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義経終焉の地
高館 義経堂
高館は北上川に面した丘陵で、判官館(はんがんだて・ほうがんだて)とも呼ばれています。
この一帯は奥州藤原氏初代清衡公の時代から、要害地とされていました。
兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた源義経公は藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館に居館を与えられました。地元で判官館と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに由来します。
しかし、文治五年(1189)閏四月三十日、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられています。
秀衡臨終の間際に、秀衡は、子息の国衡・泰衡兄弟と義経を呼び寄せ「義経を主君となし、両人は仕えるべし」と遺言したのですが、遺命は守られませんでした。3人の起請文は反故になり、泰衡は義経の首を鎌倉に出しました。
つまり泰衡は、父秀衡から義経を守るように言われていたのですが、採算の頼朝からの脅迫に屈し義経の首を差し出したわけです。 義経さへ居なければ頼朝は平泉を攻めてこないと判断したのでしょう。
しかし、結果頼朝は攻めて来たのです。
ですから四代泰衡は尊敬されていませんね。
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ひーさん撮影中
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この義経堂は、天和三年(1683)仙台藩四代藩主伊達綱村公が義経を偲んで建てたものです。
四代綱村公は神社仏閣の修復に力を入れていたように思います。地元ではよく綱村の名をみかけます。
中には義経公の木像が安置されています。
ここからの眺望は平泉一だと思います。この流域で前九年・後三年の役の戦地でした。
この北側には北上川に合流している衣川がありますが、そこが弁慶立往生の故事でも知られる場所です。
平泉に関する記事です。弁慶の墓なんていう碑もあります。
平泉 (中尊寺・金色堂)
平 泉(毛越寺・観自在王院跡)
達谷窟毘沙門堂
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堂内に本尊として祀られているのが、木造の義経公の武者姿です。特徴は
一、頭部と兜が別作りであること
二、髻が付いていること
三、鎧の上に衣をそ装っていること
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源義経主従供養塔(宝篋印塔:ほうきょういんとう)
昭和六十一年、義経公主従最期の地であるこの高館に、藤原秀衡公、源義経公、武蔵坊弁慶
八百年の御遠忌を期して供養の為に塔を建立した。
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資料館に入ってみた。
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奥州高館合戦義経主従勇戦働之事
わずかな郎党を連れて北陸道をたどり、再び平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せた義経だが、秀衡の没後、頼朝の圧力に屈した泰衡に高館を攻められて自害した。
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「文治5年4月30日、今日、泰衡が義経を襲撃した。これは朝廷の命に依ったものであり、鎌倉殿の仰せに従ったものである。泰衡は数百騎の兵を従え、藤原基成の衣河館にいた義経と合戦に及んだ。防戦した義経の家来は全滅し、義経は持仏堂に入り妻22歳と娘4歳を殺害した後、自殺した。
前伊予守従五位下源朝臣義経 年31」
『吾妻鏡』が記す義経の最後は、さほど粉飾もなく淡々として、それゆえか一言一句に現実味が感じられる。
『義経記』などのような派手なドラマは一切存在しない。
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源義経(1159~1189)
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武蔵坊弁慶
大物浦で難破し吉野山中へと逃亡した義経の、数少ない郎党の一人として弁慶の名が『吾妻鏡』に記されており研究者の中ではその存在が認められている。
五条橋の決闘や三井寺の引き摺り鐘、安宅関の勧進帳、弁慶の立往生を史実と見ることはできない。
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常盤御前
常盤は保延4年(1138)京都生まれと想定されている。
1000人に一人の美人として13歳で九条院に仕え、16歳で源義朝に嫁し、以後7年の間に三子すなわち全成(今若)・義円(乙若)・義経(牛若)を出産した。
夫義朝が討死したのが23歳のこと、その後敵将平清盛のもとに置かれ一女をもうけ、間もなく一条大蔵卿藤原長成に再嫁する。その後もいろいろあるが割愛します。
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静御前
義経は伝説世界では好色と知られる男だが、史実として確認される義経の妻妾は、正妻の河越重頼娘、側室の平時忠娘、そして白拍子の静の三人である。
歴史上静の存在が確認できるのは、文治元年(1185)10月から翌年9月までの一年余りに過ぎない。
義経には、北行説がありますね。 確かに岩手県の各地に義経にまつわる伝説が多いです。
また青森県にも義経が北海道に渡った場所もあります。そこに行った時の記事です
厩石と義経北行伝説と義経寺/三厩
また、私はここにも行ってます。 義経公の墓
宮城県栗駒にあります。雪の中山に登りました。
詳しくは記事をみて下さい。
これが義経の墓とされています。
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記事の中にもチョットありますが、義経の影武者(身代わり)杉目太郎(小太郎)という人物の墓も金成の付近にあります。いずれ取材にいきたいと思います。
義経を京から連れて来たのが金売り吉次ですね。 これも以前記事にしています。 炭焼藤太:金売り吉次の父親
高館 義経堂
高館は北上川に面した丘陵で、判官館(はんがんだて・ほうがんだて)とも呼ばれています。
この一帯は奥州藤原氏初代清衡公の時代から、要害地とされていました。
兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた源義経公は藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館に居館を与えられました。地元で判官館と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに由来します。
しかし、文治五年(1189)閏四月三十日、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられています。
秀衡臨終の間際に、秀衡は、子息の国衡・泰衡兄弟と義経を呼び寄せ「義経を主君となし、両人は仕えるべし」と遺言したのですが、遺命は守られませんでした。3人の起請文は反故になり、泰衡は義経の首を鎌倉に出しました。
つまり泰衡は、父秀衡から義経を守るように言われていたのですが、採算の頼朝からの脅迫に屈し義経の首を差し出したわけです。 義経さへ居なければ頼朝は平泉を攻めてこないと判断したのでしょう。
しかし、結果頼朝は攻めて来たのです。
ですから四代泰衡は尊敬されていませんね。
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ひーさん撮影中
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この義経堂は、天和三年(1683)仙台藩四代藩主伊達綱村公が義経を偲んで建てたものです。
四代綱村公は神社仏閣の修復に力を入れていたように思います。地元ではよく綱村の名をみかけます。
中には義経公の木像が安置されています。
ここからの眺望は平泉一だと思います。この流域で前九年・後三年の役の戦地でした。
この北側には北上川に合流している衣川がありますが、そこが弁慶立往生の故事でも知られる場所です。
平泉に関する記事です。弁慶の墓なんていう碑もあります。
平泉 (中尊寺・金色堂)
平 泉(毛越寺・観自在王院跡)
達谷窟毘沙門堂
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堂内に本尊として祀られているのが、木造の義経公の武者姿です。特徴は
一、頭部と兜が別作りであること
二、髻が付いていること
三、鎧の上に衣をそ装っていること
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源義経主従供養塔(宝篋印塔:ほうきょういんとう)
昭和六十一年、義経公主従最期の地であるこの高館に、藤原秀衡公、源義経公、武蔵坊弁慶
八百年の御遠忌を期して供養の為に塔を建立した。
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資料館に入ってみた。
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奥州高館合戦義経主従勇戦働之事
わずかな郎党を連れて北陸道をたどり、再び平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せた義経だが、秀衡の没後、頼朝の圧力に屈した泰衡に高館を攻められて自害した。
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前伊予守従五位下源朝臣義経 年31」
『吾妻鏡』が記す義経の最後は、さほど粉飾もなく淡々として、それゆえか一言一句に現実味が感じられる。
『義経記』などのような派手なドラマは一切存在しない。
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源義経(1159~1189)
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武蔵坊弁慶
大物浦で難破し吉野山中へと逃亡した義経の、数少ない郎党の一人として弁慶の名が『吾妻鏡』に記されており研究者の中ではその存在が認められている。
五条橋の決闘や三井寺の引き摺り鐘、安宅関の勧進帳、弁慶の立往生を史実と見ることはできない。
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常盤御前
常盤は保延4年(1138)京都生まれと想定されている。
1000人に一人の美人として13歳で九条院に仕え、16歳で源義朝に嫁し、以後7年の間に三子すなわち全成(今若)・義円(乙若)・義経(牛若)を出産した。
夫義朝が討死したのが23歳のこと、その後敵将平清盛のもとに置かれ一女をもうけ、間もなく一条大蔵卿藤原長成に再嫁する。その後もいろいろあるが割愛します。
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静御前
義経は伝説世界では好色と知られる男だが、史実として確認される義経の妻妾は、正妻の河越重頼娘、側室の平時忠娘、そして白拍子の静の三人である。
歴史上静の存在が確認できるのは、文治元年(1185)10月から翌年9月までの一年余りに過ぎない。
義経には、北行説がありますね。 確かに岩手県の各地に義経にまつわる伝説が多いです。
また青森県にも義経が北海道に渡った場所もあります。そこに行った時の記事です
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また、私はここにも行ってます。 義経公の墓
宮城県栗駒にあります。雪の中山に登りました。
詳しくは記事をみて下さい。
これが義経の墓とされています。
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記事の中にもチョットありますが、義経の影武者(身代わり)杉目太郎(小太郎)という人物の墓も金成の付近にあります。いずれ取材にいきたいと思います。
義経を京から連れて来たのが金売り吉次ですね。 これも以前記事にしています。 炭焼藤太:金売り吉次の父親
正しくは北上川でしたかぁ
勉強勉強
常磐御前で思い出した川柳
♪義経は 母をされたで 娘をし♪
失礼しましたぁ <(_ _)>
実際に戦いがあったのはちょと北にある衣川付近のようです。弁慶の立往生と言われる場所も衣川付近です。
この川柳・・意味ありげ・・・