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振袖地蔵
その昔、秋田藩の殿様が参勤交代で江戸へ向う途中、この地で一人の美しい娘を見染めました。
殿様は、その後もこの娘を忘れられず、帰国の際に待女に召そうとしましたが、娘はすでに病死していました。
殿様はこれを深く悲しみ、供養のためにお地蔵様を建てたといわれています。
この地蔵様が建てられたのは、享保二十年(1735)で約2メートルの高さがあり、器量がよく、衣の袖も振袖のように刻まれているのは、娘に似せて刻ませたためであるといわれています。
なお、関宿の西はずれに坐像のお地蔵様が西(滑津宿)向きに建てられていますが、振袖地蔵と互いに向き合って立っていることから恋仲といわれ、向きを変えてもいつの間にか元に戻ると言われています。
七ヶ宿町教育委員会説明板より
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チョットピンボケで失礼!
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関の地蔵
上記の説明にあった関宿の地蔵です。この「関の地蔵」と「振袖地蔵」は共に享保年間に建立され、互いに向き合って立っています。
向きを変えてもいつの間にか元に戻るといわれています。
関の地蔵は殿様の身代わりなのかも知れません。
この場所は、旧金宝山円蔵寺(真言宗)の参道入り口でした。
御嶽蔵王権現社(現在の水分神社〔みずまりじんじゃ〕)をはじめ村内二十六の神社仏堂の別当をしていました。
しかし、明和七年(1770)より無住となり、安永年間には養源寺(旧渡瀬の西端にあった「大木山歌唱院養源寺」真言宗)が兼任していました。
現在では、弁天沼の傍らに弁財天堂が残されているだけとなっています。
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その昔、秋田藩の殿様が参勤交代で江戸へ向う途中、この地で一人の美しい娘を見染めました。
殿様は、その後もこの娘を忘れられず、帰国の際に待女に召そうとしましたが、娘はすでに病死していました。
殿様はこれを深く悲しみ、供養のためにお地蔵様を建てたといわれています。
この地蔵様が建てられたのは、享保二十年(1735)で約2メートルの高さがあり、器量がよく、衣の袖も振袖のように刻まれているのは、娘に似せて刻ませたためであるといわれています。
なお、関宿の西はずれに坐像のお地蔵様が西(滑津宿)向きに建てられていますが、振袖地蔵と互いに向き合って立っていることから恋仲といわれ、向きを変えてもいつの間にか元に戻ると言われています。
七ヶ宿町教育委員会説明板より
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チョットピンボケで失礼!
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関の地蔵
上記の説明にあった関宿の地蔵です。この「関の地蔵」と「振袖地蔵」は共に享保年間に建立され、互いに向き合って立っています。
向きを変えてもいつの間にか元に戻るといわれています。
関の地蔵は殿様の身代わりなのかも知れません。
この場所は、旧金宝山円蔵寺(真言宗)の参道入り口でした。
御嶽蔵王権現社(現在の水分神社〔みずまりじんじゃ〕)をはじめ村内二十六の神社仏堂の別当をしていました。
しかし、明和七年(1770)より無住となり、安永年間には養源寺(旧渡瀬の西端にあった「大木山歌唱院養源寺」真言宗)が兼任していました。
現在では、弁天沼の傍らに弁財天堂が残されているだけとなっています。
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この話には まだまだ 続きがありそうで・・・
娘には想いを寄せる青年が居たのだけど
秋田藩の殿様に見染められ 参勤交代の帰りには 侍女(側室?)として召されると知り
青年への想いを断ち切れず 青年に迷惑を掛けるわけにゆかないので 家族にも相談できず
悩むうちに病に倒れ亡きなってしまう。その事を知った 青年も娘に打ち明けられずにいた事を悔やみ 後を追ってしまう
その事を憐れと思った 秋田藩の殿様がお地蔵さまを建て供養してやった。 なんて
それ程の器量の持ち主ですから、きっと恋焦がれた人がいたことでしょう。
小さな村ですから、幼馴染の男の子がね。
地蔵にあたってもしょーもないのだけれど・・・
「ぽっちゃり」「ふくよか」でもって美人となるならば、バンザイしてしまう方々があちこちに・・・
無いのかも知れませんね。
其々「ツガイ」になっていますから。
いいところがあるのでしょう。