現代にまで語り継がれてきた「人面瘡」、怪談・奇談の一種として知られています。江戸前期の作家、浅井了意(1612-1691年)の『伽婢子』に記されてから、様々な小説、漫画などに取り上げられてきました。この人面瘡、どのようなものだったのか。それは身体の一部にできた人の顔そっくりのデキモノであり、物を食べたり酒を飲んだりして、その人を死に追いやるほど苦しめます。『伽婢子』ではある農民の足に人面瘡ができて死ぬところを、旅の僧が「金、石、土をはじめて、草木にいたりて、一種づつ瘡の口に」入れ、「貝母を粉にして、瘡の口ををし開き、葦の筒をもつて吹き入」れると、十七日後にその人面瘡は消えました。
この貝母とは、ユリ科アミガサユリ属に属する植物の鱗茎のことであり、貝原益軒(1630-1714年)は『大倭本艸』の中で、「結気を散じ、煩熱を除き、心肺を潤し、所以に嗽を治し、痰を消す」と言っています。これは当時の中国でも癰瘍や瘰癧などによく使われていた生薬でした。
さて実際に人面瘡のような、奇妙な病はあったのか。実は当時の外科に関する医学書にそれについて記載されています。それは林子伯の『錦嚢外療秘録』(明和九年出版)ですが、少し引用してみましょう。
九十四 人面瘡
人面瘡、古有りと言ふ。近世罕(まれ)なり。此三陽の湿熱、患いを成す。膝上に生じて、人面に似たり。
荊防排毒散 貝母を倍して、之を治す。方は十七に見たり。太乙膏之を治す方は一に見たり。
明和九年は西暦1772年なので、林子伯は浅井了意よりも数世代後の人。江戸中期には人面瘡はまれであったことが分かります。三陽、身体の太陽、陽明、少陽という陽部の湿熱が発症の要因です(と子伯は言っています)。
荊防排毒散は「諸瘡疥癬便毒下疳を治す」薬のことで、荊芥、防風、羌活、獨活、柴胡、前胡、薄荷、連翹、枳殻、桔梗、川芎、茯苓、金銀花、甘草、沢瀉に生姜や燈心などを入れて作りますが、配合は結構適当です。症状によって同じ名前でも生薬の配合はかなり変わります。旅の僧が使った様々な生薬はもしかしたら、この荊防敗毒散の一種のことだったかもしれませんね。やはり貝母が、倍量使っているように、重要な役割を担っていますが、はたして実際に効果があったのでしょうか。
ちなみに太乙膏は軟膏の名前で、肉桂、白芷、当帰、玄参、赤芍、生地黄、大黄、木鼈子、阿魏、軽粉、槐枝、柳枝、血餘、黄丹、乳香、没薬、麻油などから作られています。現在でも薬局で売ってますね。
(つづく)
(ムガク)