苦痛は暗号か?Is pain a code?
坐禅のフォームは慣れるまで苦痛を伴う
Zazen form brings with physical pain until getting used
特に足の痺れや痛みは
Especially the numbness and pain of legs accompany
足を使えなくなるのではないかと
Would not be able to use my legs
恐怖感までもたらす
Bring up the feeling of fear
背中の痛みは正しく座れば
If I sit correctly the back pain
足の痛みほど強烈ではない
-is not strong as legs pain
だが、足の痺れによる痛みは
However, pain due to numbed legs
以下の妄想につながる
It leads to the following delusions
➡血が通らなくなる
⇒Blood fails to pass through
➡血液循環が悪くなる
⇒Blood circulation deteriorates
➡足の血管が切れる
⇒Leg’s blood tube be cut
➡血管が破裂する
⇒Blood vessels burst
➡致命的な損傷を起こす
⇒Causes a fatal damage
➡救急車に運ばれる
⇒Carried to an ambulance
➡手術をしなければならなくなる
⇒Would have to undergo surgery
➡一生障害者になる
⇒Becoming a disabled person forever
そこまで妄想が暴走したら
When the delusion has run wildly to above
それ以上坐るのは無理になるので止める
It will be impossible to sit any further, so better stop
だが、一度その妄想に立ち向かった時があった
Although, once there was one moment I have faced on the delusions
苦痛の実体を眺めようと思った
I thought to try gazing at the entity of pain
苦痛を分析したり
Analyzing pain or
圧倒されるではなく
Not to be overwhelmed
苦痛をただ見つめようと思った
I just wanted to gaze at pain
苦痛を見るには
To see a pain
苦痛を感じている身体感覚から離れる必要がある
It needs to get away from physical sensations which I am feeling
身体感覚が自分のものだと決めつけると
If I decided that the physical sensations are belonged to mine
私という自我は苦痛そのものになって
Then my ego which as me, becoming pain itself
苦痛を避けたくなる
It wants to avoid pain
私という自我は苦痛を無くすために
The ego of me tries to eliminates pain
恐怖を感じさせ
-it lets me feel fear
苦痛を止めさせようとする
-tries to stop having pain
恐怖心は人を怯えさせ
Fear frightens people
事実に直視できないようにする
-it tries that not to look directly on facts
私はその恐怖心の態を見ようとした
I tried to look at the form of fear
実際に身体の苦痛が進行しているので
In fact, because of the physical pain is ongoing
苦痛がもたらすはずであろうとの
Whether the pain should bring
恐怖心を直視することは難しい
That is difficult to look directly into the fear
だが、自我を外側に置くと可能になる
But it will be able to see if put ego on the outside
つまり感覚を感じている自分を見ることだ
That is, seeing myself which is feeling senses
そうすると、恐怖に圧倒されている個体が見える
If so, can see the individual which is overwhelmed by fear
その個体は苦痛に塗れて
The individual has smeared with pains
恐怖に怯え、恐怖を直視できていない
-frightened to fear, not been able to face up to the fear
その恐怖の実体は事実でありながら
Both side the entity of fear is as a fact
幻想でもある
-it is also an illusion
それらを眺めているうちに
While I was gazing at them
気がついたら苦痛が和らいでいった
I found that the pain has demised when I aware
苦痛というのは
The pain is
暗号か…
Is it crypto…
解読したら見えるものか...と思った
It can be seen if I decoded…that was my thought
これらは
These are
H24.10.25(2013)の4年前に
4 years ago, on October.25. 2013
坐禅ノートに書いてあった…
Written in my zazen notebook…
苦行者はそれを乗り越える事に快感を覚える。
釈迦は6年間?の苦行者生活で何一つ悟りを開けなかった。
苦行者生活を止めて、その後、菩提樹の木の下で瞑想をしていた数日間は足が痺れるなんて事は無かったんでしょう。
それで悟りに至った。
悟りと苦行は無関係??
4年前に書いたノートを要約したものです。
当時は心的苦痛が酷かったので
苦行だと思いませんでした。
当時のノートを読むと
もしかして、私あの境地に?と思ったりしますが、もう長年が経っているのですっかり忘れてしまいました。
今は自分のノートを理解するために記憶を呼び起こしています。
認知症の予防接種!!
悟りと苦行は関係はあると思いますが、
データーで言えと社会心理の先生からいつも言われましたね。
坐禅体位は、呼吸が真っ直ぐ通って腹式呼吸がしやすいためだ、といってたよね。
腹式呼吸は丹田呼吸の事だから日本では全ての武芸家(今ではスポーツ選手)が「肝をどっしりと据える」と言う目的の為に遣っていた呼吸調えのテクニックだよね。
医学的にいえば、腹式呼吸をすると腸が刺激されるから副交感神経系が活発になる。副交感神経は、気持ちの安らぎ・安定感・落ち着き感を醸し出す、と繋がってくるわけだよね。
呼吸療法と言う分野があって、落ち着きのないせかせかしたストレスいっぱいの人は胸式呼吸で息が浅いから、腹式深呼吸をさせると、人間が変ったように落ち着て来るという事で、呼吸セラピストもいるよね。
坐禅形式は集団作法として道元師がみんなで一緒に「型」から入る事の精神性(集団行動理論)を優先したからだとTは思うよね。
現在のサンガ指導者のベトナム人臨済宗派テック・ナット・ハン師は(数歩前に)「歩く瞑想」(の繰り返し)を指導しているよね。
しかし基本的に言うと、もし苦行が苦しみに耐える時間と言う事で言うと交感神経系の異常緊急警報が発令されている最中だから、そういう状況下では「悟る」事は難しそうだ。
交感神経系の異常警報を精神力で抑え込めれば、苦行中「悟り」を得られる可能性はある。しかしその時は苦行中ではなく苦行を超越した時点で「悟る」という意味となる。「心頭滅却すれば火もまた涼し」の比叡山僧兵の焼かれ姿が目に浮かぶ・・・。
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悟りと苦行は関係ないという事を示すデータは、
南さんの変性意識=悟りの一形態は、坐禅中、永平寺で屋根の落雪の音で突如訪れた。
釈迦は坐禅中、明けの明星を見た鶏の鳴き声で突如悟りに達してしまった。
これらは苦行と悟りは本質的には関係ないという事のように見える。
「笑いセラピスト」と言う分野もあるよね。
基本理論は、哲学者アランの「人は幸せだから笑うのではない、笑うから幸せになるのだ」という真理?から出ているよね。
日本では昔から「笑う門には福来る」との諺があったしね
さあ皆さんご一緒に・・・ワッハッハ!!
苦行の苦痛感からは生じない。
右脳と左脳を繋ぐ脳幹が女性並みに太いと推測しちゃうほどです。
脳幹が太い女性はそれが細い男性に比べて、直観が鋭いらしいですね。
知識を関連付けさせる能力も、左右の脳のバランス感覚が優れているから、そんなに素早くデーターを持ち出せるでしょう。
私は、知識系に疎くて消化できるまで時間を必要としますが、一度飲み込めたら、後は早く処理できます。
アップロードするには、ダウンロードしてインストールしてその他の他、再構成など過程が複雑です。
Tのいう水平飛行は私の2020年版に可能でしょう。
データー処理には時間がかかりますので、了解ください。
私のノートほとんど、それについて書いています。
涅槃=悟りとある。
日本で近代仏教研究者の祖である中村元は、
釈迦時代の様子を良く表しているダンマパダ第十章暴力、134節の訳注において、
「安らぎ(=ニルヴァーナ、涅槃):声を荒らげ無いだけで涅槃に達しうるといっているから~~」と記している。
明らかに「悟り」と「苦行の苦痛」は本質的には関係無くて、
むしろいつもニコニコしていて、言葉が穏やかな人こそ涅槃に達した人だ、と言ってよいことに成る。
(注)後代の仏教教学者が悟り・涅槃を小難しくしてしまった様だ。
涅槃が穏やかな形で現れるなら、私はきつく見えるので、もう見た目から外れ?でしょうか?