私の心は車のエンジンのように動く。
My mind runs like a car engine.
行きたい目的地が決まるとエンジンを駆動させる。
Once I found a destination,
I let my engine propel me.
私のエンジンの馬力は弱く、故障も多い。
The horsepower of my engine is weak
and causes a lot of breakdowns.
だから目的地まで辿るのに
どれくらいの時間がかかるか推定さえできない。
So I can’t even calculate how long it will take
to get to the destination.
けれど、行きたい目的地が決まったから
ノロノロだけど動かしている。
But the destination wants to go already been decided,
so I have been driving sluggishly.
人は想いや意思、感情の働きを
『心の働き』として言う。
People often refer as "action of mind"
such thoughts, willpower,
and the mechanism of emotions.
『精神の働き』は哲学に基づいて、
知性の方向性を示すケースが多いので、
心と精神は性質上の識別がある。
“Action of spirit” is based on philosophy,
and it often indicates the directionality of intelligence,
so the mind and spirit have a qualitative distinction.
厳密に心の働きを定義しようとするなら、
辞典的な意味と一般的な実用例を提示し、
その違いと類似性を説明する必要がある。
If we need to define “action of mind” rigorously,
it will require representing lexical meaning
and general examples in practice usage
in the ways of differences and similarities.
だが、今回は私個人の見解や解釈だけを
取り上げることにする。
But for instance, I will cover it
with my own personal perspective
and interpretation only.
心は常に動いていない。
The mind is not always in action.
生きているいる以上、
欲望や考えがあるから
心が活動しているかのように見える。
As long as we are alive,
our minds seem like in actions
because we are driven by desires and thoughts.
だが、目的地の持たない心は、
行き先が無いから動かす理由も持たない。
But a mind which does not have a destination
has no reason to drive because nowhere to go.
動いていない心は燃料も必要としない。
The motionless mind does not need fuel.
心を動かすスキルも持たない。
It does not have the skills to move the mind.
エンジン自体がドライバーになり、
ドライバーがエンジンになっている。
The engine itself is the driver
and the driver is the engine.
だからどこか目的地が決まると
エンジンだけが目的地に向かう。
For that reason,
even when the destination has been set,
only the engine heads toward it.
エンジン自体は道のりを示す地図も読めなければ、
行く道にあるルールを示す標識も読めない。
The engine itself can neither read a map that shows you the way
nor can see the signs that tell you rules along the way.
誰かがそのエンジンを動かしてくれれば、
いつかは目的地に着くかもしれないが、
行けたとしても他力に依存しなければならなくなる。
In that case, if someone helps to run the engine
then may be able to reach the goal someday,
but one always must rely on someone else’s ability.
要するに、他力を借りないとどこへも行けないことは
自力ではどこへも行けないことである。
That means cannot go anywhere without help from others
or is unable to go anywhere on one’s own.
だが、心をエンジンと運転するドライバーに別け、
分離させるとごっちゃ混ぜしていた
『心』がはっきりと物体化になってくる。
However, one can separate the mind
into the engine part and the driver part,
the jumbled mind becomes clear
as to be an objectification.
物体化になると、
エンジンの性能も確認できるし、
壊れた箇所も見えてくる。
When it becomes objectized,
we can confirm the engine efficiency
also can find which part is broken.
ドライバーが個体化できるので、
運転スキルも問われるようになる。
It leads the driver can independent
and the driving skill takes a challenge.
今の現在点が地図上、
どこに位置しているのかも見えてくる。
It also allows seeing where you are now
and can pinpoint where the location is.
目的地も設定できるようになる。
In the same way, can set the destination.
恐らく、私の『心』を
エンジンとドライバーに分割できたのは、
坐禅のおかげだったかもしらない。
Possibly, the backed-up potential that
I was able to divide my mind
into engine and driver parts,
it might be rooted in the Zen meditation
I’ve been doing.
坐禅を通して、自分の感情や思考の動きが見えたから
識別できたのかもしれない。
Through doing Zen meditation,
I might have found the ways
how the thoughts and emotions move
that made me identify to distinguish them.
とにかく、私は自分が決めた目的地に向かって
ノロノロながらも走っている。
In any way, I am slowly but surely
running toward the goal that I‘ve determined.
地図もあれば、標識も読めるようになった。
I have the map and am able to read the signs.
標識が読めるようになって、
周囲を見回すと
既に多くの他のドライバーが
性能の優れたエンジンでブイーンブイーンと
私を追い越して行くのが見えた。
Since I become read the signs
and looked around my neighbors,
I now can see there are a lot of drivers
passing me like flying out
with their excellent engines.
彼らは私よりずっと先に、
自分のエンジンを磨いていたのだろう。
They probably polished out their engines
long before I did.
けれど、私は今出せる最高のスピードが
自転車と同じだろうがなんだろうが、
持っているエンジンで勝負しなければならない。
Although the maximum speed that I can push out currently
maybe the same speed of bicycle does or whatever,
I have to compete with the engine I have.
走り続ければいつかは必ず
目的地に着くのだろうから…
As long as I keep running,
I will surely reach my goal someday…
変換ミスで、私も自分の名前を痙攣とやったことあります。
気にしてなかったのでしたが、
のしてんてんさんなら、気づいた時に
酷い想いをするんだろうなーと思ってました。
案の定、そうでしたね。
人は自分のミスをどう扱うか、によって
人格が垣間見えますよね。
私は自分のミスに気にしないように頑張ってますが、
それが難しいです。
してしまったミスに捕らえないようにも頑張ってますが、
それはもっと難しいですね。
文字変換は試験とか資格とかでなければ、
おたがいさまということで落ちますよね。
こともあろうか、人を貶めるような誤変換にして、今まで気付きませんでした。ごめんなさい。
でも私の頓馬な失敗は一つだけいい結果を生みました。
無言で許して頂けただけでなく、私がどんな非難じみた誤表現をしても、私の本心はそうではないという、桂蓮様の信頼を頂けたと思えたことです。
いずれにしても、ばかげた誤記をここに改めてお詫びいたします。
確かにそののしてんてんさんの解釈のような根拠があって、書いたのでしたが、
書いている間、焦点がずれたか、
ピントの外れた文になっちゃいましたね。
ぶれてしまったと分かっていたのでしたが、
自分の頭の中を整理するために書いたので
そのまま投稿しました。
私が向いている方向を確かめるため、だけですかね。
恐らく、その目的地がどこか、
どのようなところかは
この世で、3人(自分を含め)しかいないかな。
けれど、のしてんてんさんも分かってくれて
こころ強いです。
近道を教えてもらったようで。
これが本来癒着したもので、それを分離して初めて自分が何ものか分かるという着想は素晴らしいと思いました。
その究極に
認識=エンジン+ドライバーというのがあって、私はこれを
認識=知ること+気付いている者と考えました。
自分がどんな考えを起こし、どんな行動をしても(エンジン)であり、そのことに気付くもの(ドライバー)がいなければ認識は成り立たない。
すると自分に対して、ただ静かにじっと眺めているもの(ドライバー)がいること思い当たりました。
それが自己を越えた空の働きだと。
痙攣様のこのお考えに大賛成です。
もう、通りすぎてしまったのだろうから
まあー次回記事にすることがあったら
その時に。
面白いですね。
アメリカでのアジア人は見た目アジア風
アクセント外人風
言い方アメリカ風な感じですかね。
それ、見ると結構ストレス受けます。
自分もそう見えるだろうなーって思えるから。
面白いコメントありがとうございました。
ロック風のが流れていて精神は統一できませんね。
心は動いています。
哲学には遠い場所にいますが、心は感情の動きが勝っていて、
精神は思考の動きが大きいような気がします。
心は和風、精神は洋風の感じて、和洋折衷とはいかないようです。