身体には経脈として左右に各12本の正経と正中線上に2本の奇経(任脈と督脈)が張り巡らされ、その上には左右に各308の経穴と正中線上に52穴が存在するとされています。
経穴の存在はヒポクラテス(BC460~377年頃)も認識しており、また古代インドのススルタ医学の中でもマルマ(Marma)という名で認識されています。臨床の中でも経穴に治療を施すことで、身体の痛みがなくなるとか、動かなかった身体が動くようになるなどというように、日々その存在を実感します。
古来、経穴に関する文献上の情報はだいたい決まっています。それは
1、身体のどこにあるか
2、どんな症状、病気に効くか
3、鍼や灸が可能であるか、可能であればどのような手技を施すか
4、どのような性質を持つか(これに関しては『医心方』(註1)にあるように一昔前の日本ではよく無視されました)
最古の経穴に関する情報は『明堂孔穴鍼灸治要』 (『明堂』)に記されていたとされていますが、三国時代頃には、その文献は失われてしまい、現在では写本の一部が残されているだけです。しかし『黄帝三部鍼灸甲乙経』(註2)に抜粋されているため、その内容を知ることができます。
ちなみに経絡は『黄帝内経霊枢』(鍼経)の経脈篇、経穴は『明堂』が完成した後は約二千年の間に大きな変化はありませんでした。その間、多くの経絡経穴に関する文献が著されましたが、ほとんどは編集し直しただけのものです。
「経脈とは何か」と言うと、それは時代と人々によりその定義は異なります。しかし元々は血気の流れる身体の器官、今でいう所の血管(脉管)を指していたようです。それ故か『素問』の中では刺絡(瀉血)という血を出す治療法が目立ちます。(註3)
とするとその当時、経脈というものは解剖学的な用語であり、人に必ず(健康状態に関わらず)存在していたものになります。
しかし経穴(ツボ)はどうでしょうか。上の経絡図にあるようにどんな人にも同じように経穴が存在するのでしょうか。
つづく
(註1)『医心方』: 平安時代に丹波康頼(912-995年)により編集された日本に残された最古の医学書です。
(註2)『黄帝三部鍼灸甲乙経』: 皇甫謐(215-282年頃)が医学書である『素問』、『鍼経』(『霊枢』)、『明堂孔穴鍼灸治要』 を項目ごとに分類し編集したと言われています。
(註3)
「経脈は血気を行らせ陰陽を営し、筋骨を濡し、関節を利する所以の者なり」(『黄帝内経霊枢』本蔵)
「夫れ人の常数、太陽(足太陽膀胱経)は常に血多く気少なし…凡そ病を治するに必ず先ず其の血を去りて、乃ち其の苦しむ所を去る…」(『黄帝内経素問』血気形志篇)
(ムガク)
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