バレエの力動的な動作と静的な禅の瞑想は
体系構造上の核心が同質だと思う。
I think the dynamic movement of ballet and the static meditation of Zen
have homogeneity at the core in the systematic structures.
見ている人に感動を与えるバレエダンサーの踊りには
確固たる静けさがあって、ブレが無い。
The dance of a ballet dancer that be able to touch the audience’s mind
has firm tranquility and no blurring.
何十年も禅の修行を重ねた修行僧の坐りにも
下半身から根が張っているような安定感があって、ブレが無い。
The Zen sitting form of a trainee monk
who has been trained for decades
it has stability like rooted from his bottom and no blurring.
その静かな坐り像には
人間でありながら
岩や樹木のように自然と全く同化した一体性がある。
His static form of sitting, despite being a human,
has a unity that completely assimilated with nature
like rocks or trees.
今年の5月で、カントンにある今のバレエスクールに
通い始めてから丸一年になる。
It will be a year this May since I started to take lessons
at my ballet school in Canton.
自分が定めた訓練メニューを地道にやってきて
最近やっと体の重さの分配や均衡の配分ができるようになった。
I have been practicing steadily my own training menu,
I have finally been able to allocate
my weight and portion out the balance.
今まで自らに課した課題は、
体のコアを鍛えることであったから
細分化した筋肉トレーニングと
余分な脂肪の燃焼運動に自修訓練の焦点をおいてきた。
To train my body core for my task done,
I have been focusing on subdivided muscle pieces of training
and fat burning exercises for useless body fats
as my self-study programs.
ところが、自分のレベルに合わせて
いくら段階的な練習を行っても
足裏の筋力がまだ発達していないため
足裏で体重を支えることができず
体の重さを受け止められなくなり
体の中心が崩れてしまう現状であった。
However, no matter how much I practiced
in accordance with my current level,
my body has not been supported my own weight
on the sole of foot due to not yet developed enough
the legs and foot muscles,
so the center balance of my body often collapsed.
中心が軟弱で崩れがちだと
動きがぎこちなく不安定で
迷いや自信の無さが動作に表れる。
My center balance is easy to collapse,
and they come along with unstable steps
or an unconfident mindset on the clumsy movements I made.
また、覚えきれていない難しいステップは
適当に誤魔化し流したので、
授業が終わると自分の狡さに恥じらいだけが残った。
Moreover, I cheated on the difficult steps
that I couldn’t carry out and allowed them to drift
so after class, I felt ashamed of my cunning.
そのような自分の軟弱性があっても
挫けず、諦めずで
中心をしっかり立て直す練習をしていたら
この前の授業で突然のように
今までふらついた中心がしっかり定まってきて
一瞬ではあったが完全に安定した動作ができた。
Although with such gutless, wishy-washy
I neither beaten up nor given it up,
I kept trying to build up the center balance,
then suddenly while I was taking lessons at the last class,
the center balance that has been tottering
was firmly stabilized and
I could make stable form ever even though it was an instant.
その瞬間、今までの迷いや自信の無さが
嘘のように消えていくような感じがした。
At that moment, I felt like the puzzlement or unconfident
is about to vanish like a lie.
ガタガタ振れていた動線がピッタリと立って
静線になったようであった。
It seemed that the shivered rattling move lines
were stood up precisely and became static lines.
床の上に垂直に立っているありがたさに
心が満たされた。
My mind was filled with appreciation
of being standing vertically on the floor.
床に反発できる足の筋力が付き始めた感覚があった。
There was a feeling that the sole muscle strength of my feet
that push against the floor had begun to develop.
恐らくその瞬間は1秒も満たない刹那だったはずだが
バレエの核心を垣間見られたような錯覚があった。
Probably that moment was a fraction of a second,
but it was like I could see the perceptual illusion of a glimpse
into the core of ballet.
その瞬間、やっとバレエのスタート時点に立った感じがした。
At the very moment,
I felt like finally stood at the start point of doing ballet.
以前、仕事のストレスで悩みが絶えず
心から聞こえる声も煩くていたたまれなくなり
瞑想(坐禅)を6時間くらい一気に続けた時があった。
In the past time, I was troubled with work-related stress constantly,
and the voice from my mind was irritating me and lousy,
so I went on mediation (zazen) for about 6 hours at one go-off.
そんなに長時間坐り続けたのに
ある時点で不思議にも足のしびれる痛みが
鈍感になった瞬間があった。
Although such long hours sitting,
strangely there was a moment that
the painful numbness on my legs became insensitive.
足は痺れているのに意識がその痛みに向いていなく
意識があるのに無いような感覚であった。
My legs were getting numb
but my conscience was not toward pain,
and it was like there was no conscious
where there was the conscious.
自分が瞑想(坐禅)をしている行為を
別の私が観察しているような二等分された感覚ではなく
坐禅をやっている私が無くなって
行為に一致された感覚であった。
It was not bisected sense which is like
another of “I” was observing
the behave of doing “my” meditation (zazen)
but it was like a sense that
the “I” who was doing meditation was gone
and the “I “was being unified with the behaved.
自分を自分だと思うには
他人からの観察視点で自分を捉えなくてはならない。
To percept of yourself,
you have to apprehend yourself
from the observation of the perspective of others.
意識の始まりには
意識を見ている観察者としての外からの視点がある。
At the beginning of consciousness,
there would be an observer who sees the consciousness
from the outer perspective.
その存在としての本来備わっている意識と
意識を観察する思考が
別々な動きをするとそこに揺れやブレが生じる。
The two of consciousness that already inherent as the existence
and the observative consideration to be conscious,
if the two driving separately, there will be instability or blurring.
それらの観察によって相好作用する意識が
行き場や行き先に迷うと心の流れが淀み始める。
Those conscious that work in harmony by observation
if it loses destination or where to go
then the flow of mind begins to stagnate.
泥水のように淀み、濁ってくる。
It stagnates like mud and it becomes muddy.
そんな混沌な淀みに
じっと静寂な時間を与えると
重い泥が下に沈んでいけるようになる。
Giving such a chaotic muddy a quiet time for a while,
it allows heavy mud to sink below.
泥が完全に下に沈むと水と泥が分離され
水が澄んでいく。
When the mud sinks completely,
water and mud are separated,
and water gets be clearer.
泥は下に沈む天性に従い自然の一部になる。
Mud becomes part of nature
as it obeys the natural way of sinking below.
高いところから低いところに流れる水の天性に従い
水は流れ出すようになる。
Water gets flow as it obeys the natural way of the flow
from high to low.
バレエの動作一つ一つには完璧なほど静けさがある。
Every ballet movements have tranquility almost perfection.
その静かな動作一つ一つが空間の中で動線を描く。
Each of those quiet movements draws a moving line in the space.
それらが力動な舞になって、人の心に脈を打つ。
They become dynamic dance and pulse into people’s hearts.
坐禅の動作も一つの坐る動作に過去、未来が現在の一点に集まる。
Each sitting movement when doing zazen meditation,
the past the future converges to a single point at the present.
心の動線を一点に集めた時に完璧な静寂が持てる。
When taking one point among in the movement lines,
be able to have a perfect quietism.
その力動的な静点が人の心に脈を打つのである。
Such a dynamic static point pulsates the human mind.
今回の記事を拝見して、南方熊楠の萃点(すいてん)を思いました。いろんな動きの中でひとつの「点」が意味することを思ったものです。いただいたヒントをこれからも考えていきます。
追伸
以前、課題をいただいていた永平寺、まだ行けていません。いずれご報告させていただきます。
体系構造上の核心が同質だと思う。」
全く意味がわかりません。
What moves stays balanced. What is still stays fluid.
Keiren Applebaum's ballet experience is the value of achievement, which usually comes in a moment after long periods of struggle. After a year, a sudden second of success.
There is no guarantee of the moment...I am glad that it came.<
Zipさん、上記は夫がこのブログ記事を私のFacebookにシェアしたら、彼が上記添付した文でまたシェアしてくれたことをコピペしました。
ZIpさんは英語がお分かりのようだから
敢えて訳はしませんが、
夫の解釈がZipさんがわからないということの解説になるかなと思ったりします。
恐らく、夫が私の言いたかったことを掴めたのは、
私が強制的に彼をバレエのレッスンを受けさせたことがあったからだと思います。
2回しか経験させなかったのでしたが、
その体験から、中心、力動、流動が体で分かったかかも知れません。
察するに、Zipさんはバレエの立ち方さえ試みたことが無かったでしょうね。
坐禅で中心を探せなく苦しんだ経験が無いと
私が何を書こうとしていたかも掴めにくいでしょうね。
驚きました。
Top10 ニュースにも、あの時のコメントを気に掛けて頂いたことにも。
我々一般人が坐禅をしている姿とは
全く受ける印象が違うわけです。
人が座っているとは思えない、
人が座っているというよりは、
何か物が置いてある、
人が座っているとは異なる印象を受ける。
そういったことなんだと思うわけです。
同じ人間が座っているのにもかかわらず、
一般人と禅僧のあいだには、それほど座るという行為に大きな差があるわけです。
バレエのダンサーも同じだと思うわけです。
踊るという行為によって、人が踊っているとは違う異なる印象を受けることがあるわけです。
踊ることで、踊りとは思えないそれ以上のものを感じるわけですから、一般人とバレエダンサーの同じ動作にはそれほど大きな差があるわけです。
どちらも動作を極めることで、動作以上のものを感じるわけです。
わざわざ「体系構造上の核心が同質」などと言う必要など全くないわけです。
言葉や文字は、知って欲しいことを伝えるという行為があってこそ意味があるわけです。
伝えるという行為なくしては、言葉や文字に意味を見出すことは絶対できません。
伝えるという行為、知ろうとする行為を意図しない限り、言葉や文字にaffordされることは決してないわけです。
>Great thinking
Ballet helps to learn your own body and each week you get something new. The most important to find harmony....<
上記のコピペは
私のバレエの先生がこの記事に因んで
書いてくれた文です。(Facebookで)
私の訓練を見たことがある人なら理解できるかな。
Zipさんが今、私のそばにいるなら
私が書こうとしたことを
Show and tell できると思いますが、
兎に角、体感を文章で書こうとした時点で
ZIpさんのような天秤的な分析を予想してました。
ですが、わざとことばを下していなかったのは
体感していない人は
絶対に感じ、予想できないからだと思ったからです。
だけど、書いたのは
考え方、バレエと禅に共通点を見出す人が居る、
それが納得のいく、いかない関係なく
論理、理屈が合う、合わない関係なく
私の歩んだ道として
書いておきたかった、それだけです。
生き方、なのです。
論理的でない生き方の一つ。
今日は、6時から8時半まで2コマのバレエレッスンがあります。
レッスン前に体をならしておく必要があるので、
返事を急いでいたから適当になったと思います。
これから、準備ストレッチなどに取り掛かるので、
今夜、レッスン終わってからまたじっくり返事を書きます。
まあ、今の感じだと
Zipさんの解説のほうが読む人にとっては
分かり易く、体験してなくても
イメージがしっかり湧けるでしょうね。
弁明としては、私は説明調に疲れたからですかね。
長年塾をやってて、説明の説明になると
仕事のようで、疲れがくるのです。
砕けるのも、下すのも
時には面倒になって、
近道だけ早く行きたくなるものです。
https://www.youtube.com/watch?v=kEfzl77qTT0
上記はやまざきさんの One More Time, One More Chance のビデオですが、
この歌を初めて聞いた時に、
なぜか、のしてんてんさんのイメージと合致するところがあって、
不思議だねと一人で思っていたところでした。
銀座で初めてお会いした時、
音声とか、話の雰囲気とか、声のトーンとかが
この歌のリズムと酷似していると思われるのです。
恐らく、北籔さんの印象は
この曲とどっか似ているかも知れません。
そう思っていただけでしたが、
記事のテーマと低音をリンクされてもらって
書いてみました。
仏教徒ならば「合一系」の最大の完璧人間である肥田春充(この人に素手で勝てる人間はまずいない)が人類の未来に絶望して、そして自分の能力のエスカレートを止められなくなって断食死した事実も忘れてはいけないのです。釈尊伝の救い(悟り)とは、救いをアイコン化した挙げ句、理想が絶望に変ずるが如き暗い現象とは無関係です。健康は大事な支えではありますが、執着の対象であってはならないのです。必要なのは救いよりもユーモアですよ。「救い」は我々を蝕みます。光も闇もいりません。自分をどこかで「どうしようもないバカな奴」と見ていられるうちは正気を保っていると言えるのです(悟りではないが)。それができないと「寝ることもできない」のですから。