前回のエッセーをまとめます。
「経穴(ツボ)は病気の治癒や症状の改善により、はじめて経穴であると定義される」
と言えますが、量子論的表現では以下のようになります。
「病気の治癒や症状の改善を観測すると同時に経穴の波動関数が収束する」
そこから経絡図は架空の存在であることが導かれました。
さて量子論でも観測の問題があるように医療の中でもそれは同じようにあります。純粋に病に苦しんでいる、何の偏見も持たない人であれば自覚症状が改善したか否かを判断することはあまり問題にはなりません。
しかし医療者や研究者がそれを認識する時にはやや問題が生じます。
ウィリアム・ジェームス(1842-1910年)(註1)は学問の愛好者と職業的な学者との相違を定義しました。それは、前者は得られた結果にとくに関心を持つが、後者は結果を得る方法に関心を持つ、と。
おなじ現象に直面しても関心を向ける先は一つではありません。とくに医療者は良くなった症状や治療方法に注目しやすいものですし、医学研究者は試験方法に関心を向けます。また職業的な学者もいくつかタイプがあるようです。寺田寅彦(1878-1935年)はそれを3種類に分けました。
甲種の科学者、目の前の現象が自分の知っている理論で説明できないと頭から否定しかかる。
乙種の科学者、目の前の現象を簡単には片付けないが、用心深く格別の興味を示さない。
丙種の科学者、目の前の現象に好奇的興味を感じ、何かしらの新しい大きな発見の可能性を予想していろいろ想像をめぐらし、何かしら独創的な研究の端緒をその中に物色しようとする。
きっと独創的な鍼灸医学が生まれるには丙種の科学者が関与していたのでしょうね。古代中国の鍼灸医学にしても現代医学にしても、医療と学問のバランスをとることは重要な問題です。
人には感覚しようとするもの以外は感覚できないという性質があります(見たくないものが見えて嫌な思いをするのは感情の問題です)。そして幻肢があるように、感覚しているものが、実際に存在しているとは限りません。そこにはフッサール(1859-1938年)の言う「原信憑(ウアドクサ)」が存在しています。
観測者が、例えば唯物論哲学の信仰を持っていると、精神に関係する病や症状の観測に困難が生じます。病気の治癒や症状の改善をどのように観測(判別、認識)するのかは真面目に考えると大変ですね。
今回のエッセーも(いつものことですが)少し脱線してしまいました。
つづく
(註1)ウィリアム・ジェームス(1842-1910年): アメリカの哲学者であり心理学者です。西田幾多郎(1870-1945年)の『善の研究』における哲学的展開に影響を与えました。
(ムガク)
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