人類が解き明かしていない真理の一つに死がある。
Death is one of kind humanity that has not verified yet.
死はある生命が生き始めて、
その生命が生きた以前の『無かった』状態に戻ることかもしれない。
To say what death is,
it may be like life gets turning back
to the previous form of “the life was not born”.
最近、コロナウィルスによって死について考えることが多くなった。
Recently, the coronavirus has let me think often about death.
以前では、交通事故に遭うか、
不治の病気にかかるか、
寿命を果たしたかの大まかな3つの要因で
死ぬだろうと漠然として思っていた。
I used to think for some reason or other
that I would die in three rough ways:
by a car accident, get an incurable illness,
or by running out of my life span.
たが、今はコロナウィルスによって死ぬかもしれないという恐怖が
日常生活の中まで入ってきて、現在進行で進んでいる。
However, the lethal fear of COVID-19 has come into my daily routine
and it is currently threatening us.
これほど死の恐怖が日常の生活の中まで直接入ってきたことが無かったので、
改めて死について考えてみることで心境を整えたくなった。
Such fear of death never has been invaded into my daily life,
so I decided to clear up my mind to think of death afresh.
たが、宗教で扱う死への捉え方はそれぞれ異なるのもあることから、
ここでは私の個人的な見方と宗教の死は関連させないことにする。
However, the concept of death is different in religions,
so I will not allow the linking
between my personal perspective and religious view.
あくまでも私個人の死への偏見、
勝手な死のイメージだけにしておきたい。
Persistently, I want to keep my opinion as prejudice to define a death
and only will describe my personal image of it.
先ず、人類の歴史上、死んだ後のことを証明した者はいない。
First of all, in the history of mankind,
no one has proved how the afterlife like.
死後、死んだ人はどこに行くのかについて、
今までに挙がった証拠も完璧にゼロである。
The evidence is completely zero so far
as to show where the deceased go after death.
臨界死体験をした人がよくいう霊が身体から離れて、
自分や他人を見下ろしたとの事例は
その確率からみて宝くじに当たるより遥かに低いので当てにできない。
People who experienced critically die,
they commonly say their spirit could look down themselves and others
by leaving the body,
but those case’s probability is far lower than winning the lottery,
so it cannot be relied on.
また、死んだ人はどうなるかについても情報はゼロで、
あるとしても生きている人に完璧に知られていない。
Also, there is zero information to know what will happen when people die,
and it is completely unknown to living people.
死について知ろうとしても、
死んだ結果だけ残って、それでお終いなのである。
Even if someone tries to know about death,
only left for us are the result of being dead and period.
仮に、今に死を迎えている人がいるとして、
“私は今死ぬ“と分かったとしても、
それは死への入り口が見えたような感じで、
死の全貌が分かったわけではないだろう。
Supposing that there is someone who is dying right now
and knowing like “I’m dying now”,
even though the dying person can see only the gateway to death,
and it is not the whole picture of death.
もし、私が死んだと仮定した場合、
死んだ私にとって私はその死と全く関係しなくなる。
Assuming that I died, the connection between my dead and myself
will be lost completely.
私が死んだ場合、死の受け身の形は夫へ転嫁していき、
彼が私の死を全面的に受け入れなくてはならず、
間接的に死を体験できるようになるだろう。
In case if I die, the passive form of death will be shifted to my husband
who must except my death fully
and he would be going to experience it indirectly.
彼にとっても私を忘れる・忘れないことに関係なく、
私が生きていた事実は、記憶によって歪められていくだろうし、
生前の写真もやがては色褪せていく。
As for him also, whether he forgets me or not
the fact that I was once lived
it would be distorted by memory,
and the photos which taken me alive will eventually fade out.
死んだ人にとっては、
生きている人が死んでいる人をいかに覚えているとか、
どれほど慕っているとか、両者間の関係性も無くなる。
For a dead, how much the alive person remembers the deceased one
or how deeply cherished the dead person,
the relation in both it goes to none.
死んだ人への気持ちは生きた人が背負う感情なので、
その想いは一方通行になる。
The emotion toward to deceased,
a living person undertakes it so the longing becomes one-way.
私の父は20年前に亡くなったが、
わけがあって絶対に思い出したくない。
My dad died 20 years ago but for some reason,
I never want to remind him.
だが、30年も前に亡くなった祖母は今でも会いたいし、
思い出すだけで涙が出る。
But my grandmother who died thirty years ago,
still, I want to see her and tears running down just remind her.
私が欲しいものを何でも買えるようになった時、
買ってあげる祖母がもういないと知って
2日間泣いたことがあった。
When I became able to buy whatever I want,
I cried for two days aware that my grandmother is gone
who I want to give anything.
私が間違ったことをした時、
厳しく叱る祖母がもういないと知って、
喪失感で胸が潰れた。
Knowing that my grandmother is already gone
who always scolding me strictly when I did wrong,
and my heart crushed by the loss.
20年か前に、亡き祖母を夢の中でみたことがあった。
About 20 years ago, I saw my grandmother in my dream.
夢の中で祖母に会えて、
私はしっかりしていないことを叱られるのでないかとびびりながらも、
会って嬉しいとはっきり感じた。
In the dream, I felt happy strongly
while I frightened her because
she would scold me due to not being strong-mindedly.
夢の中で祖母は川を挟んで向こう側に立っていた。
She was standing across the river in the dream.
祖母は常に起こりぽい人で、
見るだけでも厳格な感じの人だったのに、
どうしたわけかその夢では優しい感じで微笑んでいたから
普段の祖母とは違う感じがした。
I felt unusual from her
seeing that she was gently smiling to me
because she looks strict and had a temper to angry easily.
私が祖母に“どこにいくのか“
“私もついていくからそこで少し待ってください”と言ったら、
祖母が“あなたはまだここに来てはいけない、
ここに来るな、そこにいて”ときっぱりと言った。
I asked her “Where would you like to go?”
“I’ll be with you so please wait there”
but she said decisively,
“You shouldn’t come here yet, don’t come here, stay there”
それでも私は川を渡ろうしたが、
祖母はひょいひょいと飛んだように消えてなくなってしまった。
Even she told me like that, I tried to cross the river,
but she has flown away like bobbling.
私は自分の泣き声で眼が醒めて、夢であったと知った。
I woke up with my crying voice and knew it was a dream.
人が死んだら残るものはその人との思い出だけかもしれない。
When one died the only left thing would be a memory with the person.
骨も灰になりやがては消える。
Bones also turn into ash and it eventually fades away.
後は法律上の書類、
生前に使っていた遺物、
残してくれた遺産など、
処理の手続きが必要な事柄が残るだけだ。
After someone died remained things are legal documents,
relics of the past which the one used, some properties, etc.
But those remained matters need a procedure to be dealt with.
上記外に死が残すものは、
死後の世界と現世は断絶している事実である。
Other than above, what death bereaved is the fact that
discontinuity of this current world and the afterworld.
死の恐怖も生きている人が担っていく現象で、
死んだ人には死の恐怖からも断絶されている。
The fear of death is a phenomenon
that is carried by living people but for the deceased,
the fear of death is completely discontinued.
これらの断絶された事実から分かることは、
死ぬ前に死の恐怖に怯えようが怯えないようが、
死と死んだ当の本人との間は確実に断絶されていることだ。
What we know from the fact of discontinuity is
whether we scared by the fear of death or not being scared,
surely there is a certain discontinuity
between death and the deceased one.
死について感情移入しなくなると、
死は死んだ者のものでなく、
生きている人が抱えていることである事実が明確に表れる。
When we stop putting empathy into death,
the fact comes up to surface clearly that
the death does not belong to the deceased
but living people hold onto it.
なので、自分が生きているうちに他人のために、
法律のことを解決しておき、
遺物の処理問題を片付けておくことが
死の恐怖に対処していく積極的な態度になるかもしれない。
Therefore, it may be a proactive attitude
to deal with the fear of death by resolving legal documents,
cleaning up the future relics for people
who suppose to stay alive while being alive.
"死"ほど一人一人が向き合うべき問題は無いと思います。
それに少しだけ加筆し再投稿
米国でのCOVID-19死者数は
オバマ政権での医療政策を否定した結果で
当初から心配されていたことです。
格差社会、富む者が優先とも思える今
日本も同じような日が
政治、国家という幻想に惑わされ
その言に右往左往する姿
memento mori
COVIDー19騒ぎで再認識できました
仏教を学ぶ = 無常観を学ぶ
生・老・病・死は一つ
生死一如であり
良寛にきた
お見舞いの手紙の返信に
「しかし、災難に逢時節には、
災難に逢がよく候。
死ぬ時節には、死ぬがよく候。
是ハこれ災難をのがる妙法にて候」と
善くこの人生を生き
そして死ねばいいのです
でも夢の中では
懐かしい人が良く蘇り
覚めて涙することもあります
夢化現化とも言いますしね
死については「無記」
考えても解らないことを考えない
「無記」と先達が記したのも解る
ように思います
And, after considering the content of your post, we're not leaving the house for a year.
But seriously, this post addresses beautifully the mystery of consciousness / existence, and the condition before and after: which I like to call: Potential Existence.
In the evolution of universes, what sequences occur that lead to our lives? What events bring us in and out of Time?
Even if never known, I cling to a belief: It is knowable
Stay foolish
他の例で引用されたら流れてしまったかもしれませんが、
この時期に限って
この無記という用語が馴染みますね。
どういうわけか、今回のアップで
Facebookの仏教関係の人たちから
多くのアクセスがありました。
仏教関係の人は
FacebookにしろTwitterにしろ、人にLikeいいねをあげることはしないです。
(人にサービスしない、ただもらうだけ)
ただ、Likeやいいねをもらう目的で発信しているらしいですが、
そっち関係の人は『死』に感心が高いでしょうね。
今回の記事で仏教関係者の傾向がよりはっきりしてきたことは皮肉かも。
なにせ、榮久さんの言ったとおり
考えても分からないことは
そのまま飲み込むしかないですね。
中身が違いますよね。
トランプをFoolと言わず、Stupitと言ったら
彼のLunatic、Insanity を表すのに物足りないし…
知識に対して
Be foolish, Be hungryと言うなら
まあ、一理はありますね。
コメントありがたく受け取りました。
Coronavirus Cases:813,758
Deaths:45,024
Recovered:82,620
Connecticut:1,423(死者)
明日は出かける用事があるので、
買い物もついでにできそうです。
昔のスペイン風邪での死者よりはまだマシな数値ですが、
コロナの伝染率は恐ろしいですよね。
しかも潜伏期間が2週間もあって、
死ぬ時は瞬時に死んでしまうようです。
本人も分からないまま死んでしまうケースが多いようですね。
自分が運び屋だと知らないケースが多いようで、
それが怖いですよね。
何となく、ここまでコメント欄まできた人向けに
書いておきたくなりました。
暗い内容ですみません。
地球レベルの問題について、
国家の枠を超えた最適解を見つけることが
出来るだろうか
先の福島原発事故の放射能汚染、汚染水処理
避難住民への対応等未だに出来ていません
今回のアベノマスクと揶揄される程度の対応に
四百数十億もの税金を無駄にしても
何も反省しない安倍晋三氏
現政権が典型的な例で
国家が国民全体の幸福ではなく
権力側に立つ人びと
(加計学園、黒川検事定年延期、桜を見る会 etc..)
等々への便宜を図り、
それ以外を斬り捨てるケースが目に余りる
それを私を含め
私たちが現政権を許しているのであり
やはり否定しなければ
「無能」としか思えない政策に
加担する仲間にされてしまう
プログラミングしながら思うが
エンジニアはプログラム(命令文)を書いて、
コンピューターを制御する立場にある
自分の命令で動かして
ここでは主従関係機械を制御しているのは私で
世界を制することが可能であるかのような
全能感に近い誤解を生じているのかも知れない
私たちは自分で何をコントロールできて、
何がコントロールできないかを適切に
見極める能力がすり減ったのだろうか
AIの発達が明るい未来を!?
AIと言ってもナカミは機械を
動かすためのアルゴリズム
アルゴリズムとは、
問題解決の手順というぐらいの意味でしかない
まずこうして、次にこうして、最後にこうする
と料理のレシピのように設計する
fail-safeが必要です。
AI ≒ アルゴリズム
AIを私たちがどう設計し
どう使うのかが重要だなと 曇り空の下で
問題なのは政治面で言えば、
そのプログラマーが誤った(偏った)命令を打ち込んでいるとのことでしょうか。
だが、実行する非支配側は
実行しなくていいのに、
(AIでない)
心なくして従ってしまうのでしょうね。
米国はそのプログラマーが最も邪悪な方法で
人を動かそうとしています。
最近、トランプのプレス会見を観ながら
トランプより悪いのは
彼を選んだ支持者なのかなと思ったりしています。
ここは人としての倫理観が不安定な感じがあります。
だからか、トランプの邪悪さを見抜けず、
彼の言いなりになって投票したのかもしれません。
日本の安倍政権は国民やメディアが持つ
圧力よりは弱い感じがするので、
ここのトランプ政権よりはマシな感じがします。
これら指導者の資格、資質の欠落が齎した問題は
人が投票券を誤ったか、高齢者だけが福祉を訴えた候補者に票を投げたからかもしれないです。
今日は外に雪吹雪が少し吹きましたが、
すぐ止みましたね。
妹が勧めてくれた動画
https://www.youtube.com/watch?v=EKh6qiAGDfA
Vivi林さんの
テドロス事務局長への公開質問状は
じつに素直で知的な若者の言葉が
しばらくして
私があの年代で悩んでいた事の
狭さに気付かされました
言葉の「identity」と言うのか
生まれた地、
育った地の言葉「母語?・第一言語?」と
学習せざるを得なかっ言葉
「外語? ・第?言語」が教えてくれたのは
その土地が育んだ文化の差
その国の言葉に含まれた皮肉
ironie / sarcasme を薄っすらと
理解できたとき自分の立場?
立ち位置?
「根無し草」なのだとなどと
でも彼女は世界に眼が向いて
母国に思いを寄せ
そのidentityが世界性を持ち
反論している事に
反省させられました
スペイン風邪ではクリムトもエゴン・シーレも死んだらしいですね。日本では走り坊主という京都の名物僧も亡くなったと。なんのために街中を走っていたんですかね。死んじゃったけどそんな人がいたってことに妙に勇気をいただけるんですよ。意味不明な行動でも百年を飛び越えてくるならその人はまだ生きているよなと。
主張にまともなところがあって、
説得力もありますね。
言葉の面から着目すると、
彼女のUK英語は台湾風ですね。
台湾風は中国風とは違って
HとW、といった子音の発音がなまっているのです。
彼女のアクセントは
UK風でも米国風でもなく、
外人のUKアクセントに聞こえるかな。
だが、アジア圏内では
英語ぽく、上手く聞こえるですよね。
似たようなビデオを
日本の子、韓国の子、中国の子、インドの子
それぞれの子達が作っていたなら、
訴えるところとか
責任追求面で異なるでしょうね。
榮久さんの時や私の時はネットが無くて
世界に向けて公開発言する機会が与えられてなかったです。
新聞くらいでしたかね。
彼女が今自分の名をあげられたのは
YouTubeとFacebook、Twitterがあったからです。
公開した謝罪要求に応じる人は
そうしないと社会的に致命的になる場合のみ
公開謝罪するでしょうね。
私に公開謝罪しろと言われたら
私はしないほうを選ぶかも。
私は人をコナーに立たせて
あなたは悪い、私は正しいと言った態度は
あまり望ましくないと思っています。
彼女の言っていることがマトモでも
私はあまり賛成できないかな。
態度ややり方の面でですが。
私も自分を石や木のような存在だと思っていましたよ。
だが、矛盾として、
それほど大して思わないくせに
こんなブログなんかで
常に自分、自分、私、私とうるさく言っているから
思っているのと表れている両者間に矛盾がありますね。
私は私に執着していないと私が思っても
他人からみて、全くそうでないように見えたら
一方通行的な想いになりますね。
今回の記事を書くのに
死についてマジマジ考えてしまいました。
で、疲れましたね。
自分の死やらに。
面白い例えですね。
増幅できる条件、
距離、媒介、刺激の強さ
基盤の大きさによって、増幅できる波長を耐える程度が変わりますね。
結構、考えるのに面白い例えで、
こう書いているときでも
想いが先先に走りましたね。
仏教で言う所の無我は認識作用も含めての本当の無我ですから、梵我一如と仏教の涅槃は本当に別物だと言えます。正反対だと言っていいでしょうね。観察者と執着が本当に消える状況(と言うのでさえ座りが悪くなる)を扱うのが仏教ですと。尾崎豊が「卒業」で歌っていた「仕組まれた自由に誰も気付かずに」の「誰」には思うままに世界をコントロールしているかもしれない誰かも入ります。仏教のレベルの違いは「全ての認識主体」がパーフェクトな救済を勝ち取る可能性が具体的に含まれている所にあります。私がバカなだけです。他人の人生の大したことのない側面はちゃんと目に入るのに、自分の人生は異様なほど輝いてガイコツのようにしがみついています(笑)
まあ、学校のテスト以外は要らないものが多いかな。
知っててよかったと思うのは、
『知らないで言っている・知っていて言っている』ことが分かるくらいかな。
「HとW、といった子音の発音がなまっている」
桂蓮さんの耳は鋭いですね
私の耳には単にUKの何処かの方言かな
と漠然と聴いていました
でも何年か前に中国深圳市(Shenzhen)
滞在しやはり深圳英語であったようにも
ご承知のように
英語はフランス語由来の単語には、
フランス語と同様に、
語頭の「h」を発音しないし
また「h」は日本語に無い「摩擦音:息の音」
「w」も無声音で口の形、舌の位置などに関連し
日本人には注意が必要な音素ですよね
言葉を学ぶとは文化をも学ぶこと
私は彼女の年代で祖国愛?
私の意識には欠如していたので
母国に対する素直な意見だと関心しご紹介
私は国家という幻想には
寺山修司さんの短歌
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
身捨つるほどの祖国はありや」
の詩が答えに
フランスの友人に合うためにパリに行った時のこと。
彼が” He is hitting"と言ったので、
私は” Who is hitting? ”Where?"と殴っているいるひとを探しながら
言い返したら
”Look, over there"と指してきたので、
見たらタクシーの運転手さんが車の中でハンバーグを食べていました。
Eating をHitting に発音したのです。
彼は英語に慣れていなかったでしたが、
それでもうちらは意思が疎通できましたね。
もし、彼との間で電波が生じたなら
今、私はフランスに住んでいるのでしょうね。
警察学校の先生でしたけど、今もFacebookで偶に交流しています。
彼は魅力的でいい人でしたけど、
私とそれ以上の縁が無かったでしたね。
縁がある、無い、これは人の意思でどうもなれない不可抗力ですかね。
忘れたと思ったのに、フランス人のHとEで思い出しました。
結構、いますね。
彼らの言っていることは空っぽの意味で空の思想と通じるものがあるから、
不思議といえば不思議かな。
ところで、今世間はトランプの諸毒薬注射発言で騒いでいます。
あの愚かさ、無知は痛いほどですよね。
学習塾を15年もやってれば
知識が如何に脆いか、実感できます。
だから、ブログもコメントも知識の説明はしないのです。
もううんざりなので。
アメリカにパチンコ店はあるのですかね?ですが、海外では要請ではなく強制でしょうから、このような事態にはならないでしょうが、
日本人には仕事だけでなく、趣味という労働問題もあるようです。
休みを与えられても、無為の稽古どころではなく、「暇だから」「他にやることないから」と、出掛けてしまうのです。
これらを、どう説明すればよいでしょう。
随分と前の仏外相「Bernard Kouchner 氏 」も
"Israel will eat Iran before it gets bomb."
との発言に質問が殺到し
やはり、eat ではなく、hit と言ったと
わざわざ声明を出したことが
h 音を発音するのは
フランスをはじめ、イタリア
スペイン、ポルトガル
中南米のスペイン語
ポルトガル語を話す国の
住民難しいことでしょうね
私も幼い頃に
あの東北訛りのような
鼻音を含めて妻が繰り返し、
訂正? 矯正かな?
の懐かしい日々が
思い浮かびます
死者は思い出の中で
確かに生きていて
側にいるようにも
でも仏でromanceが?
夫はその州で弁護士資格を取っているから
(ここでは資格を取った州でしか弁護士の仕事ができない法律)
出勤もそちらです。
夫の法律事務所の近くに
去年、大手のMGMカジノができました。
ホテルもあって、
何回かそこに遊びに行ってました。
映画館にいくためでしたけど、
Freeのコーヒーもあるし、公園もあるし
とにかくでっかいカジノです。
ラスべーガスのMGMカジノと同じで
一度だけスロットで40ドールかけて
10分で消えましたね。
それが今は全部閉まっているのです。
ラスべーガスも閉まっているから、
そっち関係の人はもう大変なようです。
それでも行く人は
パチンコ中毒ですかね。
あるいは、賭け中毒?
彼は熱心に教えるのですが、
肝心な私はすぐに逆切れして、
教えるのが下手くそだ、もういいとかなげやり態度です。
アジア人(特に日本)にとって
RとLの発音が一番厄介ですよね。
今撤退したバーニーサンダースは
NY出身で、NYなまりは
Rを発音しないので、きくのに面白いです。
夫は私のなまりがNY風だと言っています。
でも大分RとLは直しました。
フランスでのイベントは
ロマンスに発展しなかったケースでしたね。
私はロマンス苦手ですので、
元々ありえない可能性でしたが、
そのフランス人の友人が当時熱かったのかな。
本当に縁があるのか、確認するためでしたね。
暗い顔をした俗物の方がまだ真理の近くにいるというべきもので、幸せだった人生の防腐剤として仏教を学ぶ人の方が厄介かもしれません。名画に描かれたモデルの女性なんてつまらない俗物だろうと言われて怒り出すのが「俗物」で、画家も似たようなものだろうと言われて怒り出すのが「幸せ者」で、そんなものだと言うのが「仏教」であると(笑)
俗物としてのからっぽさではない、本当のからっぽになる幸福、からっぽに憧れる人生の大転換、そしてからっぽになることの難しさ。そんなからっぽの価値が分からないのは100%執着しか存在しないことを想像すらしないからです。死ぬ時は苦しいだけに決まっているじゃないですか。苦し過ぎて「心臓止まれ」と思う場合もありますよ。自分の本音すらコントロールできなくなりますから、からっぽ(自分は存在しないという事実)だけがオアシスになり得ます。苦しみによって世界が崩壊するところが見えたとしても、そもそも世界や人生は崩壊しながら進んできました。世界を自分の意志で停めることはできません。しかし止まらないから苦しみを越えて「次」の世界があると言えるのです。
阿羅漢が本当に輪廻から消滅できるかは知りません。しかし2600年前に釈尊が崇拝された理由や、神様が釈尊を拝んだという「神話」が発生した理由や、仏教が今まで存続してきた理由なら私でも簡単に分かります。仏教以上の「本当のこと」ってあるんでしょうか。
コメントを見ていると、もっと面白い。
ボクは日本人の代表みたいなもので、
仏教について疎いのですが、
ブログ本文中の
>人が死んだら残るものはその人との思い出だけかもしれない。
骨も灰になりやがては消える。
「つまり何も無い。生まれてきて死ぬだけで、後には何も残らない。」と言うことですね。
これには同感。つまり仏教にある無常観。(これ解りますよね。)
これは日本人だけでなくアメリカ人にもありますね。
日本では「方丈記」(鴨長明著)
アメリカでは「Old man and the sea」(ヘミングウエイ著)
次にコメントから、
hの発音について、
以前、インド旅行をした時、
レストランで「お湯が欲しい」と「hot water」の発音が悪くて、相手に通じなかったこと。
その時、英語の先生から、hは窓に息を吹きかけて
「は―」と息を吹きかける「は」の唇の形と同じで音は出ない、
そう教わったことを思い出して、そのまま話したら通じたこと。
その時、先生から
「お前のyearは何度繰り返してもearに聞こえる」と言われたことを思い出しました。
高校生の頃の昔の話です。
ブログの日本語もコメントも面白いですね。
冷めた言い方なんだけど、背景にある情緒を想像しながら読むと
それなりに味深いのもありますし、
今回のコメントは苦笑いというか、月さんでしか言えないことがあって笑いが漏れそうでしたね。
でも、言ってみると
月さんぽい言い方ってどうなんだろう、と考えちゃいました。
月さんのコメント、何となく結構記憶に残ってしまうなかな。
以外ですね。
ブロガー同士のコメント交流は
ここでは無かった(有っても数えるくらい)から
慣れない感がありますね。
コメントが面白いと思われたことは
文脈や流れを掴んだからだと思いますが、
途中で入られた割には飲み込みが早いのかなと思いました。
こちらで話される内容は
仏教哲学関係がおおいので、
それらに面白さを見つけられたようで
それも面白いですね。
よろしかったらまたコメント残してくださいね。
また逆に、ヒトラーやA級戦犯、麻原のような者達も、黒歴史を刻んだ者として記憶に残されますね。
善くも悪くも語り継がなくてはならないのでしょうね。
名を残すことが重要ではなく、善なるものを行じていくこと、それが残された我々の課題でありましょうか。
バラモン教に否定的だったブッダが、それを支持するような様相となっていますが、この矛盾をどう捉えればよろしいのでしょうか。
悪無しでは善も区別できないし。
白黒しか無い世界に、赤や青は色を失いますよね。
ヒトラーや麻原より悪い人はいるのですかね。
邪悪の塊のようなトランプはA級犯罪の枠組にも入れず、
歴史の汚点として残るかな。
何となく書いてみました。
答えになってませんが。
少なくても、仏陀はどのような既存の神とされる存在に否定的でなかったように表れていましたね。
観るのに観苦しい(インドの文化など)ドラマでしたが、
仏陀が生きていた時代はどうであったかについては分かりました。
仏教歴史は一つなのに、繋がれた過程で意見が分々しますね。
こんな旅行が楽しみでもありますが、まだ3次元の世界で、自分に出来ることでやり残しているものがないか?あちらへ行ってから後悔しないように考えていますが、そりゃあ、無理でしょうな・・・。やり残しばっかりでしょう・・・。
宇宙の善意なのか、たまたまそうなのか、動物の中で唯一人間だけに「安心」が用意されているのです。最も壊れやすい存在であるがゆえに、壊れやすいモラリストという悲劇性ゆえに、その安心を発見することができるという大逆転劇が起き得るのです。
ごくごく簡単に言いますと、人は地面の底の底まで否定されて死ぬことがあっても、そこから地獄に転生するとしても、「からっぽ」に善を隠しておくことができるということです。「初めから自分も誰も存在しない、絶対に見つからない事実」が「からっぽ」です。この場合の「善」がなんであるかをわざわざ問いたくなったら「全て」と言い換えるのが賢明です。地獄に落ちるというのならば当然輪廻も続きます。いつかまた人間相当の生まれを得たら「からっぽ」から善を取り出すことができるのです。ブッダが「私は善なるものを求めて出家した…」と言うその善を、宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」で「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです」と書いて表現するしかありませんでした。「もしもピアノが弾けたなら」の、救いのない、しかし浮き沈みしながら流れている善の希求…です。人は自分が安っぽい根拠など求めていないことを「知っているはず」なのです。
酷い感染拡大と伝わってきていてとっても心配です><
日本ではだいぶ落ち着いては来ているのですが、まだまだ安心できません。
早く終息するように祈っています。
突然ですが、自分は英語の「テスト」を作りたいと考えているのですが、
もしよければ、ブログの英文、日本文を「テスト」の題材として利用させて頂ければ、幸いです。
お返事お待ちしております。
メールアドレスは以下になります、メールでなくともコメントで結構でございます。teacher34653@yahoo.co.jp
おはようございます。
日本は、現在朝です。
この度は、私のblogを読んで下さり、足跡を残してくださりありがとうございました。
更には、フォローして下さりありがとうございました。
貴方様のblog、ゆっくりと最近の記事2本と、コメント欄を読ませて頂きました。
特に、死の捉え方が
私のこれまでの人生で自分が考えてきたことと照らし合わせても
非常に穏やかな語り口の中に、“気付かされる”“ハッとする”ことが多く、なるほどと府に落ちました。
恐れながら、私もフォローさせてください。
今後も、以前のblog記事を読ませて頂きつつ、新しい記事を楽しみにしています。
今日が、素晴らしい、一生に一度のかけがえのない希望の1日でありますように。
2020年05月28日朝
感謝をこめて
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