第百三十一段
(原文)
貧しき者は、財をもって礼とし、老いたる者は、力をもって礼とす。己が分を知りて、及ばざる時は速かに止むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて励むは、己れが誤りなり。
貧しくして分を知らざれば盗み、力衰へて分を知らざれば病を受く。
○
『徒然草』には礼儀に関することがらが多くでてきます。
前々回、「017―第百三十六段・(塩・鹽・鹹)―」の和気篤成は後宇多法皇に無礼をはたらき、咎められていましたね。
現代でも同様ですが、礼儀作法は人間の社会、特に宮中、兼好法師のいた階級社会の中ではとても重要なものでした。
礼の基本は、常に敬を忘れず、行為が正当であり、発言が理に適っていることです。
その礼の重要性を知っていたとしても、それを理解していなければ、罪を犯したり、病気になってしまうのです。礼を理解することは病気の予防にもつながります。
「貧しき者は、財をもって礼とし、老いたる者は、力をもって礼とす」というのは、『礼記』の「曲礼上」にある「貧者は、貨財を以って礼と為さず。老者は、筋力を以って礼と為さず」が由来です。
自分に不足しているものを、無理に相手に差し出すことは、礼ではないのです。
礼は機械的なルールではありません。孟子が「仁に非ざれば為すこと無し、礼に非ざれば行なうこと無し」と言ったように、仁なき礼は、礼にあらず、と言って良いでしょう。今風に言えば、思いやりのないマナーは、マナーではありません。
目の前の人に対する仁だけでなく、その他の人、自分の心身、生み育ててくれた親に対する仁、孝にも配慮する必要があります。
その上で、「己が分を知」らねばなりません。「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」です。できないことを無理してやらないこと。
『易経』「蹇彖」に「険を見て能く止まる、智なる哉」とあるように、「及ばざる時は速かに止む」、それが、「智といふべし」なのです。
しかし、人間はだれもが間違いをおかすことがあります。もし、己が分をこえてしまったら、どうすればよいのでしょう。
反省し、その経験を次に生かせばよいのです。
「過ちを改めざる、是れを過ちと謂う」と孔子が言ったように、一度の誤りは、本当の誤りではないのですから。ゲーテは「人間の過ちこそ人間を本当に愛すべきものにする」と謂いました。間違ってもいいのです。
ここでは、礼の心、そして己が分を知ることが、犯罪や病気の予防となることが述べられていました。
(ムガク)
『徒然草』 慶長・元和年間
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