散歩道 - いつもと違う角を曲がればそれは新たな発見の始まり♪♪

休日には趣味の園藝と散歩で楽しみ♪
時々・・・自分の病気や障害の事でも・・・

自分史Part 9 ≪糖尿病と向き合って≫

2010年08月21日 20時58分15秒 | 自分史
写真:今日の1枚から「桜の木にとまるおんぶバッタ(Atractomorpha lata )」

このBlogのタイトルにもなっている「NIDDM」はお友達!!!!」・・・
2004年の晩秋に発覚して以来、病気と正面から向き合って、生活してきました。血糖を上げる唯一の食べ物「炭水化物(糖質)」を食べなければ、血糖は、健常な数値で安定することは周知の事実ですが、実践するのは非常に難しいのも事実。

食にかかる欲は、人にとって最大級の欲望で、渇望するのは炭水化物主体のご飯を含む主食やおいしいもの。基本的に食べられないものはありません。なんでも食べられます。ただし、適切な量を。。。なんて言われても、食べ始めると歯止めがききませぬ…

定年退職後の将来には、糖質を食さないようにするとしても、今は、炭水化物と折り合いをつけて食べることを楽しむようにしています。なんせ、日々、炭水化物を抜く生活となると、安月給の私にはもろに家計に響きます。。。なんといってもお米は家計にやさしいです。

当初、飛び込んだ病院の先生に、様々な検査を受けさせられた結果の話として、この病気は悪くなることはあっても、よくなることは一切ない。年をとればとるほど、血糖値は高くなる。今(当時)のインスリンの出量から将来的にはインスリン自己注生活が必須かもしれないと言われました。

入院時は、4単位のインスリンを三食前に打っていました。だから、インスリンを打つことにこだわりはありません。かかりつけの病院の先生に以前相談したけど、今の数値では、処方できないって・・・

病気と向き合うために何をしてきたか・・≪自分を知る≫

・2004年12月~2006年かな? 約2年間、それ以上だっけか・・・忘れた。
食事の記録をつけました。毎食後の血糖値、体調の変化によっては、随時血糖値も測り・・・
記録しました。。。血圧、体重、体脂肪率も・・・

ただ、血糖値は自分では、測ることが出来ないので、奥方に手伝ってもらって・・・

どんなものを食べれば血糖値があがるのか、食べ物の組み合わせでどう変化するのか・・・
個人的に、血糖値に天敵な食べ物、血糖値に相性のよい食べ物等、大まかなことがわかりました。 また、曖昧にもカロリー計算がおおまかにも目算出来るようになりました。 

が・・・しかしながら、思っていた事より違うことも多く頻発し、結局、血糖上昇を抑える事に無理があることもわかりました。。。固執すると確実に血糖は上がります。自然体で生活すると案外よさげな数値が出ることもわかりました。 血糖って、生き物なんですね。

結果的には、HbA1Cを6%程度で、生活するための基本的な仕組みがわかったように思います。その後は、徐々に、三食から炭水化物の食べる量を減らしてきましたが、血糖値上下に大きな変化は見られませんでした。炭水化物を少々減らすだけでは効果は現れませんね。

現在、朝食で、ご飯(白米+発芽玄米)を100g、昼食で、75g程度に抑えていますが、発病当初1年は、食事療法の基本(炭水化物が60%)、1日に、ご飯を525g食べていました。でもね、その頃とそんなに血糖値に大きな変化がないのは何故でしょうかね? 

おかずについては、特にこだわりも無く、市販のおかず類も、味付けに砂糖を使っているものも、ある程度目をつぶり、美味しく食べています。

ただ、ジャガイモ・サトイモ・サツマイモを含む、フライ系の小麦粉まぶれのたべものは基本的に避け、自分ちで作る場合は、醤油、胡椒、唐辛子、天然だし、バター以外の調味料は使いません。時々、ラカントやパルスィートは使いますが・・・

しかしながら、休日にはデザートを食べているので、平日に炭水化物を減らしても意味がないのかもしれません。 この辺に、将来的な課題が見え隠れしているような気もします・・・でも、現在の生活に満足しているので、新たな探究心が生まれてこない・・・

休日に食べるスイーツなデザートは、大体250~350Kcalだと思います。スタンスとして、休日は散歩やら、ぶら~りとデジカメ片手に趣味の散歩に良く出かけるので、相乗効果もあるかなと・・・

まだまだ、追求してみたいネタは満載なんだけど、現在、自己血糖測定を完全にやめ、適当に炭水化物を食べることに大満足しているので、これ以上のことをやる意欲がわいてこない・・・

まぁ~! 究極的にはHbA1Cを5.8%以下にすることを探求したいと思っているけど、6%台前半でも良いか。・・・それが現実のようです。

現在の目標、60歳になるまで、今の%を維持する事・・・そろそろ、次なる目標を決め、実践しないと駄目になるかなぁ?!

この病気(糖尿病)は自分を知ることから始まる・・・この5年で思ったことです。自分を知れば、自分がわかれば、自分の持つ食への欲望の大きさがわかれば、それに向き合えばよい。

付き合い方は千差万別だけどね。 その中で、面白そうなのを実践すればよし・・・
そんな思いのする今日この頃です。

60歳を過ぎて、当初の2年記録していた何十冊とあるノートを改めて読むことがあるのでしょうか?・・・迷いがあれば、それを見て、自分を知る上での原点に戻れるのでしょうか?

「休日といえば甘味処♪」に続く…

天気:晴れ
気温:最低温度:24.4℃ / 最高温度:33.4℃
今日の歩数:20616歩 / 消費カロリー:598.0Kcal
歩行距離:約13.40km

★自分史 Part8 ≪2010年8月4日-会社を去る日≫

2010年08月04日 20時12分28秒 | 自分史
写真:今日の散歩から一枚「ブットレアに止まって蜜を吸うモンシロチョウ」

自分史7で投稿したように、7/30日で会社に行くのをやめたけど、実際の退職日は本日、2010年8月4日です。今日付けの退職になりますので、今日まではお給料をもらえます。あれ!昨日までかな。

繰り返しになりますが、金融界のこの30年は、ほんまに激動の30年。同様に、振り返って見ると私の人生も同様に悲喜交々な30年で、私の職場人生もどん底から這い上がったと思ったら奈落の底へ、また、這い上がる・・・の繰り返し、喜怒哀楽を十分に味わった人生でもありました。

転職し、勤め切って22年、この間に、自分的にはやりたいことはほとんどやり尽くし、勤めていた小さな金融会社も徐々に変革し、大きくなりました。

人情を伴わない合理的な考えをすれば、社員個人々は会社が利益を上げ続ける為の大きな歯車の一歯にしかなりえません。

当然、長年回り続けていると疲弊し、摩耗し、いずれ、鋭い歯は欠けてしまいます。

そうすると何をするか・・・歯の交換ですね。コストをかけて新しい歯に交換します。

ちょうど、現在の私が22年を経て、完全にやり尽くして疲弊し、摩耗し、肉体的にも精神的にも体はボロボロ・・・交換(退社)時期となったのでした。

まぁ??!金融の世界で通算勤続年数が30年も続くと、体も精神もガタガタになるわな。

30年のうち、20年近くは1日に12時間以上は、会社にいたような気もするし・・・そして、本日、会社在籍22年の歴史に幕が閉じました。

明日は、朝一番で会社に行き、「退職証明証」を受けとり、その足で市役所に行き、国民健康保険証の交付を受ける予定。また、できれば、国民年金加盟の手続きを取ろうと思います。

その後は、会社から離職届(?)が自宅に届けば、ハロハロさん詣で開始の予定・・・

当面は、休む暇なく動かされるようです・・・。
その後は…天に運を任せ、ぷー太郎人生の奥義を極めたいと思います。 

今更、将来の事を考えてもと思いつつも、心の中では、私の行く先の不安がじわじわと押し寄せて来るような感じ。。。私に未来はあるのでしょうか? なるようになるしかない。。。自分の道は自分でを切り開くしかないんですよね。。。

でも、自分で言うのもなんですが、将来の不安は大きいけど、なんとなく悲壮感が漂ってこないんですよ。悲惨な気持ちにならないなんて・・・なんでだろう。先日も思って、投稿したけど、ひとつは、やることはやりつくした(やり終えた)充実感 or 達成感でしょうかね?

それとも、楽天的な性格によるものでしょうか・・・現実的には、年金が出る65歳まで働く必要があるのに・・・時が経てば、徐々に実感して来るのかな?

後は、思い描いた将来の夢を、今日の退職で、どう立て直し、夢に向けて歩くか? まだまだ、課題や問題は多いようです。でも、やりがいがあるかも。性格的にも目の前に山があればOK…

天気:晴れ
気温:最低温度:26.1℃ / 最高温度:33.6℃
今日の歩数:21559歩 / 消費カロリー:577.0Kcal
歩行距離:約14.0km

自分史Part 7 第三の人生が終了して、第四の人生がスタート

2010年07月30日 21時47分09秒 | 自分史
暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか?

本日第三の人生が閉じられ、明日からは第四の人生へ向けての体力作りのスタートです。

気がつくと金融の世界に飛び込んで、30年が経っていました。
この30年は、自分史でも触れたように金融界は激動の30年でもあり、そこで働く人達、全員が金融という大海に投げ出され、泳がされたのではないでしょうか?

そして、振り返ってみるとすべてを使い果たして、よれよれ状態。一旦、身を引いて立て直し、再出発です。

最後の日を迎えるまで、眠れぬ日々を過すかなと思っていたけど、案外熟睡していました。会社からのストレスを受けなくて済む解放感が、今後の生活不安より打ち勝ったのでしょうか?

そして、今日は、私を育ててくれた会社のたくさんの仲間から見送られ、本当に幸せで感謝しております。





天気:晴れ一時雨
気温:最低温度:23.6℃ / 最高温度:29.8℃
今日の歩数:13925歩 / 消費カロリー:321Kcal
歩行距離:約9.0km

自分史Part 6 ≪挫折気味だけど【夢】の実現に向けて≫

2010年07月18日 20時42分10秒 | 自分史
写真:国立大学通りにて「炎天下でお昼寝中のわんこ」
太陽カンカン照りで暑いのに根性犬ですわ・・・わんこって、体温調整がきかないのにねぇ♪

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今日もほんまに暑かったですね。。。家に閉じこもるのもなんなんで、今日もこの炎天下の中外出してしまいました。夏風邪も引いて喉がこそばゆく、鼻水が・・・体力の消耗が著しいです。
今日は甘味処と2本立てで行きます。

自分達夫婦の将来の夢に向けて、年金生活をする前に生活基盤をどこに置き、どう固めるか!
私たち夫婦の重要なテーマのひとつになっています。 基盤が固まれば全てが決まる。夢が広がります。

これまでもBlogに色んな形で夢を投稿してきましたが・・・
改めて二人の思いをまとめると。。。ほとんどが過去の投稿と重複します。まっ!良いか。

実家を離れ、約30数年経つ私と実家を離れ約17年の奥方・・・
現在、二人は、今住んでいる住居をベースに、生活や趣味やサークル活動が根付いております。

私個人は、この30数年、ほとんど、実家に戻っていないこともあり、実家周辺に友人はいません。その代わりに、仕事仲間を含め、学生時代の友人から園芸の仲間まで現在の住居を中心に付き合いが圧倒的に多いです。

奥方は、こちらの学校の会に所属し、会計を任され、市のパソコンの会に参加し、講師&アシスタントで活動しています。彼女の場合も、どちらかと言えば、関東のほうが友人は多いような気がしますし、現在の住居を中心に付き合いが多いです。

二人が二人して、現在の住居を中心に活動しているにも係わらず、引退後の生活拠点をどこにするか・・・重要なテーマなのです。今の家では、生活の場ではあるけど、永住(終の棲家)する場ではないと思っています。庭も極端に狭すぎて、自分たちの夢は実現できません。最終的には夢に向けて、終の棲家を見つけることになります。

各々の趣味が生かせて、各々が個々にのんびりと活動できる場所。お金がかからずに、ゆったりと時間が流れる空間で生活できる場所。そんな場所に住みたいと思ってきました。そのための準備は少しずつしてきました。 この病気になってこそ、生まれた理想郷・・・あとは、場所だけ決まれば。。。

先日投稿したBlogにも書きましたが、求める終の棲家とは・・・

1.近場にスーパーがあり、普通に買い物できること。
2.病院まで、不自由なく交通の便があること。
3.家を除いて、家庭菜園&園芸用に100坪以上の土地があること。。。

これが私たち夫婦の最低限の要望です。特に「3」の要望は必須項目なのです。そんな場所を探し始めました。関東近辺で100坪以上と言っただけで、目ん玉が飛び出る値段なので、近場では絶対に無理。。。.私たちの現在の活動が継続的に行えるのも条件の一つ。場所が難しいですね。

どこかで妥協するしかないのかな。何かを犠牲にして。。。

さて、次の一手は・・・

天気:晴れ
気温:最低温度:23.4℃ / 最高温度:32.5℃
今日の歩数:24248歩 / 消費カロリー:634.0Kcal
歩行距離:約15.76km

自分史 Part5 - 趣味の園芸

2010年07月14日 21時26分38秒 | 自分史
写真:大通りの道路端にて「木立朝鮮朝顔」

今日の早朝は気温も20℃を下回り、肌寒かったですね。でも、日中の暑さは異常かも…
体調がついて行きませぬ…

趣味の園芸についても過去に何回か取り上げたので重複しますが、まっ!よいか…
自分史 Part5 - 「趣味の園芸」編です。


私が園芸に目覚めたのは小学生の頃、実家の庭の片隅に植えた三色スミレ、日本水仙、サフランがスタートだったような気がします。三色スミレはともかくも日本水仙&サフランは今でも元気に育っているようです。でも、この前帰ったときに、庭の一角の日本水仙群の葉がモザイク状になっていたので、たぶん、ウィルスに感染したのかもしれません。植えっぱなしで40年も経てば、そうなるのでしょうね。一応、掘り上げて処分したけど。。。その場所は今、クリスマスローズが植えられています。。。

小学生の頃は裏山から、発芽したばかりの苗を片っ端から持ちこんで植える日々だったような気が・・・樹木が多かったけど、セリやツワブキやアケビなんてものも・・・今で言う山採りでしょうか? 記憶は既に忘却の彼方へ。。。でも、何故か中学から高校時代は園芸のことは忘れ去っていました。。。

本格的に再度目覚めたのは、結婚当初の1993年頃でしょうか?それまでは、社会人になって、ぼちぼちとやっていましたが、趣味はと言われれば、川魚、金魚、メダカや熱帯魚でした・・・(爆)

結婚を機に玄関に飾るために買ったシャコバサボテンが趣味の園芸の再出発だったような気がします・・・(遠い記憶・・・)。 今も老齢になり茎が木質化していますが元気です。当時、もう一つ、結婚当初住んだ国分寺本町の近くにあった「OKストアー」の園芸コーナーで、売れ残りで投売りされていた「君子蘭」を買った事が、改めて、園芸に目覚めさせたたのでしょうかね。これまた、現在、元気です。10号の大鉢で腰痛の元です。

その後、結婚式でもらった胡蝶蘭、やはり、OKで、投げ売りされていたデンドロデューム、シンビジウムを購入したことが、洋蘭の世界に導かれたきっかけでした。 熱中しやすい私は、六畳の居間に洋蘭用室内温室を2セット置き、洋ラン/和蘭の世界に熱中、金食い虫の世界が待っていました。

その後、1998年頃からインターネットで展開していた最大の園芸コミュニティGreen Town「園芸メーリングリスト/Green Life」…etc に参加した事が、更に園芸にのめり込んで行った大きな理由かも知れません。主催者はなんと北海道大学の教授でした。

比較的個人的な趣味で行っていた園芸も、Green Townに参加する事によって、飛躍的に園芸仲間、また、師匠が増え、植物を数多く育て、枯らし、知識が増大していきました。その時、教えていただいた言葉が・・・悪魔の標語です。これは、今まで、買い逃してしまう事も多く、なるほどなと実践しました。。。はい!園芸は金喰虫です…(爆)

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迷ったら買え。逃したら次はない。金が無ければ売約を。
買わなければ枯らすこともできない。
「買うは一時の後悔、買わぬは一生の後悔。」
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園芸世界は枯らして何ぼの世界!・・・ 枯らせば枯らすほど、育成のノウハウが身につく(枯らした数が知識の宝庫)・・・ほんまに、奥が深いですわ・・・

私の園芸履歴は、君子蘭・洋蘭/和蘭?>園芸全般?>多肉植物の世界?>山野草(キンポウゲ科の仲間・カンアオイ・天南星の仲間、チゴユリの仲間、小型ギボウシ、原種水仙、イカリソウ、サクラソウ、原種シクラメン等)・熱帯植物の世界?>そして、2000年頃からクリスマスローズの世界、山アジサイ、雪割草、キンポウゲ科の仲間、ムクゲ、ツバキの仲間、天南星の仲間に落ち着きつつあります。

まだまだありますが、何度か変遷を繰り返してきました。特にクリスマスローズは、2000年頃からかな。ネットを通じて知った園芸師匠から株を分けていただいた事から始まります。そして、その後、ヘレボルス倶楽部を主宰しているくりすさんに出会ったことで、飛躍してしまいました。出会ってしまったくりすさんが悪いのか・・・それとも、自分が悪いのか・・・

くりすさんは、その後、ネットの世界で、ヘレボルス倶楽部を立ち上げ、現在は、クリスマスローズ研究家として、活動しています。立ち上げたそのヘレボルス倶楽部も来年で10周年になります。メこの10年近くでメンバーも800人を越えようかと言う勢いです。インターネットの倶楽部で、800人は凄いですよね。

一時期は、くりすさんとつるんで、色んなところを駆け巡った事もありましたが、研究家として活動するくりすさんに影で応援しています。

その後、Ashwood Nurseriesから種を取り寄せたり、園芸仲間が直接Ashwood Nurseriesに行って、買い付け、持ち帰った株を譲ってもらったり、高杉種苗さん、野田園芸さん、横山園芸さん、花郷園等の株を購入したりして、交配三昧な日々。毎年、何百粒と言う種をまいていました。そして、蒔きすぎて、破綻・・・土地がほしいっす。。。

当時頂いたAshwood Nurseriesの株は交配親で活躍しましたが、今では普通の株になり、老が目立ち始めたので、役目を終え、世代交代してしまいました。

でもね。これらから育てた株は、2004年の病気で、植物から手が離れ、親株の大半を失ってしまいました。2004年頃に蒔いた種から発芽したポットがゴロゴロと・・・いまだに残っているんですけどね。ポット上げもせずに・・・(爆)

病気から立ち直った後は、趣味の範囲で、負担にならない程度に、交配、種まきを行って、自分の範疇で楽しんでいます。今までの蓄えがなくなり、ゼロからのスタートです。

園芸は、会社や色んなところで受けるストレスを発散してくれます。交配/種まきは大きな夢がもてます。 あきが来ません。頭も使います。当然、体も使います。園芸した後の血糖値は「秀」です。将来に渡って園芸を行うことは、この病気にとって、もってこいの趣味かも知れませんね。

ただ、ただ、土地が・・・・・欲しい・・・夢ですね。

最近では、クリスマスローズも、Ashwoodから仕入れる種は、以前に比べ、かなりの確率で、良い花が出現するようです。8粒で、£3.50*(円換算:£1.00=140円)=490円弱ですか!!! 種は、クレジットカードとメールidがあれば、比較的簡単に買えるから、試してもよいかもしてません。

海外からの種の導入・・・種まきフェチにはたまらない道楽かも・・・裏切られることも多いけどね。まず、新鮮さが命の種を海外から輸入する場合は、かなり、気をつける必要があります。変なところから輸入すると裏切られて発芽しません。特にキンポウゲ科の植物なんて特にそう。

高い代金を払って、発芽しないなんて。。。良くあるだけに恐いっす。でもね!最終的には、お金を肥やしにお店を選抜できる点がよいところかな。なんでも、試してガッテン・・・ですよね。

天気:晴れ一時曇り
気温:最低温度:19.6℃ / 最高温度:29.1℃
今日の歩数:17134歩 / 消費カロリー:389.0Kcal
歩行距離:約11.1 km

自分史Part 4 (親父を越えたい思い・・・♪)

2010年07月08日 21時18分56秒 | 自分史
写真:我が家の庭先から「飛び込みのネジバナ」

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ハンディーを持つと当たり前ですが両親は健常な子よりいろんなことを心配するわけですよ。子供が過保護になるのは親の常・・・その過保護になるのが嫌で、そこから脱却を目指し、ともかくも、地元から離れようと、東京の学校を目指して、入試を受け、入学し、独立を目指したのでした。

当時、その根底にあったのが親父さん。人望の厚かった親父さん。その親父を人間的に越えたいとの思いも大きかったです。

それで、高校を卒業して、東京の学校に入学した時は、さすがに両親も心配したのか、ハンディー者は、食事が大変と朝・夕食がつく下宿を捜し出し、当初はそこに住みました。三畳一間の賄い付きの下宿で、一般家庭のおばあさんが学生のために部屋を貸しているのでした。3畳ひと間の家賃は8000円なり・・・家からの仕送りは、40000円なり。。。不足分は奨学金+スマートボールで荒稼ぎ・・・(爆)

ちょうど、その下宿は、日野市程久保にありました。多摩動物公園の反対側の丘陵の上にある住宅街の一角でした。早朝は多摩動物公園の猛獣の鳴き声で目が覚める日々。目覚まし時計の要らない部屋でした。朝晩は下宿で食事、お昼は学食で食事。食事には悩まず、困りませんでした。

学校時代は、人間形成にはクラブ活動だと、授業を放棄し、文化団体が所属する文化団体連合会・文化会なるものに所属し、4年間クラブ活動に没頭。ここでは、様々な文科系クラブの部長さんとの交流が人間的に自分を成長させてもらいました。一升瓶を枕に寝たり、後、一歩で玄関・・・で、寝たりと思い出も深いです。

それでも学校も2年を過ぎると、やはり、思い出すのは自分の自立。・・・つまり、賄い付きの下宿から自活できるアパートへ・・・両親を説得して、移り住み、一つ一つ目標をクリアーしていきました。その時の家賃は2万数千円だっけか・・・わすれてもうた。
4.5畳、風呂付+「ガスコンロ1台設置の流し」でした。その時の仕送りは45000円だっけか…これまた忘れた。

学生時代が一番充実していたかもしれません。文化会活動では、ハンディーと言う言葉はどこかに吹っ飛んでいましたね。卒業後、会社に入社して、改めて思い出させてもらいましたが。。。

会社に入社後は、改めて思い出したのが東京に飛び出た理由「人間的に親父を越えたい」・・・
その壁を越える過程で、会社からの評価も得るだろうと・・・

最初の会社では評価の面では、部長以上の評価が上手く行きませんでしたが、それでも、課長に評価され、地道に遅れながらも出世はしていました。親父を越える人生の転換期は、やはり、黄金町駅横のおすし屋さんでしょうかね。

あれから、20数年かぁ?! いまは、親父を越えたのかなと思う自分がいます。反面、人格的には全く歯がたたず、越えられず。親父が立ちふさがる壁がでかすぎて、越えられないと思う自分がいます。多分、永遠に越えられない壁なのかも知れませんね。

まぁ?!片手ひとつで、中古ながら狭い敷地の一戸建ての家を持ち、これから10年、働き続けることが出来れば、最終的な自立も射程圏内。 夫婦で生活できる基盤を手に入れられるのかも知れません。人間的に親父を越えることは出来ないけど、社会人として、ハンディを持ちながら一定水準を保てれば・・・総合的には壁はやぶったのかなと思う自分がいます。

あと、残されたものは「人間的成長」だけかも知れません。。。

でもね。今後、10年働くのは無理っぽい。今、勤めている会社は、今後、数ヶ月の先が見えない現実が目の前にぶら下がっています。いつまで続くか・・・先は短い。次に求める職場は、背伸びせず、自分の本来の力で働ける環境の職場が良いけどね・・・ハンディ背負っていても雇ってくれるところ、ありませんかね。 不安定な環境はストレスと高血糖を生み出すのでなぁ?!ちょこっと、つらいかも。

天気:晴れ
気温:最低温度:22.3℃ / 最高温度:31.0℃
今日の歩数:20197歩 / 消費カロリー:451Kcal
歩行距離:約13.1km

自分史 Part 3-(2000年代-病気と将来の生活)

2010年06月27日 21時09分57秒 | 自分史
写真:今日の一枚から「これ♪何の花」

今日は、「自分史 Part2」に引き続き、Part3の2000年代でも…&休日と言えば甘味処♪の二部構成になっています。。。

2000年代は、2004年にこのBlogのタイトルとなった病気が発覚。それまでの2000年代前半は、団塊の世代のように企業戦士として、働き蜂のように切り捨てごめんの世界で、働いて来た時代。

家庭を顧みず(?)、家と会社との往復に明け暮れる日々でした。家庭に銭っこばかり落としていたのかな・・・でも、年収制だから、働いたほど給与が増えたわけではないけど~!

2000年代背景:何となく≪Part2≫とかぶさりますが・・・まっ!よいか!

2000年、それまで上昇気流に乗っていたITバブルが、崩壊し、更に、2001年9月11日に起きた同時多発テロで、アメリカの中枢「ワールドトレードセンター」が崩壊。そして、ブラック・.マンディーを上回る株価の下落。奈落の底に落ちるも底がまったく見えない金融不安・・・そして、2003年4月には日経平均株価が、当時バブル後の最安値の7607円をつけました。

思い返せば、1989年の大納会の12月29日に日経平均最高記録「38,915円87銭」をつけたので、その差は、約31,000円。。。凄い楽さですね。最高点の38000円で買ったものが。4年後には、7600円かぁ~! 4年で31000円・・・80%の損失。・・・・やっぱ、株式投資はある意味博打だな。

しかしながら、景気って、面白いもので、底を打てば、上がるのが常套。 徐々に回復しはじめ、最終的には、いざなみ景気として膨らんでいきました。このいざなみ景気は、でもね、いざなみ景気は、現在の不況の諸悪の根源なんですよね。

ただね!いざなみ景気がふくらんだのは、企業が行ったリストラです。人を切りまくって景気が生まれました。これは、働く人々の犠牲の上に成り立っています。 働き手の価値観も大きく様変わり、2002年から2007年にかけて、企業が正規雇用を抑え、非正規雇用を増大させていった結果なんですよね。

正規社員が48万人減少し、臨時雇用形態が281万人増え、「格差社会」や「ワーキングプア」等の言葉が誕生したんですよね。

そして、いざなみ景気が最高点に達したとき、またまた、冷やし玉が爆発。。。

そうです。2007年のサブプライムローン制度の崩壊、アメリカ住宅バブルの崩壊です。そして、止めが2008年のリーマン・ショックによる世界同時不況でしょうか?

2008年9月15日リーマン・ブラザーズが連邦破産法第11章の適用を連邦裁判所に申請した時点で、リーマン・ショックという言葉が誕生。。。2000年からも安住知らず・・・怒涛の波にもまれ続けます。

会社もこの10年は、リストラの波にもまれ続け、最盛期たくさんいた従業員も今は昔でしょうかね・・・次は私かとそう思う日々も多くあり・・・仕事はきつくストレス三昧の日々だったのかもしれません。。。。 

でもね。食うためにも働かざるを得ないのは事実。 会社は、会社で金融の世界の稼ぎ頭を失って、もがき苦しんで、今後、どのように体制を立て直し、どこへ、向かうのか・・・新たな食いぶちが見つかるのか、右往左往なのかもしれません。

そんな10年の期間に、私も大きく変わりました。思い返せば2004年10月後半。仕事中に、強度の心臓圧迫感があり~! 実は、この頃、タバコを吸う度に軽い心臓の圧迫感を感じていたのですが・・・ それがいきなり仕事中に起きたので、恐怖心を覚え、あわてて、休憩室に飛び込んで、会社の目の前にある大きな救急病院に直接電話をかけて、救急を受け入れられるか確認した後に、駆け足で飛び込みました。

そして、Blogのタイトルにもなっている今の病気が発覚しました。 その時の医師が言った一言「こんな数値見たことない」が、私の運命を決めたのでしょうか?その時の数値が、HbA1c16.2%でした。凄いっすね。

病気に対処するための約2週間の入院で、最初の5日間が、心臓の圧迫感を調べるための心臓へのカテーテル検査と、残りがこの病気に対処するための教育入院。この期間にインスリン注射を経験し、自分の人生を見直すターニングポイントとなりました。 

人生観がころり大きく変わりましたね。このあたりは、過去に何度も投稿しているのでパス。

タバコもスパッとやめました。偏食もスパッとやめました。時間があれば、散歩に出かけることも多くなりました。植物をこよなく愛でる私は、散歩が趣味化しました。更に、三食、きちんと食べるようになりました。

それも、当時の栄養指導通り、炭水化物60%前後で~~~!(爆)
これじゃぁねぇ~~~血糖値が暴れるわな。。。

病気への対処の転機は、糖質制限セミナーに参加したことかな。
だんだん、炭水化物が減り、今は、30~40%前後でしょうか?
それでも、HbA1cが下がらないって、どういうこと???休日と言えば「甘味処♪」が悪いのかな。

今年、病気発覚から6年目に突入しました。その間にHbA1cは、当初の「16.2%」から半年で「5.5%」まで下がり、後は、上昇基調ですが、現在は5.9%~6.2%で安定しています。 去年の試みは、SMBGをやめて、自分の感覚を信じて(磨いて)生活し、HbA1Cを安定させること。

これもほぼ達成でしょうか!今現在、大きなテーマが見つからず、精神的に緩んでしまっています。これが続くと、HbA1Cも下降線を描いていくのかな。でも、どうしようもないかも。。。とりあえず、何かテーマを持ちたいと思いつつ・・・・

あんなこんなで、今年も定期検査は年に6回(二ヶ月に1度)行く予定にしています。果たして、私は今後どう変化していくんでしょうか?でね。最近、年に何度か思い出したように考える将来の生活基盤の事。

「ねんきん特別便」(?)でしたっけ・・・改めて見ると65歳からの支給予定額に愕然としてしまいました。去年に比べ、更に減額されているし。。。

まぁね! 厚生年金基金の解散とか色々あったけど、それでも支給される金額を見るとねぇ・・・・数字なんか見たくなかったよぉ~~~!!! 

将来、左団扇の生活は脆くも崩れ去りました。

年金単独では絶対に生活できないっすよ。どないするべ。残された期間はそう長くないので、効率よい資産運用が必要かもと思うことも。夫婦二人、支給額で生活するのは、通院のこともあるし、きついっす。

と言うことで、副収入を得られるものに何かないかと、現実的に模索し始めました。

65歳以降の最低限必要な経費として、昔とは違い、携帯とインターネットにつながる世界は、将来にかけて、死ぬまで必要ですよね。特にインターネット関連PCは、ワン・サイクルが3年から5年の消耗品だからなぁ~! 金食い虫ここにありでしょうか? 

白物電化製品が20年持つとするとやはり費用はかかるよなぁ~~~!

やはり、一番の問題は、今住んでいる中古の家。築30年以上の我が家のメンテナンス。既に、2Fの居間は、ビー玉が勢い良く転がります。傾いている(隅が沈んでいる!)・・・ベランダは錆付いているし。。。外壁も・・・耐震もやらなきゃいかんし。。。この家、案外金喰い虫かも。。。。

どうも世の中、金がかかるようになっているようです。

私が小さな金融関連会社に勤めている事もあり、比較的、金融情報は入手しやすいのですが、常に付きまとうのが自己責任の原則。このご時勢、将来的に、どう変化していくか全くわからない。ちなみに現在は、不動産の競売物件の入札が人気だそうです。安く買って人に貸し、定期収入を得る。。。

問題は、減価償却ですよね。投資した分、利回りが出て、最終的に売却した場合、益となるか~~~! 

素人判断は不可能かも知れません。将来的な曲線が描けませんもん。これは、都市部では購入不可能。資金なし。狙うは実家周辺の安価な物件でしょうか?・・・

でも、得られる賃金なんて雀の涙かも・・・

さてさて、私達夫婦は今後どう行動すればよいのでしょうか? 悩みは尽きません。ただ、私達には子供がいない分、それに費やす費用が、お子さんをお持ちの皆さんに比べ、無しとなります。 その分、蓄えがあるはずなんですが、現実は・・・う~む! なんでやねん。

現在、夫婦二人が一致しているのは、いやぁ~~~!夢は大きく、心を豊かに・・・ 

住むとしたら、歩いてスーパー等に買い物にいけること。病院まで、不自由なく交通の便があること。そして、家庭菜園用の畑があること。。。これらの条件を満たすところに住みたいと。。。狙い目はやはり、実家周辺でしょうか?

実はこの条件は・・・うちの実家がぴったりやん。大きなスーパーまで歩いて10分、大きな病院まで、徒歩5分&バスで20分程度。 そして、小さな畑あり・・・・う~~む!!! やっぱり、実家か。。。

基本的に最悪、帰るところはあるようですが・・・実家に甘えたくないのも事実。元来、東京に飛び出してきたのは、親父を越えたい&自立して成功したいの2点。更に、現在は、.追加で夢は大きく、男の本懐は、持ち家を2軒持つこと~! なんちゃって・・・

あれっ!会社の話はどこかに消えたぞ・・・まっ!よいか。

でもね。一番大きな問題は、いつまで働けるか・・・
これが最大のテーマです。一ヶ月か、数ヶ月か・・・定期券を購入するたびに…考えてしまいます。7月になれば・・・また、定期券を一カ月更新する時期がきます。う~む!

休日と言えば甘味処♪に続く…

自分史Part2(1990~2000年)

2010年05月29日 22時21分06秒 | 自分史
写真:我が家の庭先から「尾長寒葵」 宮崎県の固有種なんですよね。
最近は園芸種として低価格で出回り始めましたね。

相変わらず、仕事の時間の使い方が下手なようで。。。今日は朝から会社に出勤。恵比寿界隈にたむろしてました。最近は、休日という言葉が懐かしいような気さえします。今年は、大船植物園で開かれていた「山アジサイ展」に行けなかった。。。残念っす。

今日の朝の恵比寿駅から伸びる≪スカイオーク≫朝早い時間帯のせいか、土曜日だからなのか、閑散としていました3.



≪今日の恵比寿ガーデンプレイス≫この界隈に勤め始めて10年になります。



最近は、Blogを更新する暇も無いくらいの忙しさですが、会社勤めを始めて約30年。勤めていた期間の金融界は激動の30年だったような気もしますので、備忘録として、時間の合間に、Part1に続き「自分史Part2」を投稿してみたいと思います。

時代背景

すみません。独断と偏見と偏った知識が混じっており、事実と異なる場合があると思います。その場合は事実優先ってことで。。。

1973年10月に起きた「第4次中東戦争」から始まった「第1次石油ショック」、1979年2月に起きた「イラン革命」が引き金になって起きた「第2次石油ショック」、引き続き、1980年に勃発した「イラン・イラク戦争」から1980年前半は、世界的に物価上昇を生み、高金利をかもし出し、景気後退の世界的大不況の真っ只中から泡(バブル)が空中に漂うようになりました。

そして、足元をすくうように1983年からは円高不況、それを乗り越え、1986年頃から燻っていたバブルが徐々に泡盛状態に変化・・・本格的にバブル景気が誕生、成長しました。
バブル景気真っ只中、バブルの頂点が見え始めると当然、経済とは生き物なので、頂点から向かうは、底辺のみ。そうです。冷玉爆弾が爆発するわけです。

その冷玉が、1987年10月に「米国ブラックマンデー」による金融恐慌。ここを境に下降線を辿ると思いきや、最後の力を振り絞り上昇し、1989年12月には、日経平均ダウが史上最高値の38,915.89円をつけます。

当然の結果、最後の力を振り絞ったので、体力&余力なぞあるはずもなく、以降、バブルの大崩壊に向かうわけです。1999年当たりに「ITバブル」等小さなバブルが勢力を拡大しようとするもバブル崩壊による不況は、2001年頃まで続きました。

2000年、ITバブルが崩壊し、更に、9月11日に起きた同時多発テロで、アメリカの中枢「ワールドトレードセンター」が崩壊。そして、ブラック・.マンディーを上回る株価の下落。

そして、2003年4月には日経平均株価が当時のバブル後最安値7607円をつけました。しかしながら、景気は底から徐々に立ち上がり、いざなみ景気として膨らんでいきました。このいざなみ景気は、現在の不況の根源です。

いざなみ景気がふくらんだのは、リストラです。2002年から2007年にかけて、企業が正規雇用を抑え、非正規雇用を増大させていった結果です。正規社員が48万人減少し、臨時雇用形態が281万人増え、「格差社会」や「ワーキングプア」等の言葉が誕生したんですよね。

そして、いざなみ景気が最高点に達したとき、またまた、冷やし玉が。。。
そうです。2007年のサブプライムローン制度の崩壊、アメリカ住宅バブルの崩壊です。そして、止めが2008年のリーマン・ショックによる世界同時不況でしょうか?
2008年9月15日リーマン・ブラザーズが連邦破産法第11章の適用を連邦裁判所に申請した時点で、リーマン・ショックという言葉が誕生。。。

まぁ~!こうみると、1980年代からの時代は本当に金融の世界は波乱万丈な世界でした。その中で働けるなんて・・・滅多にない経験でしょうね。

1980年代最後、前会社に入社して中堅になりかけの頃、一応、事務方のマルチな人員として、会社の一員と認められているような、いないようなパッとしない人生を送っていました。当時は、自分の求めているものと会社上部が思っていることのギャップがあまりにも大きな事に、働く意欲を失いつつありました。

やはり、ハンディー持ちって、思っていたより厄介で、頑張っても、身分が確立されていないのだなと思い悩んでいました。

会社が会社として、障害者採用割当や税金対策のためのみに私を採用したのかなと勘繰る日々。にっちもさっちもどん詰まり状態が続いておりました。。。実際に飼い殺されるのかもと・・・

そんな時、思わぬところから、わたしに、トラバーユのお声がかかったのですよ。・・・びっくりですねぇ~! 当時、京浜急行黄金町横の元の会社が借り入れたマンションに住んでいたのですが、突然、他社に転職し、働いていた元他部署の上司から黄金町駅横の小さなおすし屋さんにいるので、こないかと誘われました。

お寿司だ! わっしょい、わっしょいと喜んで向かうと、なんと実力を試してみないかと転職のお誘いでした。 その紹介先が元上司が勤めていた当時、小さな、小さな規模で、発展途上中の実力主義・成果主義が基本の今の会社です。

ハンディー者でもあり、転職の不安も大きく、本当に実力が試せるのかと、前の会社を辞める決心がつくまで、約半年近くかかりましたが、元上司は、待ってくれていました。そして、入社・・・あれから約20年かぁ~!長いようで短かったような気がします。

今勤めている会社は、男女関係なく実力主義の小さな金融機関です。TeamworkとLeadershipとResponsibilityとproactiveを兼ね備えないとやっていけません。勤め始めて3~4年は、仕事とはこういうものかと、地獄を見たのかも知れません。

なぜならば、入社後は、これまた、前にも増して、金融の世界も波乱万丈な世界真っ盛り。。。
2000年にITバブルが崩壊し、更に、9月11日に起きた同時多発テロで、アメリカの中枢「ワールドトレードセンター」の崩壊。そして、ブラックマンディーを上回る株価の下落。

そして、とどめがアメリカで起きたエンロン・ワールドコムによる不正経理。アメリカ経済に新たな激震が走り、危うくなっていく中、私は、当時、大手町にあった小さな金融機関でもまれ続けました。

その後、九段下、永代橋そばの日本橋・新川、そして、恵比寿と流れ者のように、会社の成長と共に流されつつ、私も成長していったのでした。

2000年代は、コンピューターの2000年問題から始まり、気がつくと2001~2002年にかけてのITバブルの崩壊によるアメリカ金融危機。日本では、失われた10年(バブル)を得ていざなみ景気が起こり、その後世界同時不況(サブプライムローン問題(第二次世界恐慌ともいわれる)が起きと・・・

そして、とどめがこの世の終わりとも思われたリーマン・ショック。なんとまぁ~この約30年で、金融世界の栄枯盛衰を実際に見て、経験するとは・・・えらい時代に働いているような気が・・・

実は、この金融界の栄枯盛衰は、もろに私の給与にも響いたのでした。実現益主義とはこんな事を指すのだろろうか・・・こんな激動の時代を30年近く、味わい続けるなんて、幸せなんだろうか・・・! 不幸なんだろうか・・・そんな思いがする30年でした。

私が勤める会社は、実録を認められれば、障害(ハンディー)なんて、蚊帳の外で、出世できます。私も順調に階段を登り始めましたが、いかんせん、PC打つのに1本指打法だとみんなとの競争に完全に出遅れます。

何をするにも今の時代は、スピード時代。ほとんどのスタッフは、1分間に何百という文字を打ちこみます。キーボード1本指打法では絶対にかないません。 完全に取り残され始めています。会社で求められている資質で、必要なのは、「タッチタイピング」のスピードと「実力」の両方! どちらか一方が、かけても仕事は滞ります。

スピードでは勝てません。その分を補うには、朝早くから苦手分野に取りかかる必要があります。いつの間にやら朝の7時には席につくようになっていました。かれこれ、20年近く、このスタイルかも知れません。

それでも追いつかない現実。身体はぼろぼろ状態になり、定年まで、日当たりを歩むことは不可能。実力が伴わなければ、年収は当然下降線。将来的に絶対に勤まりそうもないです。それに、今のご時勢は厳しい環境の元、人件費削除に動くだろうし・・・なんか、団塊の世代の企業戦士のような・・・そんな気がする今日この頃です。

そんな私でもなぜか出会いはありました。この会社で働いて4年目だっけか。生涯独身貴族で行くと言い張っていた当時、個人で借金を背負って、日々午前様模様で仕事をしていた頃です。当たり前のように深夜のタクシー帰りと言う時代でした。そんな働き蜂の時代でも、きっかけってあるんですね。

約一年かけて結婚にたどり着きました。彼女はカトリック、私は無宗教・・・あれから、おんぶに抱っこしてもらって、約17年かぁ~! 仕事以外の管理は全てお願いしておりますが、お手伝いはちょこまかやっています。抱えていた借金も彼女が計画返済して完済しております。本当に感謝しております。なんせ、自分は宵越しの金は残さないタイプなもんで・・・(爆) ♪  

自分史Part3に続く

天気:晴れ夕方一時小雨
気温:最低温度:13.8℃ / 最高温度:18.2℃
今日の歩数:14471歩 / 消費カロリー:461.0Kcal
歩行距離:約9.41km

自分史Part-1(1980年代)

2010年01月27日 20時38分45秒 | 自分史
写真:1月23日ヘレボルス倶楽部のミステリーツアーに参加して、
浜島園芸さんで見た「黒ダブルのクリスマスローズ」
それにしても浜島園芸さんのクリスマスローズは低価格です。近場の人は是非行ってみてください。価格に驚きました。
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今日は、久しぶりに、この時間に、お風呂に入り、自宅のPCの前に座っています。
最近の忙しさはなんだろうと思いつつ、後輩の結婚祝いのプレゼント用に入手したクリスマスローズのダブル・レッドが、ほんまもんの真紅赤で、これが個人的に捜し求めていた株なんですよ。

」目の前にあるのにお祝いで渡すのが・・・(爆)
残念ですが、お祝いにぴったりなんで、予定通り、金曜日にうちから、目的地に旅立ちます。種を取れと言明しよう。決めた!
株探しに協力頂いたN様、本当にありがとうございました。

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最近は、Blogを更新する暇も無いくらいの忙しさですが、会社勤めを始めて約30年。金融界も激動の30年だったような気もしますので、備忘録として、時間の合間に「自分史」を投稿してみたいと思います。

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1973年10月に起きた「第4次中東戦争」から始まった「第1次石油ショック」、1979年2月に起きた「イラン革命」が引き金になって起きた「第2次石油ショック」、引き続き、1980年に勃発した「イラン・イラク戦争」から1980年前半は、世界的に物価上昇を生み、高金利をかもし出し、景気後退の世界的大不況の真っ只中から泡(バブル)が空中に漂うようになりました。

バブル景気は、1987年10月に起こった「米国ブラックマンデー」による世界恐慌を経由して絶頂期から下降線を辿り、1991年に泡となり崩壊します。

そんな時代にの1980年代前半に、学校をぎりぎりの成績で卒業し、私は日本橋兜町にある小さな金融機関に滑り込みました。

ここから、私の社会人生活がスタートしました。当時、新入社員男性は無条件で独身寮へ入寮。団体生活の始まりでした。当時の独身寮は、一人部屋で4.5畳程度に押し入れ。二人部屋は6~8畳程度。朝夕2食付で寮費が月に500円程度だったような気が・・・
初任給は10万円ちょい!だったと思います。

1980年代は円高不況。政府は、内需景系拡大に取り組み、あわせて、日本銀行の金融緩和政策/低金利政策が金余り現象を生み、株価や地価も大幅に上昇、これがバブル経済を生み出しました。

証券界も右肩上がりで伸びて行き、東証の出来高が膨らみ、株券が会社の金庫から溢れ出る日々。株券と日銀券を交換するために、日々夜は株券を抱いて金庫で眠る日々。また、日中は、毎日かばんに株券を積み込み、チャリンコの前の籠に放り込み、顧客を駆け巡り、受け渡し代金である小切手類や現金を回収したりしていました。多分3年は続いたと思います。

当時はチャリンコの前の籠には何千万円分の価値がある株券やその見合いの日銀小切手を無造作に放り込んで、兜町界隈を駆け巡っている人が数多くいて、盗難等の考えはあまりありませんでした。

私生活はほとんど無く、お金を使う日も無く、会社との往復の日々でした。休日は動く気もなくバタンキュウ! でもね! 独身貴族は、自由気ままに豪遊できるのです。先輩は後輩を引き連れ、豪遊三昧。最初は金はいらなくても、年を一つ取る事に後輩が出来れば、おごるわけですよ。

連鎖の仕組みは良くできているもんで、お金は湯水のように出て行きます。当時は基本給より残業代が多いのが日常茶飯事でした。残業も200時間越えも・・・こうなるとストレスもたまり、一気に豪遊なんですよね。お金がなくなっても給与天引きのお昼の食券と寮の2食で食うに困らず。お金は連鎖で成り立つ。覆水盆に帰らず・・・良くわかりました。良い経験をさせてもらったかも・・・

こんな時代だったので、ドサクサに紛れ、猫の手も借りたい事実から、私もハンディーを背負いつつ、頑張れたのだと思います。人間形成はここで、完成したのかもしれません。チームの一員として、如何に共同作業が大切か、流れを見て、生き物のようにPriorityを変え、仕事をこなす大切さ・・・

リーダーシップを取るとはどういうことか! 1秒たりとも時間を無駄に出来ない現実。頑張れば出来るもんです。

メッセンジャーボーイと株券に翻弄され、年を王ごとに受渡業務の窓口も多様化し、経験し、知識と実践が身に付き、中堅として、何でも屋として、先頭に立ち、頑張ることは、直属の課長も十分に認めてくれるにもかかわらず、部長以上の方々はハンディー者として私を捉えるんですよね。

まぁ! どうあがいても健常者には質では勝っても量で負けるのは事実なんですけどね・・・これは悲しかったです。

1980年代後半は、自分の存在さえ認めてくれずの鳴かず飛ばずの便利屋さん状態だったのかも知れません。正直なところ、事実と異なる事を言いまくる部長や常務に嫌気が差し、会社が本当に嫌になりつつ・・・転機を迎えます。

転機は、1988年5月(6月かも?)に、寄った、京浜急行黄金町駅ガード横の小さなおすし屋さんでした。

自分史Part2(1990年代)に続く・・・

天気:晴れ
気温:最低温度:氷点下-1.5℃ / 最高温度:12.7℃
今日の歩数: 16670歩 / 消費カロリー:544.50Kcal
歩行距離:約10.84km