経脈と経穴はどちらが先に発見されたのでしょうか。
仁和寺から発見された最古の経穴書『黄帝内経明堂』にある経穴は経脈ごとに記載されています。しかしその記載方法の理由は、経脈の上にツボを発見していった過程をもつためか、ツボの共通する働きごとに分類してそのカテゴリに経脈の名前をつけたためか、それとも他の理由のためか、今となっては明らかではありません。
しかし残された文献と現象の観察から推測することは可能です。
まず言えることは、経脈が血管であった時代において、経脈を発見することには経穴の存在を必要としていません。言い換えれば後者は前者の必要条件ではありません。血管を認識することにはどんな医学的知識も不必要であり、必要なことは人や生物の観察です。
古代中国では食料としてさまざまな動物がありましたが、人肉も食料となることがありました。それらの調理、解体作業において必ず血管が認識されます。
また春秋、戦国時代は戦争の時代であり、数えきれないほどの戦争が常に存在し、一つの戦いで幾千万の尊い命が失われることもざらでした。戦闘で腕や足、頭が切り落とされると、必ず血液が噴出します。戦国時代には四肢を止血をして助ける技術があり、また宦官になるため睾丸を切除する技術(精管動脈などの止血)も存在しました。
痩せている人では(健康な人でも)皮膚の上から血管の分布や流れ、拍動を容易に観察することも可能です。
次に言えることは、ツボを発見することには経脈の存在を必要としていません。
現在でも奇穴とか阿是穴という経脈上にないツボが次々に発見されています。特に日本では、ツボと経脈を切り離して捉えるのが『医心方』からの伝統です。もちろん経脈を重視する流派も存在しますが、「ここのツボはこの症状に効く」という言い方は一般に受け入れられ易いものです。
また何の医学的知識を持たない人も、身体のどこかが痛くなった時に手で揉んだり押さえたりして痛みを緩和させます。これは生まれて数年の子供もやっていることです。(参照:No.41 幼児の口内炎)
経脈と経穴が発見されるにあたってお互いを必要条件としないのであれば、それぞれが独立に発見されたと考えるのが妥当です。そこに先後関係はあるかもしれませんが、因果関係はなさそうです。
それぞれが独立に存在したのであれば、いつお互いに結びついたのでしょうか。
それは医療が呪術的なものから経験科学的なものに移行する時代、おそらくは諸子百家の出現する戦国時代においてです。その時代に人々が「なぜそのツボが効くのか」という理由を求め、かつそれが神秘的、超自然的なものではなく、より合理的なものである欲求を持ったのです。
つまり経脈(血管)は経穴(ツボ)の効果を説明するために利用されたという可能性があります。
これは「ツボが効くのは神経や血管を刺激するからである」というような現代の思考方法とまったく同じです。しかしこの経絡と経穴の結びつきにより、ツボの効果に対してさらなる注意が払われるようになり、鍼灸医学が発展したのでしょう。
次回につづく
(ムガク)
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