第百四十九段
鹿茸を鼻に当てて嗅ぐべからず。小さき虫ありて、鼻より入りて、脳を食むと言へり。
○
怖いですね。脳を食べる虫の話です。絶対にこの「鹿茸を鼻に当てて嗅」ぎたくないですよね。この鹿茸とは何でしょう。
ふつうに思い浮かべるのはキノコでしょう。鹿茸(シシタケ)は昔から日本では食用とされており、元禄時代の食材辞典、平野必大が著した『本朝食鑑』にも収載されています。この書では食材ごとにきちんと分類されており、鹿茸は松茸(マツタケ)や初茸(ハツタケ)、椎茸(シイタケ)、平茸(ヒラタケ)などと並ぶ、代表的なキノコとして扱われています。
でも、キノコだから虫が湧きやすいとは言え、脳を食べる虫については知られていません。もっとも、有毒なキノコであれば、幻覚や幻聴、意識不明に陥った時に、その原因を小さな虫のせいにして、脳を食べられたからだ、と説明することもできますが、この鹿茸(シシタケ)は「本邦、毎に之を食して毒に当たらず、復た未だ病を治する者を聞かざる」と『本朝食鑑』にも書いてあるように、無毒なキノコです。ではどういうことでしょう。
鹿茸にはもう一つあり、それは生薬として使われる鹿の幼角です。鹿の角は二月から四月にかけて脱落し、四月頃に幼角(袋角)が新生し、成長します。古来、鹿茸(ロクジョウ)は強壮薬、強精薬として用いられてきました。
中国の薬学書、明代の李時珍による『本草綱目』には、「鹿茸は鼻を以て之を嗅ぐべからず。中に小白虫有りて、之を視れども見えず。人の鼻に入りて必ず虫顙(チュウソウ)を為す。薬は及ばざるなり」とあります。
なので、兼好法師の言った鹿茸とは『本草綱目』(本当はもっと前の時代、宋代の唐愼微による『經史證類大觀本草』)の記載が由来であり、キノコではなく鹿の角を意味します。この鹿茸は、(乾燥させたものは)硬いわりにスポンジのように穴がたくさんあります。生薬は保存の状態によって虫が湧くので、この穴の中に湧いた虫が脳を食べるのでしょうか。実はこれもちょっと違うのです。
『本草綱目』にある「虫顙」は、西晋代(三国時代の少し後)、葛洪による『肘後備急方』の「治牛馬六畜水穀疫癘諸病方第七十三」に出てくる言葉であり、これは家畜伝染病の一種なのです。
蟲顙、馬鼻沫出し、梁腫起きるは、治すべからざるなり。驢馬、脬し轉せば死せんと欲す。
とあり、これに感染した家畜は鼻などから体液が流れ出て、排尿が増え、寝転がって死に向かいます。つまりこれは感染性海綿状脳症(TSE)の一種であり、この場合は鹿についてなので、慢性消耗病(CWD)と考えてもよいかもしれません。
慢性消耗病の原因は虫でも細菌でもウイルスでもありません。現在、その原因はプリオンタンパク質という説がありますが、「之を視れども見えず」、肉眼で見ることはできません。
「脳を食む」とありますが、当時の脳と現在の脳は同じでしょうか。少し違います。この頃の脳は以下のようなものです。
人が生れるには精というものが必要である。この精が生成すると脳髄が生れる。*1 内臓(五臓六腑)も脳髄のおかげで、その役割を果たす。*2 涙や鼻水などは陰に属し、体液をつかさどる脳髄が作っている。*3 また脳の機能が低下すると、耳鳴り、四肢の運動低下、めまい、何もないのに、だるくて寝てばかりいるようになる、と考えられていました。*4
これが、当時の脳に対するイメージですが、兼好法師、あるいは彼にそれを教えた人は、「虫顙」による症状が脳の症状であるという、当時の正しい医学的知識をもっていたのです。それ故、「虫顙を為す」と言う『本草綱目』の記述を、「脳を食む」に翻訳したのでした。
「脳を食む」の「脳」はもともとは家畜、牛や馬、鹿などの脳のことでした。しかし、それが人の脳にも伝染するかもしれない、と不安に思う気持ちは今も昔も同じです。
現在でもクロイツフェルト・ヤコブ病(Creutzfeldt-Jakob disease, CJD・狂牛病)があるように、慢性消耗病の人間への感染の可能性が示唆されています。汚染された食材・薬材については十分気を付けなければなりません。
その一方で汚染されていないもの、安全なものについては、過度に心配しすぎないように十分気を付けなければなりません。
心配しすぎると、せっかくの美味しい牛肉も味が落ちてしまうし、治療に必要な鹿茸も使いづらくなってしまいますから。
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる (皇太后宮大夫俊成)
つづく
(ムガク)
*1:『黄帝内経霊枢』「經脈篇」「人の始めて生れるや、先ず精が成り、精は成って脳髄が生れる」
*2:『黄帝内経素問』「五蔵別論」「脳髄を以て臓を為す」
*3:『黄帝内経素問』「解精微論」「泣涕は脳なり。脳は陰なり。髓は骨の充なり。故に脳は滲じて涕す」
*4:『黄帝内経霊枢』「海論」「脳は髓の海を為す。…髓海が不足すれば、則ち脳は転じて耳鳴し、脛痠し眩冒す。目する所見無く懈怠し安臥す
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