苦痛はある種の過程であり
結果、或いは信号であると私は思う。
Pain is a kind of process, an outcome,
it is also a signal, I guess.
なので、苦痛は理解の仕方によって
感情と分離させることができる。
Therefore, it can be separated from feeling
by the way of understanding.
苦痛の度合いが強いと感情や気分も苦しくなり、
苦痛が肉体を支配し始める。
If the pain degree gets strong,
the way of feeling and mood become painful,
and it begins to dominate the body.
苦痛が肉体を支配できるようになると
体の自由を制限する。
If the pain becomes able to control the body,
it limits the freedom of the body.
制限された体は苦痛に圧倒される。
Then the unfree body becomes overwhelmed by the pain.
私は苦痛の仕組みが面白いと思っている。
I found the mechanism of pain intriguing.
苦痛の扱いが進歩してきたことにより、
苦痛を土台とする経済産物、医療の発達、
政治の宣伝文句に至るまで
多種多様になってきたかのように思える。
It seems to have appeared to me that
pain-based products such as medical improvements,
social structure and even political slogans
have been developed a variety of how to manage pain.
苦痛が無い社会はユートピアで無く、
ただ死後の世界のことだろう。
A society where there is no pain,
it would not be a utopia
but just the world after death.
生きている限り、
何かしらの苦痛を経験することになる。
As long as we live,
we get through any kind of pain.
病気や疾患は必ず苦痛を伴い、
薬物以外は効き目が無い場合が多い。
Diseases and illness are always coming along with pain
and often nothing works other than medication.
しかし、自らの意思で苦痛な方法を選ぶ人がいる。
But some people choose a painful way
with their own intention.
私は苦痛を恐れない方だ。
I am kind of fearless of pain.
だけど、私には心的苦痛は身体苦痛より耐え難い。
However, it appears to be that
mental pain is more intolerable than physical pain.
幼い頃の記憶、
自らがおかした失態や醜態などが
ナイフのように刺す時がある。
There are times when the memories of my childhood,
my own disgraceful behavior,
and shameful mismanagement in the past
stab like a knife.
そのような記憶に襲われると
本当に実際の苦痛を伴う。
When those memories attack me,
it really attaches the actual pain.
坐禅の坐り方は苦痛を伴う。
The way of sitting form of meditation involves pain.
苦痛の回避が坐禅の効果より重要だと思う人もいれば、
苦痛を括り抜けて得られる心の静けさを選択する人もいる。
Some people think that avoiding pain is more important than
the effect of doing meditation,
but there are some people
who chose to have mental tranquility
which can only get through painful progress.
ある日、坐禅をしていた時、
組んだ両足が痺れ、激痛、
足が無いような無感覚になっていく経験をした。
One day, when I was doing meditation,
I experienced my crossed legs had numbness,
with severe pain and they became senseless
like my legs were gone.
その日は、その痛みの正体が何か見てやろうと思ったので、
痛みの経過を観察することにした。
On that day, I decided to figure out what the pain is,
so I observed how it goes on.
そしたら、痛みは神経の圧迫、
血液が円滑に流れない、
死にそうな恐怖感、怪我するような不安感がある時に
起こるようであった。
Then it seemed to me that pains are
caused by nerve compression
when blood flow is not smooth
and the fear of death or anxiety of injury.
神経の圧迫感は圧迫を緩むことで解消される。
The nerve pressure sensing can be relived
by releasing the compressor.
血液の滞りは血管を伸ばすことで問題なく流れる。
Hindrance blood flow can be solved
by stretching blood vessels.
死にそうな恐怖感や怪我への不安感は、
受け入れる心の準備ができると不思議に消える。
The fear of death or anxiety of getting injured
would be gone mysteriously
when we are ready to take them.
以上のような観察で見えてきたのがどうであれ、
私が持っている神経痛は好転しない。
No matter what I found from these observations,
my neuralgia still does not improve.
だが、苦痛の仕組みを解ろうとした結果、
苦痛が私の人生を支配しなくなった。
Even though, my trials to know
how the pain mechanism goes in my body,
pain no longer dominates my life.
避けられない苦痛は
それと共に生きる工夫をすることで
心の負担が軽くなる。
The inevitable pain gets fewer weights
when we labor to live with it.
避けられる苦痛なのに受けて立つようになると、
その苦痛は成就感になっていく。
When we start to stand to the pain
that even can be avoided,
pain becomes fulfillment.
とにかく、苦痛の解釈は
数えられないほどの解釈があって面白い。
Anyway, the interpretation of pain is intriguing to me
because it has countless ways of interpreting it.
それで、痛みも痛い場所の酷使を警告しているのかと。
腰も肩も良くならないのは、酷使状態が続いているんでしょうね。
でも、それが私にとって生きているということでもあります。
昨日はクリニック行きましたが、
好転しなく、
うつ伏せでブログアップして
今もうつ伏せで文字打っています。
座っていると痛むので、
明日もレッスンですが、何とかストレッチで偲んでいくしかないですね。
YouTube情報もあまり役に立たなかったりと。
精進、応援しています。
閑斉さんによって、そっくり書かれて
驚きました。
腰も肩も痛むのですね。
私が今やっている自己流のストレッチは
痛む側の対になるところを伸ばすことです。
腰は体の前面
肩なら肩甲骨あたりですかね。
そこを揉んだりマッサージすると
完治はできないのですが、
暫くのあいだ、体を使える状態になります。
レッスン前にやっていますが、瞬間的に効く時ありましたね。
どうすることもできない自分の無力さを、否が応でも知らしめさせるというわけです。
自分が情けない思いをすること以外はたいした情報では無いでしょう。
しかし、その情けなさに肝要な情報があるのです。
実はバレエの稽古中の苦痛を書きたかったのでしたが、
私本人以外では”大した”ことではないので、
あえて坐禅の坐りに置き換えたのです。
痛みをどこで、どのように感じるかに着目して
姿勢を変えたり
筋肉の使い方を変えたりするので、
痛みは本当に重要です。
もし、痛みの情報が無かったら
恐らく、筋肉負傷とか、骨格変形とかになったかもです。
ZIPさんはご自身の体を極限まで酷使したことありますか?
極限までいけた思いがあまりないですね。
そういえば、一度も無かったかもですね。
舞台の練習をしてた時も
坐骨神経痛が無かったとしても
8時間以上はできなかったでしたね。
自分との約束があって
8時間練習したことありましたが、
それがいわば、極限?だったかも。
けれど、もっといけた気もするし、
20代の時に
朝6時~7時に起きて
学校行って
6時半まで授業受けて
急ぎで帰宅、シャワーして
8時から深夜3~4時まで仕事
それを約3年続けましたね。
それが極限だと思ってましたけれど
後になって
大したことじゃなかったと思えてきましたね。
「老い」という言葉は解っていたつもりでも、誰もがそのような自分自身を決して認めたくはないでしょう。
いつかそれについて投稿するつもりで
データー収集段階ですが、
若かったよりできるようになったのです。
私は40代で自分の老いを受け入れました。
早い段階で済ませたので、
老いるのが苦しくないのです。
不思議なことに
老いをみとめてから心的負担も軽くなりましたね。