『晴れた日には・・・』

日々の雑感を綴ります。

魅力の尽きない「法隆寺」

2024年07月13日 | 旅行

梅原猛氏の『隠された十字架—法隆寺論』に魅せられて

夢中になって一気に読んだのは、もう半世紀も前のこと。

そして、

法隆寺を訪れたのは、

半世紀以上前の修学旅行と十数年前の娘との旅行の二回だけ。

 

南大門から中門(仁王門)を望む。後ろには五重塔。

梅原猛氏は『隠された十字架』のなかで、

いくつかの「不思議」を提示し、その不思議(謎)に対する推論を述べている。

その中で、私が大いに興味をそそられたのが、

「中門(仁王門)」の謎。

下は、大阪四天王寺の中門(仁王門)

因みに、四天王寺は聖徳太子によって593年創建された、とされ、

法隆寺は、607年の創建とされる。

 

二つの写真を比べて見てわかる通り、法隆寺の中門には「柱」が5本ある。

普通なら、四天王寺の中門のように柱は4本で、くぐる場所は「ここ」とはっきりわかるのに、

法隆寺の中門には中央に1本柱が立ち、まるで入る人を拒むかのようだ。

梅原氏は、

「法隆寺は、王権(蘇我入鹿)によって子孫(聖徳太子の子、山背大兄皇子ら親族)を抹殺された

 聖徳太子の怨霊を封じるための寺なのではないか」

入るのを拒むのではなく、怨霊を封じ込めるために中央に柱が建つ、という説を唱えた。

Wikipediaの説明では、

「中門  日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが

     この門は正面柱間が4間で、真ん中に柱が立つ点が特異である。」とある。

 

   643年(皇極年)蘇我入鹿が山背大兄皇子らを斑鳩宮にて襲い、聖徳太子の血族である上宮王家が滅亡。

   670年(天智9年)法隆寺炎上

   708年(和銅元年)詔により法隆寺を再建

 

さらに、五重塔の九輪にかけられた「鎌」

これにもまた、聖徳太子の怨霊封じ、との自論を提示しています。

 

さらに、明治初期にフェノロサによって白布を解かれ

数百年間誰も見たことがなかったという「救世観音(観音菩薩立像)」についても

光背が直接頭から打ちつけられているさまを見て

「呪詛の行為」(聖徳太子を呪う)ではないか、と主張しました。

 

 

 

猛暑の中を約2時間かけて拝観しました。

いや~、ひろいひろい!

夢殿~中宮寺も回ったので、余計時間がかかったかもしれません。

どの建造物も、どの仏像、観音様も、橘婦人、玉虫の両厨子も

本当に魅力的で、

眺めていて一向に飽きない法隆寺なのでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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