった。御主人とZIPさんがケイレンさんの心を支える両輪となった。
だから私が、
ケイレンさんは果報者ですねと言ったのです。
これが正確な時系列です。
釈迦の言葉を、私の解釈を理解してほしいという私の欲の充足(自利)のためにやっていますからね。
釈迦の言葉をタイミングよく適材適所で伝えて呉れる事で、
ケイレンさんの心境の変化が起きて来たと、
ケイレンさん御自身が仰っている訳ですから、
高橋さんは充分、利他行をなさっている訳で、
たかはしさんは果報者である訳でしょう。
善き輪廻が身近になっておられますね。
ZIPさん本人からZではないとの確認が取れなかったまででしたが、
一年前、確かこの頃の季節だったと思いますが
名無しさんが
私の翻訳の進行について
どうなっているんだ?諦めたのか?みたいな口調で
コメントされたことがあります。
その時はその人がZIPさんかZさんだと思っていたのでしたが、
あっちでのコメントを読んできて
もしかしたらあの私への怒りのコメントは
もしかしてZさんぽいなと思えてきましたね。
何となくで、証拠もないのですが。
あのコメントには結構、
文字で現れる人の怖さみたいなことをみたみたいな感じでしたね。
本当に素晴らしい言葉だと私も思いますね。
たとえば万一、貪瞋痴の現れであったとしても、
そういう仮定を思い付くということが、そういうことを感じていた、ということだと思えるのです。
無意識下のレベルかもしれないですが。
それから、実践がされていないと私を批判する他の人にも、そういう想いがありそうだな、と思ったので、その他の人にも読んでもらうことを想定してコメントしたものです。
これからは無視されて結構になりました。
何故かというと
そこで事実を言う、本音を言うことに
もう疲れてしまったからです。
無視されても、構ってもらっても
もう、心に憤慨感湧かないですね。
昔は『自愛しろ』に怒りが湧いたのでしたが、
今は、そうか程度に流すようになりました。
そこで、現状公安についてコメントしたのは
院代に向けて書いたので
院代はそれを確かに読まれていることが確認できたのもあり、それでもうことは済みました。
(この確認方法については本当にプライベート)
まあ~ここで鍛えられているから
直情径行に見える傾向も
修行で何とか克服しないとです。
お気遣いありがたいですね。
(ケイレンさんの如きのキックボクシングのレフェリーになるつもりもありません。)
ただただ、延々とつずくが如きの論争が、
たとえば万一、貪瞋痴の現れであったとしても、
高橋さんが引用して呉れる釈迦の言葉の価値が無効化されるものでは無くて、
ただただ、釈迦の言葉は素晴らしいと言いたいだけです。
このブログで釈迦の言葉が述べられる事こそが
「たかはし効果」で、
それがケイレンさんへ良い影響を与えている。
ただただ、そう言う事ですので、あしからず。
この言葉には涙が出るほど嬉しいです。
昔、経済原理についての話題になって
私の勝気とか利得主義、自己主張みたいな傾向を
トランプに例えられた時がありました。
あの時は、そのように見る人が
この世で存在する人がいると知っただけで
あり得ないほどの苦しみがあったのです。
あの苦しみは
他人が強制的に、私自身の醜い面を見せてくれた出来ことであったので、
見せられたから見てしまい
何もかも嫌気がさしたのでした。
私の夫もそのトランプとの共通項見解や解釈に憤慨してました。
私達、エリックや彼の親戚全員はトランプに猛反対しているので、
その人と比較されて
トランプ派に属されたことには
屈辱でしたね。
ですが、人の見方は人それぞれ
私はそれが受け入れがたくても
見えた事実については
苦くても受け容れるようにしています。
その結果、
何もかも嫌になって
人からの意見を受け容れたくなくなりましたね。
まあ~弁明ですが、
あれは私への憎しみの一種かなと思っていました。
そんな経緯から
今回の『トランプさんと同じとは誰も思わないですよ、きっと。』このコメントは慰めですね。
ありがとうございました。
全然そんなことを感じていなかったら、それを言い出すこともなかったのではないか、と思います。
そういう題が書かれてたので。
高橋さんの読み違えです。
S長老のヴィバッサナーでは、
『いつも、(自分の生き方・考え方は)【うまくいかなかった!!】という気持ちになります』、
というS的日系スリランカ言葉を一般日系日本語言葉に翻訳したという事です。
>高橋さんがそれに反した貪瞋痴言葉を暴発している・・・
高橋さんの誤解です。
万一たとえそんな事があったとしても、釈迦の言葉の価値は変わらない・・・という趣旨ですね。
高橋さんがどんなテクニックを使って論争続行しているかについては全然関心がないのです。
私はキックボクシングには全然興味がありません。
一体だれがそんな事を言ったのでしょう??
それとも御自分がそう思ってしまった??
まことにけしからん奴だというべきでしょうか、
一緒に銃殺旅行に付き合って差し上げてもいいですね。
アッ、でもそ~か、全く全然似てないという事でもないかな。
自分は勝ち組だと驕りたかぶる処(例え過去形であっても)と
流血乱闘が(今でも)お好きそうな処。
例え心の中でそう思っていても、
其処の処をスマートに隠していれば、他人には見えないから、
トランプさんと同じとは誰も思わないですよ、きっと。
コメント欄では、主張があったら、その論理を追求するのが私の方針です。
それを指摘されたことにより相手が感情を害することがあるかもしれませんが、主張すれば反論がある、というのは、当然に覚悟すべきだと思います。もちろん、私も覚悟しています。
自説を主張していながら、反論は嫌だ、ということなのかなあ、と感じています。
経典を引用されると、反論が難しくなるから、それも嫌がっているのかなとも思います。
そう見えてるんですね。私は、冷静に論理を追ってるだけのつもりなのですが。
釈迦が、相手と徹底的に論理的に議論するという場面が経典にあります。
>俺の欠点をズバズバ指摘してくる。
冷静に相手の主張の論理の変なところを指摘している、というのが私の感覚です。
そうすると相手が別な話題で対抗してくる。
相手が、子供の口喧嘩レベルの反論になる。
それを私は、そのまま返す。
卓球の試合で、相手が打ってきた変化球サーブの回転を殺さずに、そのまま返すという手法がありますが、それをやってる感じです。
相手が私のコメントを迷惑に思うとしたら、それは自分が打った回転に迷惑している、という状態だと思います。
ブッダが説かれた真理
他人の過ちなら、直ちに発見するが、
自分の過ちを過ちとして認めません。
他人が自分の失敗を示す事さえも嫌がるものです。
生命のすべての(失敗)行為は「(自分は)正しい」という前提(=思い込み)で起こるのです。
(自分は正しいと思い込んでいる以上)失敗しても、
輪廻転生しても、成功はしないのです。
ブッダに解かれた真理を学ぶと、
人は間違いだらけの生き方をしているのだと発見します。
なぜ失敗するのかを、調べたり、他人に教えて貰ったりして(=忠言に耳を傾けて)、
素直にその通り生きて見る
(事が大切です、ね、ね、ね…)
(今の処は)スッカリ無視されている様にみえますね。
まあそれに反発するコメが続行すれば又炎上して、ゴッソリ削除される事に成るのでしょうが・・・
ご自分ではスッカリ忘れておられるかも知れないですが、
ご自分が何故、コメに挑発的な言葉を挟み込むかと言えば、
『反発でもいいから誰かが自分のコメントに応答してくれるなら、全くスルーで無視されるよりマシだ』・・・なんて自己弁護されていましたよね。
そんなケイレンさんの文章読んだコメ者の誰かが、
「つまりケイレンちゃんって単なる【かまってちゃん】って事じゃん」
と揶揄したことありますよね。覚えておられますか??
他者の眼は割と正確に相手を見ているものです。
いかに心の燃焼を唱えても、
「炎になって燃え尽くされた後になっても、
それでも生き延びる木の根なのだ、自我(我執)は永劫に残るのだ」となる。
仏教は、「炎の様に、(しばらくすれば)すべて消え行く。種子を滅ぼし、再び生長する事を欲しない」となる。(スッタニパータ235)。
サイコパスは精神面で不衛生な感じがするので
止めてほしいです。
トイレで出るものの絵文字も止めてほしいです。
その2つだけは、どうも笑えないですけどね。
私がトランプに似ている、これは屈辱でしたね。
あれを、銃が許可されている州で言われたら
打ち殺しになりますよね。
トランプの異常人格は理解できますが、
毛嫌いしているので。
また、たかはしさんの方針である
『前の記事だけにコメントする』ことで
私が読めなかったある種の論議ですよね。
その論議を
私は幼稚だと思わないし、
屁理屈だとも思ってません。
煽ってはいないのですが、
応援はしたいです。
両側の応援団ですかね。
なぜ、応援団なのかというと
人の教え、
偉人の教え
仏陀の教え
道元禅師の教え
南師の教え
S長老の教えなど
学ぶ者にとって
それぞれ自らの眼鏡でしか
読めない、見えないからです。
ならば、
それらを議論でなかったら
なんの方法で互いの見方を確認できるでしょうか。
だから、応援してます。
互いの偏見、先入観、固定観念などは
人とぶつからない限り
絶対に分かり合えないものです。
もし、今だ気が済んでないようでしたら
いつかまたの機会で。
読みながら笑ってしまいすみません。
真剣勝負だったのに
楽しんでしまい申し訳ございませんでしたっ!
高橋さんがそれに反した貪瞋痴系言葉を暴発しているかどうかなんて一切関係なく、全く関係なく、真に関係なく・・ただただ、
高橋さんが折に触れて、適宜に書き込んで呉れる、
(経典からの)釈迦の言葉には、私の品格を高められそうな良い言葉がちりばめられています。
このブログで「たかはし効果」は何かと言えば、
流血乱闘が大好物なサイコパス隊長のケイレン親分が、
それらの釈迦の言葉をジックリまじめに味わって、
我らが心の師としている南さんの本を翻訳するにふさわしい品格を養って欲しいと、
我らが、ケイレン様に切望するからですね。
どうぞ我らのささやかな希望を、ケイレン様が
裏切らないように
お願い致したき次第でございます。
両選手優しいなあ~
急所(Weak point)をお互い分かっても
それは打たない、使わない系ですね。
ペアプレイということですかね。
ヴィバッサナーでは左脳もしっかり働いていて、
俺の欠点をズバズバ指摘してくる。
それを理性で反省すれば正しい人となってくる。
しかしサマタ(只管打座)では、左脳機能が抑制されて右脳機能が顕現化してくるので、自他の境目のない恍惚感に落ち込む。
勿論それを『自我の生命力のような真の力である』とストーリー(作話)する事は個人の自由だ。
(南和尚は、ただ単に自我を遮断出来ると言っているだけではあるが・・・)
ヴィバッサナー瞑想を実践する人には、なかなか自分が成長しているという気持ちは起こりません。
いつでも「うまくいかなかった」という気持ちになります。。。。が、失敗の連続から、何かしら自分が学んで成長しているのです(=智慧が進んでいくのです)。
サマタ瞑想(by S長老言わんとする処)は、
修証一等だから、坐れば即「仏性」の顕れと解釈し、
変性意識で現れた恍惚観に自己流のストーリーを色々乗っけて行くのものなのです。
ケイレンさん流で言うと『自我の生命力のような真の力である』と思い込む方もおられるようですが。
このコメの流れは、「原始脳の奴隷」同士のキックボクシングになっている。
血を流し合い、どちらが撲殺されるかを見るのが、
たまらなく面白いという、サイコパス親分がワクワクしながら煽り立ててる。
茂木氏のいう「自分の脳」とは?
要は、在家の考え方のままではクソまみれになる、ということでしょうから、在家としては、クソをどう調整し実践して無くしていくか、在家なりの自己開発に努めるしかありませんよね。
ねえ、桂蓮隊長。
私は、在家者として発言してま〜す。
はい?
負け犬たかはしさんの遠吠えですかね。
>それは出家者気取りでは?
僕ちん?
あえて言うなら、在家者気取りで~す。
残念!
>出家者でも、そうバカでない限り言い切らないのでは?
出家者でも言い切らないなら、あなたのやってることは、出家者と同じでは?
それは出家者気取りでは?
その気が無いなら、否定すればいいでしょう。
>これはA選手のアッパーカット一点勝ちかな。
はい、たかはしさんの負け~
はい、残念賞~
スッタニパータを活かせませんでした~
残念!
言い切らない、余りを出す、ということですかね。
出家者でも、そうバカでない限り言い切らないのでは?
既にコメントしています。
堂々巡りに入ったように思えます。
あの時の名無しさんとの展開に似ています。
暇があったら前のコメントを読んでみてください。
こちらのセリフです。(笑)
他者のコメントから、議論を発火させましたよね?
語り口を問題にしてるんですがね。
だからあちら山でも、すぐモメるんでしょう?
スッタニパータを読め如き態度で乱用したり、名無しは誰だとばかりにバカみたいに騒いだり、たかはしさんの幼稚性には負けますから、どうぞご安心下さい。
論理が矛盾しているのはどちらか、読む人が読めば分かるんじゃないですかね。
スッタニパータ学者がこの態度では、スッタニパータも泣くでしょう。
釈迦の教えを今日、何か活かしましたか?
議論してたテーマに反論できなくなったから、別の話題を取り上げた、という子供の口喧嘩の手法に思えてしまうのですが。
あちらでも、それに類することがよくあったという印象を私は持っています。
あなたは、あの時の名無しさんですか。
ここに来てまでそれをやるかなあ、というのが正直なところです。
>パーリ語でなくとも、「無常」は釈迦の言葉だったのでは?
あなたも、経典を根拠にしてますよね。
それは出家者気取りとは違うの?
んん、
教祖に偏屈は多いんだっけか?
じゃあ、具体的に、どういう発言の仕方をしたらいいの?
断言するな、ということ?
経典に書かれていることなのに?
その気が無いなら、この時に否定するはずですし、応じても差し支えないのでは?
自己陶酔病
ね、こう思われてる私の影響力なんて心配無用でしょ。
経典によれば、当然そうなる、という意味に受け取って下さいよ。
悟っていないのだから、当然とは言えないだろう、ということは、当然の了解事項じゃないの?
それを改めて言う必要あるの?
私は
自己陶酔病
転換期だというのに、変わらなくてもよい御身分、ということでしょうかね。
に対し
>B:私に、その気が無いのに。と防衛した、ウーム
これはA選手のアッパーカット一点勝ちかな。
あなたも語ってるでしょ。
それはそうでしょうが、なぜ語れるねか? 当然ではないことですよね。
分かってもらえますか。
に対し
B:自己流病?
で対抗した、なるほど、
両選手、直球パンチ交わしていますね。
あっち山でのリングはもしかして、
両選手には小さすぎたでしょうか。
ここはキックボクシングリングみたいな闘いぶりですね。
私に、その気が無いのに。
「管理人でないあなたのその要望には応じられません。
このコメント欄のルールに反しているとは、私には思えません。」
やはり出家者気取りだったのですね。
承認欲求や、器量はなくても支配欲の強さが滲み出てるかなと。
あなたが、そんなこと思ってないなら、気にする必要もないでしょう。
そして、あなたが悟っている人なら、私の間違いの影響力を心配するというのは分かりますが。
お互い、悟っていない人が仏教について語っている。
それは、読んでる人も分かると思いますから心配無用だと思いますけど。
どう着目しているのか知りませんが、それなら、言い切れないことでしょう。
経典を根拠にし過ぎ病?
なぜ、そんなこと思ったの?
私には、そんな気持ちはありません。
在家でも、経典を根拠に仏教を語れる、それを言いたいのですよ。
あなたも語ってるでしょ。
このような事態を経験したことがあるのですか。
出家者でもないですが、何かあって、今のたかはしさんから「真理」を説かれても、余計にモメそうです。(笑)
たかはしさんは、なぜ信じているかなどを聞くのですかね。教祖にでもなりたいのですか?
(ダンマ ・パダ)
「一切の形成されたものは」という言葉に着目。
383 バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知る者であれ。
(ダンマ ・パダ)
「作られざるもの(ニルヴァーナ)」という言葉に着目。
1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
(スッタ・二パータ)
そういう経典の言葉を知ってましたか。
あなたも、自分の解釈を絶対視してるだけじゃないの?
さあ。意味があるかどうかは、あなた次第です。
別に、競技の違う方とトコトンやるつもりはないですので、気が向いたらにします。
気楽にどうぞ。
パーリ語でなくとも、「無常」は釈迦の言葉だったのでは?それを踏まえて、どう読み取るのか。たかはしさんのように、額面通りに読んでいるのではない、ということです。
管理人でないあなたのその要望には応じられません。
このコメント欄のルールに反しているとは、私には思えません。
それに、出家が議論していて決着が付かないところに、在家が現れて説明して、出家がそれに納得するという経典があります。
そもそも、在家の私をあなたは信じてるの?
あなたは、何を嫌がってるの?
とことんやりたいものですね。
ほら、管理人さんがそう言ってますよ。
以前にも似たようなことを言っていたと記憶しています。だから私は、とことんやってるのですよ。
分かりますか。
文面からも滲み出てきますな。釈迦がいたら手を焼いたでしょうな。
それは、南さんの言葉ですか。
釈迦の言葉じゃないでしょう。
あなたは、何が言いたいの?
仏教を語る時に、経典を根拠に言い切ることは、普通にあることでしょう。
それから、経典を丸ごと絶対視などしていません。
経典を読んで、自分の脳で、仏教はこれだなと判断したことを語っています。
なお、具体的なテーマを論じているときに、経典を絶対視しているのか、というような一般論を持ち出して対抗しようとするのは、不適切だと思います。
>B:読解力が無いと思っている相手に対して、そのような文章を書くことは、意味があるの?
上記の二人の選手はヘビー級ですね。
どっちが勝つか、どっちが負けを認めるか、
先が全く見えませんね。
名勝負です。
理屈に合わないことを放っておけない、ということだと思っています。
だったら、私のコメントも読み流して下さい。
たかはしさんも結構、負けず嫌いですね。
そのたかはしさんに真っ正面で向かう名無しさんも
隠れ負けず嫌いだし。
私だけじゃないじゃないですか。
私だけ事業自得だの、ブーメラン効果でパッシングされるだの、注文の多い店ですね。
だけれど、
ことをまるく納めないところが
結構、好きですね。
戦うなら血の海になるまで
とことんやりたいものですね。
少しずつ、なぜに
たかはしコメントが反響を呼ぶか、分かるような気がします。
経典を絶対視しているのですか?
あちら山にもありましたが、
「存在するものには根拠が欠けている。私が仏教から読み取った「諸行無常」の意味はそれである。」
これを、どう読み取られているのでしょうね。
管理人さんの「判断」になるでしょう。
あちら山なら抹殺されている事態ですかね。
>管理人さんが、自分宛じゃないものにはコメントするなと条件付けたの?
管理人さんの条件云々ではなく、当然かのような、あなたの発言態度、つまり業を作り出すという「行為」となりますかね。
無常ですから、管理人さん次第で条件も変わることでしょう。油断すると、あちら山のような停止処分となるやもしれませんね。
>それから、釈迦が、話す機会があったら真理を話してやれ、と言ってる経典があったと記憶しています。
釈迦が、出家を目指してる訳でも、命懸けの修行をしている訳でもない在家者に、このようなことを言うでしょうかね。
どのような「真理」か知りませんが、出家者気取りで話されなくて結構です。
高橋さんとは、どうやら「競技」が違うようですので、読み流してもらっても結構です。
元は、これを問題にしていたのですよ。その「成功と失敗」とは世間でのことですよね。「その基準は自分の脳で決められる」というのは、それはそうでしょう。どのようにも決められるでしょう。
ですが、その価値基準で判断するのではない、ということです。
桂蓮さんが成功例というのを挙げていましたが、それは本当の成功か?と。それは世間の目線ですよね。S長老は、それをクソだと言ってるのではないですかね。
そして、「自分」の「脳」とは何か?
まあそれは置いておいて、自分の脳から離れたところで見る、ということですかね。八正道で言うところの「正見」になりますかね。
釈迦目線で物事を見れるように成りたいものです。
「自分の脳を基準にすると、何だか大きな間違えをしそうです。」という論点に対して、それもあなたの脳で考えたことでしょ、ということを私は言いたいのです。
それは私に宛てたものですか。
私の読解力では、その文章の意味が分かりません。
読解力が無いと思っている相手に対して、そのような文章を書くことは、意味があるの?
管理人さんが、自分宛じゃないものにはコメントするなと条件付けたの?
それから、釈迦が、話す機会があったら真理を話してやれ、と言ってる経典があったと記憶しています。
そんなことより、スッタニパータの読解力は、大丈夫ですか。
高橋さん宛でもない他者のコメントに、当然のようなコメントを返し、当然の如くスッタニパータを持ち出す手法、一体どう教えを活かしてると言うのか。
そうなりたい、というのは、それが望ましいとあなたの脳で判断したことでしょ。
という発言が他者からあったから、
「悟っていない人が業を作るのは当然。」
と私が言ったものです。
235 古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は未来に執著することなく、種子をほろぼし、それが生長する事を欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が(つどい)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
587 見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。
(スッタ・二パータ)
在家でも、経典の言葉を根拠に言い切れますよね。
ましてや在家の高橋さんが、「悟ってない人が業を作るのは当然」などと、言い切れる立場じゃあないでしょ、ということです。
出家は、悟りを目指して、命懸けの禁欲の修行に身を投じる。
在家は、在家生活を維持しながら、出来る範囲で釈迦の教えを活かす。
経典に書いてありますから。
スマナサーラ長老も言ってますし。
自分の脳を基準にすると、何だか大きな間違えをしそうです。
釈迦目線で物事を見れるように成りたいものです。
問題は、どんな業を作るか。つまり、どのように考えて行動するかでしょう。
まるで、出家者のような語り口ですが、
>出家する覚悟の無い私は、在家として一日を過ごしています。
在家を強調してますが、出家とどう違うのですか?
出家する覚悟の無い私は、在家として一日を過ごしています。
4012
たかはしさんへ。
了解済みでも、釈迦が喜ぶようなことかどうかが問題で、そうでなければクソなことですから、失礼その執着はサッサと捨てて、いま行えることをしていくしかないですよね。
悟っていない人が業を作るのは当然。
問題は、どんな業を作るか。つまり、どのように考えて行動するかでしょう。
人には、世俗の成功を追う時期があることは、釈迦も了解済みだと思いますよ。
そして、もう世俗の成功は出来なくてもいい、としてそれへの執着を捨てようとするなら、釈迦の道に適うと思いますね。
これは恐らく自我の脳ですよね。
>私は、世俗で、自分に出来ることはやったな、出来なかったことは仕方ない、と思ってますので、それは成功を経験した、とも言えると思っていますよ。
その世俗の成功とは、釈迦が喜ぶようなことですかね。
「俗世間の品物で行う尊敬より、われわれ一人一人が一日でも、ブッダに説かれた道を実践しようとするならば、われわれはお釈迦様に喜ばれる人間になるんです。」
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/06/02/050000
くわばら、くわばら。
私は、世俗で、自分に出来ることはやったな、出来なかったことは仕方ない、と思ってますので、それは成功を経験した、とも言えると思っていますよ。
でもケイレンさんが
「世欲(世俗)的な成功を収めてから、ものを言え!!」みたいな挑発的な捨てセリフを吐くから
他者の気分を害して揚げ足を取られて行くのです。
釈迦が既に、「価値の低いものを捨てて、価値の高いものを得るスベ」を、2500年前から教えているのに、
現代人のケイレンさんが、未だに、
「まず価値の低いものを自分の手に入れてから、(=価値の低いものを手に入れた者こそが)、
その後、価値の高い事を言う資格が有る」・・
何て言うから、
大バッシングが沸き上がる。
いわば自業自得のブーメランなわけです。
今週の格言:
『悔し紛れに、
捨てゼリフ吐くのは
止めましょう!!』
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/02/27/050000
過去の遺産物なので
なんて言いましょうか、それは過去の歩みだけの足跡です。
今はセスナ機のところか、夫が州立弁護士だけなので(公務員みたいな)収入に応じて
倹約しています。
税金払うのにもせーせーしているし、
月々の予算内暮らしの
貧乏より上、金持ちより下の暮らしなのです。
スーパーの特別セール
Buy Get2の割引商品ばかり買っている
極普通の主婦でもありますしね。
でも過去であっても
一時期、成功を誇った時があって
それでもう気が済んでいます。
未練など欠片も無いですので
尼さんになりたかったのは
天性みたいなもので
成功も勝ち気も関わっていない生まれつきなもんです。
そればかりを表に出す事をしてました?
私に気を付け!と言われているようで
敬礼!です。
注意、謹んで承ります。
どうぞ高橋さまの殺生は
どうか、どうか、
お考え直し下さいまし。
ケイレンさんは、
一にも二にも、
とにかく自分が勝たねばならぬ、
という強迫観念でがんじがらめになって居るので、
そんなケイレン哲学が生まれたのではないでしょうか。
理不尽な世界に立ち向かって来たので、
やむを得ない事ではありますが
そればかりを表に出す事は少々異常(=サイコパス的)ではないのでしょうか。
釈迦が出家弟子を受け容れる時に、
世俗的(世欲的?)な成功者で無ければいけないなんて言ったのでしょうか。
道元師だって、世俗的な成功者で在った訳では無いし、
たかはしさんに向けてそんなこといったら
たかはしさんは、
泣いて泣いて泣いて、不眠症になって死んでしまうかも知れませんよ!!
尼さんに成りやがれ!!
だって、(世俗的に)すべき事を全てして仕舞った(=世俗的に成功してしまった)から、
後はもう尼さんに成るしかねェ~なァ~!!
ってケイレンさん言ってたよね、たしか。
ケイレンさんの親分の南直哉師匠もそうだったの??
なんか大間違いしてませんかね・・・たぶん。
まだまだ、捨てていく道があります。
捨てて、捨てて、捨てて、捨てまくるんですよ。捨てても何か得ている、捨てても何か得ている。仕方がないんです。たとえばグラスの中の水を捨てる。捨てたらグラスの中に何か入っちゃうでしょう。仕方がないんです。グラスの中の水を捨てたら空気が入っちゃう。空気が入らないように捨てるということは結構難しい。できない。
~ニッヴァーナへの道~
○長老的にも
それ全部ガラクタだね、ガラクタ
または下痢だね、下痢ピー
出た💩
学歴・経歴、高級趣味歴と、
自分が所有したモノの豊富さで測る事であったから。
ルイスビットン、エルメス、グッチ、
シャネル、フェラガモ、クリスチャンルブタン、
セルジオロッシ、マロノブラニク、
宝石・指輪・耳輪・鼻輪
スポーツカータイプニューベンツ(2~3台)、
そして、高級ハウス3件所有と太った預金ツウチヨウ。<
大概、合っていますよ、名蟻の一応名無しさん!
ところで、>フェラガモ、クリスチャンルブタン、
セルジオロッシ、マロノブラニク、<などは
マイナーなブランドなので
それらは
①金さえあれば誰でも持てる
②成金向けに作られた
の見解から買わないです。
>ルイスビットン、エルメス、グッチ、
シャネル<
プラダ、フェンデイーまでのランク順位なら
買う価値あると思ってますけどね。
私の事例は、世欲的な成功例ですが、
超越、精神世界の崇高を語る人は
それら世欲的な成功を収めてから
ものを言え!と言いたくなりますね。
まさか・・・
スッタカタータを吹き込むつもりですか!?
アクセス気にするのもクソだからね
クソまみれにならないよーに!
気にしない、気にしない
もう固まっちゃって、寝るのも坐るのも歩くのも立つのも不可能でただただうずくまって固まっちゃうだけ。
ケイレンさんの場合は、兎に角、
ボンファイアーにひょこひょこ行って、寝床へ這い上がり、パソコン前に坐って、~~、~~、
忠実に、そして誠実に且つひたむきに、
わが職務を果たす!!
まあとても素晴らしい・・
でもなんか体の方が悲鳴を上げて
習慣病になりそうな気配。
どうぞくれぐれもご自愛下さいますよう、お祈りいたします。
一度は言ってみたかった反射鏡。
言っちゃったら喉のつかえが降りるのかしらん??
(一回限りだから許してちょんまげ・・・)
今回出たコメ『糞味噌』談義。
これはS長老の談話なんでしょうか??
『この世の全ての執着はクソにすぎない』。
じゃあこれも・・おクソなのか??
ケイレンブログ序文(前書き)
「私は自分の目標を達成して、自分流の成功も出来、悔いのない生き方をしてきました」・・・
南式解釈では、ケイレン文は、
「この世で起こる涅槃があるとするんだったら、まあ要するに『私は一生懸命生きたんで、後悔する事は無い』と腹から思えば、それは涅槃と言っていいかもしれない」に該当するのかも知れない。
しかしカタキ役のS長老言(たぶん??)ならば、
ケイレン言はクソ分類に這入っちゃうのかも??
なぜならケイレンさんの意図した自分流の成功とは、
学歴・経歴、高級趣味歴と、
自分が所有したモノの豊富さで測る事であったから。
ルイスビットン、エルメス、グッチ、
シャネル、フェラガモ、クリスチャンルブタン、
セルジオロッシ、マロノブラニク、
宝石・指輪・耳輪・鼻輪
スポーツカータイプニューベンツ(2~3台)、
そして、高級ハウス3件所有と太った預金ツウチヨウ。
前際(過去)・後際(未来)が断ち切れていること。或いは前後の際(あいだ)が断たれていること。現在の状況を過去や未来と対比させてみるあり方を否定すること。<
添付された記事からお気に入りを引用したくなったのでコピペしておきますね。
私流の前後裁断解析編
コメントには独自の流れがあり、前際と後際で断ち切られていること。
現在の状況を過去や未来と裁断させてみるあり方を否定すること。
面白いですね。
彼女、きっとブレイクしますよ。
仏教オタクさん方は
『やるならやってみな』ですかね。
私なら
『やってからものを書け』ですかね。
でも、自分に酔いしれている感だっぷりの真理子さんは
自分の文に
Will とかWouldといった未来形が隠れていることをまだ会得していない?かもです。
私は自分が体験していないことについては
書けませんので
あんな偉そうな口調に近づきさえできませんけどね。
はい、私は体に激痛があろうがなかろうが、
他人が巻き込んだ約束は
守るサガ的な傾向があって
激痛のまま行って参りました。
激痛のまま
普段の仕事もしています。
昨日はあの激痛の中で
ご飯食べる時間も持てないまま
通訳の仕事と勉強してました。
激痛は激痛で
仕事は仕事ですからね。
『旦那に尽くしていても、あいつらは感謝の一言も言わない。言わないですよ。奥さんに感謝の言葉を言っても、奥さんの苦労は消える? 消えないですよ。なおさら奴隷になっちゃう。女っていうのはアホだから、もし旦那が「お前と結婚してよかった。毎朝起きて思うのは、お前と結婚して本当に良かったなぁということだ」と言ったら、奥さんはますます奴隷になる。
得するわけじゃなくて、損するんです。だから夫に無視されてよかったと思ってください。その分、自由でしょう。その分、文句言う権利があるでしょう。だから執着がない方が楽なんです。ほんの一言で、すごい執着が生まれて、自分が知らないうちにすごく苦労することになります。』
Q:桂蓮ちゃんは得してるかな?ですが、
以下、私の替えコメ例(ギャグ程度の軽いタッチ調でいう)
男性たちも尚知っているでしょう。
家内に尽くしていても、あいつらは感謝の一言も言わない。
言わないですよ。
夫に感謝の言葉を言っても、夫の苦労は消える? 消えないですよ。
なおさら奴隷になっちゃう。
男っていうのはアホだから、夫にもし、
「あんたと結婚してよかったねえ。
毎朝、遅く起きて思うのは、
あんたと結婚して本当に楽になったなぁということだ」と言ったら、夫はますます奴隷になる。
得するわけじゃなくて、損するんです。
だから家内に無視されてよかったと思ってください。
その分、自由でしょう。
その分、文句言う権利があるでしょう。
だから執着がない方が楽なんです。
ほんの一言で、すごい執着が生まれて、自分が知らないうちにすごく苦労することになります。
コメ者は得しているみたいですね。
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コメRe:コメする前にリアルタイム解析結果が面白かったのでコピーぺしました。
この結果で如何に
私のフェイスブック友達が
私に無関心だったのかが分かります。
そうです。
私のブログは今まで不人気でした。
いいねを押してくれる人は
決まって3~5人しかいなく
フェイスブックからこのブログにアクセスする人は
週に2~3回だけだったのに
昨日は
この記事をペッテイーのタイムラインに追加しただけで
凄いアクセスがあったのです。
自分が関与していないと
人のブログなんて
読めたもんじゃない!ということですかね。
もし、私のフェイスブック友達が
一回だけでも読んでくれたら
私のランキングは千の順位をキープするでしょうね。
何か、苦笑いの結果なので
『エゴ』の現象例として
流し読みください。
さて、これから遡ってコメ読んでいきます。
忠犬というものがいるようですね。
パーリ語でスリランカに伝わって、そのパーリ語を学び、母国語に翻訳もしたけど、僧侶の間では、パーリ語が釈迦の使った言葉だからと、パーリ語もそのまま伝承してきたということでしょう。いわば、第2母国語ということでしょうね。
だから、本場インドでパーリ語が使われなくなっても、パーリ語の経典が伝承されてきたということでしょう。
なお、スリランカの母国語の文字でパーリ語の音を表したようです。
例えば、日本語で、「ニッバーナ」と表すようなものですね。
旦那に尽くしていても、あいつらは感謝の一言も言わない。言わないですよ。奥さんに感謝の言葉を言っても、奥さんの苦労は消える? 消えないですよ。なおさら奴隷になっちゃう。女っていうのはアホだから、もし旦那が「お前と結婚してよかった。毎朝起きて思うのは、お前と結婚して本当に良かったなぁということだ」と言ったら、奥さんはますます奴隷になる。
得するわけじゃなくて、損するんです。だから夫に無視されてよかったと思ってください。その分、自由でしょう。その分、文句言う権利があるでしょう。だから執着がない方が楽なんです。ほんの一言で、すごい執着が生まれて、自分が知らないうちにすごく苦労することになります。
桂蓮ちゃんは得してるかな?
仏教用語でいうと、われわれはクソに執着している。それが仏教用語です。
>金を儲ければいい、立派な家があればいい、家族があればいい、セスナ機の免許を取れればありがたい、そういう風にありがたがるものがいっぱいあるんですね。
しかし、仏教用語で言えば、クソに執着してクソの中にいる。
数学って名前を聞いただけでいやになる子供が、数学者になりませんでしょう。数学が好きでたまらない子が、数学者になる。われわれは好きなもの、執着しているものを得ることができます。ですから、クソに執着してください。結果を得られます、確実に。
クソくらえ~ってか。
釈迦は、八正道を命令したわけでも義務化したわけでもないですからね。
やるかやらないか、ヴィリヤするかしないかは、己次第ですよね。
本来の八正道は、内心での安楽の法門であるが、
実践して見せろ、実践して見せる
の闘争世界では、
もはや実践してるかどうか
他者から裁きを受ける手段となる。
食べたい‼
おならプップ~
いけね
めらめらヴァ~ナ🔥
過去記事過去コメ一切読まぬと
ご自分自身は言うけれど
他者にはズッと記憶に残り
ケイレン言語録ほじくりまわす
八正道を誓ったという
過去記事・過去コメかさにして
ケイレンちゃんは縛られる
かくてしてケイレンちゃん
かなしき八正道の奴隷となった。
アーメン!!
火で遊ぶことではない
尼さんになることだ
余り無くきっぱり二ッヴァーナだ
火で遊ぶことではない
火を吹き消すことだ
余りあればニッヴァーナだ
凡ファイアーいけません、八正道に反します。
キッパリ言います、ケイレンさん。。。
アメリカンパーティーいけません、八正道に反します。
キッパリ言います、ケイレンさん。。。
バレーするするいけません、八正道に反します。
キッパリ言います、ケイレンさん。。。
ニューベンツいけません、八正道に反します。
キッパリ言います、ケイレンさん。。。
あれするこれするいけません、八正道に反します。
たかモンよ。私は木片を燃やすことを捨てて、まさに内面的に火を燃やすのだ。永遠の火を輝かせ、常に心を安らかに定めていて、尊敬されるべき人(阿羅漢)である私は、清らかな行いを行ずるのだ。
https://whitebear0930.net/archives/8151
釈迦は、人間自体を否定していたのではないですかね。
https://s.webry.info/sp/06647158.at.webry.info/201006/article_2.html
嘘をつかないという「不妄語戒」
桂蓮菩薩や如何に?
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2014/12/26/173000
火を起こす事を禁じるという事は充分あって、
釈迦が、「火遊び」を許可したとは思えませんね。八正道に反します‼
また、マニュアルを残すのは、無記に反しますよね。
アメリカと日本では、曜日の進み方が違いましたかね。
「完全教祖マニュアル」ですか、ビックリ!!
釈迦の最大の失敗は、
この「完全教祖マニュアル」を読んでいなかったことですよね。
釈迦が、それを最初から読んで居れば、
勿論彼は、自分の教団を設立し明文化していたでしょうから、
自分の悟りが何か、涅槃がなにかも当然文章で説明していた筈だろうし、
なによりも後代僧侶たちが勝手な自論を釈迦の名を使って持ち出す事もあり得なかったし、
釈迦を神格化することも許されない筈だし、
仏像を創る事もあり得なかった筈だし
寺院を作るなんてありえない事だし・・・
そう考えると、
釈迦が「完全教祖マニュアル」を読み損こなった事は、
かえすがえすも残念でした。
ワタスとしてもザンキの念に堪えません。。。
260 適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること、──これがこよなき幸せである。
261 深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、──これがこよなき幸せである。
262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。
263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。
264 悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、──これがこよなき幸せである。
265 尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、──これがこよなき幸せである。
266 耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の(道の人)に会うこと、適当な時に理法について聞くこと──これがこよなき幸せである。
267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。
268 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、──これがこよなき幸せである。
269 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。──これがこよなき幸せである。
(スッタ・二パータ)
それぞれ、自分で、そのどれかを選択すればいいと思いますよ。
まさに、たかはしさんに聞きたい事でもありました。
質問内容は「釈迦は弟子たちに、自分で焚き木を使って火を起こす事を許可していたのでしょうか?」
という事ですね。
考えて見ると、火を使うという事は人間が人間として生きる事の原始的な基本条件で有る、と思う訳で、
それゆえにケイレンさんが大きな炎をみて、原始的な本能を呼び覚まされた・・・これはもう、生きることの肯定であり、執着でもある。
とすれば、釈迦が弟子の出家達に、一切の執着を捨てろ、と命じるのであれば、
火を起こす事を禁じるという事は充分あって、
もともと暖かいインド気候では、火を焚いて暖をとらなくても生きていけた??(かも)
南ブログでどなたかが「釈迦は生を肯定したのか否定したのか?」と質問していたようですが、
出家みずからで火を扱う事を禁じていたとしたら、
釈迦は生を否定していたという事になるのでは、
と思った次第です。
どう思いますか、たかはしさん??
http://www.babelbible.net/mariko/opi.cgi?course=church
ギックリ腰になりました。
坐ってから起きるのに激痛で
階段の降り乗りも激痛で
だからもうレッスンは全部キャンセルして
やっとの思いで歩いたりしてます。
バレエを本気でやってたからか
あのコウチより
バランス感覚が良く
指示されたことは何でもできてしまって
コウチもエスカレーターして
私にハイレベルを次々と要求し
それも何の問題無く
やって見せたまでは良かったのでしたが、
レッスン翌日から
ギックリ腰になっちゃいました。
寝るのも坐るのも
歩くのも立つのも
もう激痛です。
この「生滅していく地水火風」を形に現したものが、ストゥーパ(卒塔婆)塔なんですよね?
この火は、人間でいうところの心や心臓、体温を指すようですね。
これがもし自宅の火事だとすると、キャンプファイヤーとは違う心情になるかもしれませんね。
状況により火の見方も変わりますが、火祭りに関して、釈迦は以下のように戒めているようですね。
http://karagenki773.blog112.fc2.com/blog-entry-278.html
それが習慣化して、都会でも自宅に招いてパーティを、ということになるんですかね。
サバーのミスかこのパソコンの問題で
精一杯書いたコメントだったので
同じことを2度書けませんね。
コメントって
その時、時で変わり映る
気持ちを集めて
気体のような感覚(クオリア)を掴め
視覚で見ながら書き残すような
あるようでないものを
探し求めるものかも知れませんね。
私のコメントは
ただ、その時に脳に浮かんだことを
目と指でただ打つ
打った文字を観ながら
気体が結晶していく行方を見る、見つめるみたいな
感じです。
『対義や類義の疎らな波に呑まれては沈んで
正面衝突
正反対も解いては結んで
論及 論決 幾星霜に散らばる言葉を集めて拾うよ
潮風薫りゆく 浜辺に浮かべた繋がりは一つに』
上記の引用は
舟を編むアニメの歌詞の一部です。
ここは田園都市なので家と家の間は凄く離れています。
因みに車で
スーパーまで20分
コストコまで40分(高速利用時)
クリーニング屋まで15分
ショピンーグモールまで1時間(高速利用)
映画館まで40分
1ドールショップまで30分
などなど
遊ぶことはここ大変なお出かけです。
日本のような居酒屋やスナックみたいな店は
全くないです。
レストランもチップが20%だから
100ドール分食べると合計120になっちゃうし
温泉施設はゼロ状態
DVDレンタルショップも無く
ですが、ゴルフ場は結構あっちこっちで見かけます。
ジョウギングや散歩の人も結構見かけますね。
公民館のイベントとか図書館での行事が大部分ですかね。
なので、ブライアン宅のように
友人の家を訪ねてたりしてますね。
うちらもそろそろ
近所の人を招待して
小さなパーテイーでも開かないとです。
徒歩で行ける遊び場がない。
公共の乗り物が至って不便。
基本的に日常家庭生活が退屈。
女性上位で女性を尊重して見せる必要がある。
家族単位での交友が基本。
夫が酒を飲み、妻が車を運転して帰る(又はその逆)。
会社は単に働くところ。
会社内での人付き合いは稀。
定時就業で、其の後は個人生活の充実。
元来、楽天的性格。
ヒマつぶしに趣味のモノ作りとかするしか無くて、
それを近所で披露したがる積極性がある。
家がパーティーするに十二分に広い。
庭が広い・駐車が容易。
すべてDo it yourself、が基本。
近所仲間での自己防衛意識が強い。
元々は清教徒の移民同士の連帯意識がある(?)
新しく出来た国でキリスト教文化
まあ、私の住む田舎でも、年に1回ぐらいは、ありますけど、個人が主催で頻繁にというのは、ちょっと聞いたことが無いですね。
無心になれます。
日本は芝生にはいるな
焚火するななど
禁止が多いですよね。
この写真は私が撮りました。
焚火の左にいる人がブライアンで
その左隣にいる人が夫のエリックです。
バラモン教では、火葬の炎に乗って死者の魂が天に昇るとされているようです。
そして、その儀式を司るのが司祭階級たるバラモン。
また、火は、神と人を繋ぐものとして、バラモンは、代々その火を絶やさないようにするのだとか。
それに対して釈迦は、死後は、自業自得で決まるのであり、儀式は関係ないとした。
そんな教えは、バラモンから敵対視されて当然ですね。
ちなみに、私は、焚き火を趣味にしたいのですが、どうやら消防法で禁じられているようです。嫌な世の中ですね。
(スッタ・二パータ)