思考を可視化することは可能か
Is it possible to visualize cognition?
自分が思っていることを外側から見られるか
Can we see what we think from the outside?
私が何かを思う時は
When I think of something
頭の中で何かが動き
Something is activating in my head
言葉に似たようなイメージが瞬間的に表れる
An image appears at that moment which resembling words
それから身体感覚が伴ってくる
After then my body sense comes along
私が坐禅を始めた8年か9年か前
When I started doing zazen 8 or 9 years ago
経営していた塾の仕事から関連したストレスが
Associated stress from the job which was a cram school I had
私が処理できる範囲を遥かに超え
The stress was far beyond the range that I could handle with
制御できなくなっていた
It became uncontrollable
心理学を専攻したことから
Since I majored psychology
ありとあらゆる心理治療に関する本を読んだが
Have read books on psychotherapy as I could
読んでいる瞬間は納得できて
The books I read were made sense to me at the time I was reading
ストレスの因果関係が見えてきたのだが
Although the consequence of stress has become to be seen
本を閉じるとストレスは理解できた分、更に巨大化していた
It became even bigger as the amount of comprehended, when I closed the book
心が狂い叫んで煩かった
Again, my mind was shouting crazy and lousy
常に心が重苦しく、息できない窒息感があった
My mind was always heavy and suffered, had felt suffocation
最後の試みとして坐禅を試した
I tried zazen as the last trial
やり方が書いてある本を横に置いて
Put the book aside which was written how to do
電気を消し
Turned off the light
蝋燭を灯してから
Lighten the candle
線香をあげ
Incensed the incense stick
和室の壁を向いて坐った
I sat toward to wall at the Japanese style room
そうすると頭の中から
As I sat, from my head
記憶が洪水のように溢れ出た
Memories overflowed like a flood
その日あったこと、誰かに言われたこと
Things that happened that day, things that someone told me
言われてどう感じたこと、私がどう見えてただろう
How I felt someone’s spoken, how I was seen
他人の顔が現れて、私の感情が言葉になって続く
Appeared someone else’s face, my feeling kept traced it as a word
ふっと、気が付くと
Suddenly, when I realized
記憶の海に溺れて沈んでいく自分が見えた
I saw myself who was sunken drowning into the sea of memory
『思考を切る』と書いてあった本を思い出した
I reminded the book written that『Cut the thought』
思考を追わない、そのために思考しなければならない
Don’t chase the thought, to cut it must think at first
思考を切るためにも先ずは考えなければならない
Due to cut the thought need to think in the process
何が思考で、切るべき思考は何なのか
What is thought, which thought I should cut to
何が記憶で、何が考えなのか
Which is memory, which is thought
そう思っているうちに
While I was thinking such
ポツンと目の前に
Pounded in front of my sight
石鹸の泡のような思考が広がっているのが見えた
I saw the thoughts was spreading out like a soap bubbles
その泡に焦点を合わせて見ると
With focusing on the bubbles
現れては消え、また現れ、また消えていく
Appearing and disappearing, it appeared again and disappeared again
私は後ろ側になり
I was set behind
思考が前に現れる
The thought appeared in front of me
その思考は言葉と感情が容れ混ざった
The thought was blended with words and emotions
決して美しい形ではなかった
It could never be a beautiful form
私は9年前のあの坐禅レベルに比べて
My present level of zazen to compare I had 9 years ago
それほど大きな伸展がなく
It is not improved enough
未だに思考を切ることができない
I yet can’t cut the thought
だが、坐禅の回数に伴い
However, with the numbers I have been doing sessions
ストレスは単なる記憶の動きにすぎないと分かってきた
I found out that stress is just an activation of memory
もし私が記憶の側面を全部見られるなら
If I can see all aspects of memory’s side sections
きっと、自我の中側から外側へと
Surely, my ego to outside from inside
卵の中から卵の外側へ
From the inside egg shell to outer egg shell
宇宙船に乗って宇宙の中へ
Taking a spacecraft to travel universe
狭い空間から広い空間に出られる境地を見られるかもしれない…
I may able to see the reaching point that I could be out to the huge space from narrow space…
Yet, I never framed the question in the way you when you writet: "Can we see what we think from the outside?"
That is an elegant question.
I have much more to say about this post and the story you tell. I will later share my experience with trying to "cut the thought" during the few times we meditated.
But back to your question: "Can we see what we think from the outside?"
Perhaps the question is equally important to the answer.
Some people view the human mind as a thing built by evolution so the universe can view itself.
I don't know how I feel about that view, but it does tend to eliminate the distinction between the internal and external, between the subjective and objective.
Anyway, a really great post that strikes at the essence of human experience.
①彼は私が書いた『思考の外側から見られるか』について疑問を持っていたが、その枠組みを捉えることはできなかった。
②上記の問いはその答え同様重要である。
③人間の精神は宇宙の進化によって形成されたとみなす人がいて、宇宙の視点で可視できる。
③その見方は主観的視点と客観的視点の間の識別を排除させる傾向がある。
④人間の経験について核心をつく記事だ。
私の訳は彼が言おうとしたコアからズレている可能性はありますが、日本の方と思考の側面について意見を交わしたいと願う本人の要望があり、簡単にまとめました。
今までは、このブログに書かれたコメントを彼は自動通訳(マウスの右クリックで出てくる)で読みそのちんぷんかんぷんな訳と私の補足で分かろうとしてきましたが(エリックは私:桂蓮の夫)コメントから人との関りを感じてきたらしく、考えや意見を言葉を超えて討論したいようです。
もし、皆さんの中で彼と話したい方がいたらエリック宛にコメントを残してくれれば、私が通訳して(+自動通訳)伝えます。
今までは私の師匠Tが英語達者な事柄から、直接意思が疎通できたみたいですが、
他の人の意見も聞いてみたいようです。
わたしが苦悩を覚えて半世紀たちました。その経験から言いますと、思考とはエネルギーだということです。
頭脳はエネルギーを加工する力があって、ノーマルなエネルギーを思考エネルギーに変えていると思われます。
重要なことは、頭脳は同時にいくつもの思考をつくり出しているように思われます。
生命の発生(宇宙の歴史)からいえば、まず脳幹が生まれ、その上をおおうようにに大脳皮質が成長します。人間が生まれる訳ですね。
ですから今も、いのちそのものを司る脳幹の思考が働いていると考えるべきでょう。その思考は宇宙の摂理のまま思考します。
しかし大脳皮質の思考は宇宙の摂理よりも、己を自分の力で確立しようと働き、様々な欲を生み出しているのではないのかと思われます。その力が強いため、脳幹の思考は昼間の星のように隠れてしまっている。
そして生まれて歴史の浅い大脳皮質は、正しい道を見つけられないまま、自らつくり出した妄想にとらわれ苦悩している。
ですから私は、座禅やそれに類する瞑想は大切だと考えます。
瞑想で何をしているのでしょうか。
それは混乱する思考を外から眺めるのではなく、その思考の内に深く潜っていくことだと私は思います。
深く潜っていけばやがて、混乱した思考エネルギーを突き抜け、原始の脳、脳幹の思考エネルギーとつながるのです。
泡のような思考は、その途中で見るエネルギーの風景かもしれません。
なにが正しいというものはないでしょうけれど、私の瞑想はおよそこのような感じで体験し、脳幹のエネルギーを通して、宇宙とシンクロするイメージを得ています。
何かの参考になれば幸いです。興味があればエリックさんにもお伝えください^ね^
しかし、私は米国人も日本人もそれほど違いがあるようには思えません。
思考を外側から見る、ということが
私にもよく分かりません。
そもそも、「思考」とは何でしょうか?
のしてんてんさんは「エネルギー」だと
おっしゃいますが、私は知覚した「事」を先ず始めに「物」化するということが
思考として最初にあるのではないでしょうか。
私にとって、「物」化というのは言語化という意味なのですが、お二方はどのように思われますか?
意識的にであれ無意識的にであれ、前日に解答の見つからなかった特定の疑問、
雑念の海(=雑多な情報過多・過剰意識)で不鮮明になっていた、混乱し混沌の意識界でさ迷よっていたその疑問が・・・
睡眠に入る事によって全てが一旦ゼロにリセットされる(ゼロポイントに到達する)。
寝るとは「意識」を失う事だから、いわば「無我」に成る訳だから、恐山師流での「死の受容」足るべき「涅槃」の世界に達した訳であり、全ての雑念(=「生での識」)は一切取り払われる。(注;全ての人は誰でも睡眠を通してそうなっている筈だ。)
すると脳内下部組織の【海馬】が自動運転し始めて、脳内に蓄えられた全ての情報の海の中に検索の航海を始めて・・・もつれた糸を解きほぐし・・・正解を、自動的に探し出して来て呉れる。正解が紡ぎ出される。
そしてそれが言語化された時、
【朝の目覚めのご宣託】が起きるというシステムだ。
睡眠中は左脳と右脳の情報交流は遮断されているので、左脳のロゴス的警戒心も周りに伝播しないので、パニック症状も起きず、禅病も起きず、石鹸の泡も観ず、思考の可視化も起きない・・・。
左様に結論としての「朝の目覚めのご宣託」という言語的表現(=正解)が出現してくる訳だ。
注;コレハ私の場合であって、極個人的な論理付けではあるが・・・。
やがて時代の流れに沿って、それらが「認知科学」と言う科学の一形態なって現れ、
心理学・人工知能・言語学・人類学(含む考古学)・宗教学・神経科学(脳科学)・認識論(哲学)を総合的に考える科学として発展してきた。
そして今は、脳科学によってその「存在の根拠」を確認する実証科学として、人の実存の在り方を探る方向へと焦点が移ってきている。
単なる幻想世界から、脳の論理回路の実存の解明への遷移である。
人はなぜ迷い、なぜ石鹸の泡が起き、いつシャボン玉となり、それが空高く放たれて、宇宙の旅へと消えていくのか・・・
それをイメージさせるのは、思考を可視化させるのは、
それが右脳の世界だからだ。
今、脳科学の究明はそのメカニズムの究明の旅に焦点を当てたのだ。
心理学的「坐禅」のメカニズムの究明に役立つはずだ。
私が素粒子物理学に初めて接せた時、坐禅や妄想の基本概念に通じていると察して、ずっと勉強しています。
芸術家の捉え方は知識も美しく視覚化させるのですね。
ですが、私の場合思考は言語を通して始まります。
3か国語を話す私の視点から言うと、日本語の思考が上位で、次が英語、最後に韓国語といった3段階になりますから、より複雑になってしまいます。
ところで、POさんのブログURL残して頂けますか?
のしんてんてんさんの読者欄から探そうと(誰がPOさんか特定しようと)しましたが、多すぎてできませんでした。
To visualize is Picture World which exists in the right
brain, in the most cases.
Note;
30% to 50% of left handed persons have Logos World (= The language center) on their right brain.
The left handed people exist as 10% of whole human's population.
Now,
if the left brain's logos(=words, languages) can be transferred through the brain circuitry to the right side brain, you will see a picture image for the words,
(thought that image had been already existed from long time ago in the brain circuitry as a pictorial association for the word....since the nothingness can create anything in this world).
And this may be used, I think, as an answer to Ren's question in her article this time.
Interestingly it's known that the right brain tends to see yourself (=your own body) 5feet above & apart from your body.
This phenomenon may explain something for the justification of using word [ From Outside] in her contents.
恐山の南師の最新記事は、応答であるようですが、数回読んだ挙句の果て、ポイントが掴めないので師匠の補足で、関りがあるかもと思い始めました。
ただ、私が思うことは、涅槃の言葉の意味さえ分からなく、読み方すら分からないので(その言葉を知っている人向けだけに書いた)読者を選びすぎかもと思います。
私には師匠の解説無しに、南師の記事を理解することはできません。
ですが、毎日分かりやすいコメントがあるか確認はしていますが。