一般に心を感情系、頭を考える思考系に例えて
慣用的に使っている。
心を開ける、心を閉ざす、心で言う、
心が痛む、心が泣く、心が舞う、
心に沁みる、心が冷たい、心が熱い、
心が明るくなる、心が暗くなる、
心に鬼、心が伝わる、心が無い、
心がある、心が変わる、心で聴く、
心に触れる、心だけ、心を添える、
心を見せる、心で見る、心一つなど
心を感情や気立て、心構えとして使い分けている。
多種多様な状況変化や様々な状態に応じて
『心』は柔軟に対応できる語句でもある。
その中で、私は特に心の開け閉めに関する語句がしっくりくる。
人が人に対し、心を開けていると
意志の疎通が円滑になり、話が流れるようになる。
だが、ある人がある人に対し、心を閉ざすと、
まるでドアを閉めたように、
人の間で事柄情報の出入りができなくなる。
心を閉ざすのは一方的で、割と簡単にできるが、
心を開けるのはそう簡単にできない。
ある人が人に対し、“心を開く”と言うのは簡単である。
その言葉を聞いた人が『開けることを閉ざす』ことも簡単である。
人に対し、心を開くべき根拠が充実で誠であっても、
聞いている人にとっては
その正しい根拠も虚しいことばだけになりかねない。
何歳からだったか忘れたが、
実際私は全ての人に対し、心を閉ざした時期があった。
心を閉ざした時は、
ドアがパータンと閉まる音を出すように
空気が切れるような音がした。
心を閉ざすと、人の言葉が聞こえても意味を成さなくなる。
外見上、自閉症のような症状に最も近くなる。
自分の世界に閉じこもるように見えるが、
そこまで自分だけに拘ることも無い。
ただ、人との関りを保つための努力を
しないだけだったような気がする。
私の姉は私が心を閉ざしていた時期のことを
“無口”だったと言った。
姉は私が言ったことを何も思い出せないとも言ったので、
後になってその記憶が無いことが
正しいと言ってあげたことがある。
もしかしたら、私は自閉症で生まれてきたかもしれない。
何故なら、何も話さない時の方が、
気が楽で平穏を感じるからだ。
その傾向なので、
話をすることは私に結構なエネルギー消費になる。
塾長をしていた時は、
個人の性格要因と公の役柄を弁えていたから
割り切ることができたが、
今、私は公的にも私的にも話す義務が無い。
それが何よりの幸せでもある。
その長年の経験からか、
私は自閉症に関して軽々しく言えない。
その肉体的な体験をしていないようなカウンセラーが
学校で習った理論を自閉症の子供に
実験をしているのを見ると心が痛む。
また、自閉症の子を持つ親が
自分の子を正常でないように話す時も、
やるせなさも感じる。
自閉症を正常の状態に直すべきだと思う社会観念にも
悲しくてならない。
正常な子の尺度から自閉症が判断され、
自閉した子は頑張って
正常にならなければならない責務みたいな強制が課される。
しかし、自閉の子からみて
正常の子達は異常なほど同じ性格に見えるかもしれない。
俗で言う正常は、行動傾向が類似し、
行動が規格に適したある範囲内に収まることを言う。
自閉の子はその標準外だけの行動様式を持っているだけかもしれないのに、
正常の人はそれを認めない。
実際、私も生きるために
心地良い自閉から出なければならなかった。
自分で生きなくてはならないと
生命の危機に直面した時、
自閉の部屋を選ぶか、
恐怖に満ちた外側に出るドアを開けるかは
確率の問題かも知れない。
外に出るドアの取っ手を握る勇気、
それを回し開けるまでの心の格闘
外に出てみて見える自分がいた部屋は小さかったのに
ドアは大きかったと分かること
そのドアの取っ手は外側に無く、
中にいる人にしかついてないことを確認する瞬間
それらは心の自閉は一瞬から始まり、
一瞬で閉ざされ、
閉ざされた長年の苦しみも
一瞬で飛ばされる。
その一瞬に開け閉ざしの空間がある。
追記
今回の記事が長くなってしまいましたので
和文の英訳はゆっくり時間をかけてアップしていく予定です。
その手応えを感じる場所が心ということではないでしょうか。
心は自分の内側というよりも、ドアの外側にもはみ出しているわけです。
生きているというリアリティを感じるのは内側というよりもドアの外側ではないでしょうか。
私の場合は生きているリアリティは内側でしたね。
外側で人から受ける刺激はある種、化石化してますから。
でも、木や花からは随時、そのリアリティやらを受けています。
追伸
この記事はあるブログ記事に因んで書きました。
個人的なメッセージ性を含んでいて
学術的に自閉症を論議、定義するためでなく、
ある事実AとBについての反応Cにすぎません。
そのCは事実ABとは何の関りがないのですが、
単に、存在をアピールするだけです。
書いていた時は
ZIPさんならきっとことを簡単に要約して
そのことから新たな可能性を見せてくれるだろうと
思っていましたが、
正にそうでしたね。
ありがーがたくコメントを承りました。
変わる部分と変わらない部分
感情と精神 感じるものと考えるもの
「自分である」というが
何を「自分」と言えばいいのだろうか
心というものもよく考えると
自分であって自分でないような
体がそうであるように不思議なものだ
気分や感情というものは
それ自体が面白い
どこからかスーッとやってきて
またどこかへスーッときえてゆく
目に見えるものではないが
何かそれ自体が別の世界からの
訪れであるかのようにも
何を「自分」と言えばいいのか
わからないほどに
すべてに広がってゆく
宇宙に果てがないのは
自分に果てがないのと同じようでもある
「心の悩み」と言うが
悩んでいるその心とは何なのか
外見の体や、くるくる変わる気分などを
自分だと思っているなら
そんな自分など、宇宙に比べれば
あまり大したことはないと
何を自分と思っているかで
その人の自分は決まる
だが考えてゆけるし
「考える精神」がある
それは安心するため、ということでしょう。
見る、聞く、話す、匂う、味わう
触れる...
5感覚は全て頭の中にある。
触覚は体全体だが、
それら6感覚器官によって
心が活動される。
また、精神活動の原動力になる。
自分とは、ところが
それら6感覚機能の最高位に君臨し
独裁している。
それら6感覚器官から
成り立っているのに
それに気づかない。
愚か者である。
精神はその愚かさを罰する神か...
ところが、内側の人物は
外側にしか無いと思っているかな、
誰かが開けて
救い出してくれることを待つ
その言い訳として、
内側の取っ手を無視するしかないのです。
で相手に合わせて行動するのが一番です。でそこでやり返しも自分が貶められるのでやらないで逃げちゃう方がいいですよね。子供にも相手の行動に合わせて行動して良いって伝えてます。そこで暴力で返したらそれは自分の信用も落とすし、また相手の痛みも分かればやらないでいられる。そうなれるように息子にも伝えています。
いじめの事件は今子供の現実が事件として大人びっくりしてますけど、現実は紙一重でいっぱいあると思います。おかしいし、それを周りが護る事が出来たら、面倒だと思ってターゲットにはされにくくなる。子供はヘルプしません、隠したがります。なので自分から親や信用出来る方を見つけてそこにはドアを自分から開けてさえしてオープンにしてくれたら見てる人はすぐに分かります。
自然に妬みなどで人をいじるのを人間の生命維持時間の中で非効率でもったいないと思える人が増えるといいですね。
子供のいじめは閉鎖空間で起こります。なのでまずは自分でドアを開けてオープンでありのままだと結構護られますよね。日本の学校も保育園も変わってくるといいですよね。
日本人だけじゃ護れない文化や心、どうぞ海外の目線でまた海外へご紹介頂けると日本人としてもとてもありがたいです。お役目なんでしょう。日本人だから出来ない事疑問に思う事もありそうですからね。
宜しくお願いいたします。
こちらもどうも気配が良くなりましたよ、あとは咳だけ治したいです。心と健康は連動します。そして命を護るために嫌な環境から逃れる事や隔離部屋に一人でいる時間も大事。その時々で出入りしましょうね。
またこちら伺いますね、癒されに来ますので。
気配がよくなれたようで何よりです。
りひとさんに子供がいたのでしたね。
言い方が若くて、まだ結婚してないだろうと思ってました。
子供のいじめは閉鎖された感ありますね。
いじめ側が閉鎖していて
いじめを受ける側を限定した状況に置き
その人が受ける苦しみをみて遊ぶような
残忍な行動形式ですよね。
思えば、私が初めていじめを受けて
泣き泣きで家に帰って
父に私がどんなにひどい目に遭ったかを話したら
何と、父が私に激怒して
”お前に問題があるからそんなことがあった、自分のことは自分で解決せ”と言われました。
それで、悔しくて泣いたら
泣いたと相当殴られました。
あれで、私をいじめから助けてくれる人は
誰もいないと分かり、
以後、自分で解決してきましたね。
父に裏切られた気持ちはありましたが、
もし、父がその時に問題を解決してくれたら
恐らく、私は父に依存し続けたでしょう。
あの時の父の激怒、
そんな柔いもんで育ってた覚えはないと
それで死ぬなら死ねしかないと父から言われた時、
6歳か7歳かの心にも現実感が何か分かった気がしましたね。
父に感謝できることは
私を強く育てたこと(結果的に)です。
容赦なく、扱ってもらったことかな。
その父に心は閉ざしましたね、
りひとさんのことばで、
封じていたあの記憶が甦ました。
私が25才、一人で留学した時
父が手紙を送ってくれました。
ですが、今まで一度も
読みたいと思ったことが無かったです。
どこかに置いてあるかどうか、
2度、そんp手紙を読もうと努力したこともありましたが、
強い感情面での反発があって
読み続けることができなかったです。
もしかしたら、その2度目に読もうとした時に
勢いでその手紙を読みもせず
捨てたかもしれません。
父は死んでいますが、
もう記憶からも消えつついますね。
父の生き方は理解できますが、
私が死んであの世でまた会うかもと思ったら
ぞっとします。
兎に角、癒やされにくる人に対して
亡き父の文句を書いてしまって悪いです。
連想されたものがそんなもんでしたので
済まないです。
ブログ記事は、書いてはいますが
アップするのに気乗りしなかったでしたが、
またくる人がいるでしたら
またアップしますね。
コメントありがたいです。
思い出すと
13~15歳の頃は「Collège」に通い
特に叔母には心配ばかりかけていました
ランボーに憧れ、放浪、流転、
斜めに生いることに憧れ
出来事は常に行き当たりばったりで
生きていることなどどうでもよくて
日付もなければ意図もない
この世のあれこれなんぞ
何ほどのものであるなど
全く思っていなかった
ふとした折りふしに
ボッボッと私の中で言葉が
疼き出してきた感じが
魂の言葉を語るには
学び足りないことに想い至り
古典や武術と仏教
特に禅門に寒山詩に
その行き当たりばったりの暮らしの延長で
今後どう生きるのかも、風委せの今も
好きな絵を求めての美術館巡りで
未だ到らず
ただ馬齢を重ねる日々
ただとってもありがたいのはそれを綴ってくれた事。
私の行動への感情をダイレクトに伝えてくれてありがたいです。そんな状況があり、またそれを自分の中で解決しようとしていたんですね。
ただ思うのは、結果は自分で変える意志があると変わる可能性を感じました。
実際の思い出と出来事はきっと自分の認識でその後変わるのかもしれませんね。消去法で前向きな印象に変えたいと立派にドアを開いているようにも思いました。
残念ですが、相手の感情は主導権が相手なので変える事は出来ません。ただ自分の相手に対しての感情は、相手がどんな状況かを勝手に拡大解釈なり妄想したら少し和らぐのかも?と感じました。当時は出来なかった前向きな依存しないで良かったとの印象は時間と自分の成長でしか上書き出来ないはずですからね。
カード会社の督促の仕事していた事ありまして、そもそも出たくないとか払えないとか怒っている方にその人にいかに合わせてその人ごとにどう出来るか?考えた事があります。こればっかりは運でトラブルにも合いかねないお仕事でした。ただ事情なり自分の納得いかない事についてはお話はしてくれる中で自然と前向きに変わってくれる事も体験しています。
人間で言うと、家族ほど厄介な組み合わせはないなあ?と歴史の登場人物やまた実際に会った方などのお話でも感じております。
その上で言うと、家族では解決出来ないようになっているんではないかな?と。病気と一緒でプライドや迷惑かけたくない一心で黙ってこっそりと闘病する、父もそうでしたね。それを少しドアを開いて実は、、、という事が気を許せる方一人にでも出来たら何か環境も変わってくるし心にもいいのではないか?と。日本は今病気に関してはとても良い流れになっています。全く知らない方から応援されたり、おせっかいまであるでしょう。
けど親なり近くの方ではないからこそ無難に助言を選べるようにも思うんですよ。
少なくても現状維持から少し前向きになった行動ですよね。それが出来たら一歩ずつ変化が起きるチャンスだと思います。
違う方にもお話しましたけど、日本では親という立場だとどうしても子供に対して同じ人間としての対応が出来にくいように思います。いつかお互いそれが現世だけだったんだと思えるようになると現世では受け入れる事も出来るんではないかな?と。
毎回甘いんだろうとも思いますけどね。
何事もどうも隣の芝は青くみえますので、外へ目がいきがちですけど自分にとって大事なのは内の自分でその環境を比較で考えてはもったいないです。比較なんてピンキリですし、見えない苦労もいっぱいあるはずです。ならば自分の環境はすでにこうなんだ、それを認めて受け入れさえ出来たらその中での対処法を探るのみです。そこは心にダメージ受けないように人間には記憶も調節出来る術はあるはずです。
立派にドアの開閉も出来ているようで安心です。親だからとか責任者だからとかで動くのは、愛情ではないかのかも?その時そこに居合わせた方からの愛情のが家族よりも居心地いい場合もあるはずです。
いじめで悩んでいる子供たちもヘルプする相手はその時の状況に合わせて複数いるといいですね。
本当の愛情でしか解決されないみたいです。やる気がない責任の範疇のヘルプはヘルプする方からお断りして信用出来る相手を探すのも必要なのかもしれませんね。
それがで出来ているとの認識出来たらいい効果ありそうに思います。
今は形や責任上の愛情ばかりで昔よりも愛情ある方が動きにくい世ですから更にみんな大変なのでしょうね。
昔の歴史も印象を変える事が出来たら、人間今を楽しめるようになるんでしょうね。
そううち親がダメなので子供が成長してくれてます。
子供たちの方が大人みたいでいっぱい気付かせて貰ってます。過酷な学校生活送っているせいでもあると思います。