前記事の「旧盛岡銀行」や「新渡戸稲造誕生の地」の界隈にあるここ下ノ橋の袂にこんな碑がありました。
ということで、すぐ下の駐車場にある井戸を見に行きました。
宮沢賢治ゆかりの地
宮沢賢治(明治29年(1896)~昭和8年(1933))は、岩手県稗貫郡里川口(現花巻市)で生まれた。
盛岡中学校(現盛岡一高)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)時代の多感な青春時代を盛岡で過ごしている。
大正6年(1917)、賢治が高等農林3年生の時、盛岡中学校に入学することになった弟とともに下の橋のたもとの玉井家に下宿した。
今では当時をしのぶ井戸だけが残されている。
下の橋は、南部氏が盛岡に城を築き、城下町をつくったとき、河南地区を結ぶ重要なはしとしてつくられ、欄干には歴史を感じさせる擬宝珠がついている。 かつては、この橋が、盛岡の初夏の風物詩チャグチャグ馬コの馬が渡る道筋で、賢治の方言短歌にも歌われている。
ちゃんがちゃがうまこ 四首 大正6年
夜明げには
まだ間あるのに
下のはし
ちゃんがちゃがうまこ見さ出はたひと
ほんのぴゃこ
よあげががった雲のいろ
ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て来る
いしょけめに
ちゃがちゃがうまこはせでげば
屋明げの為が
泣くだぁぃよな気もす
下のはし
ちゃがちゃがうまこ見さ出はた
みんなのながさ
おどともまざり
ということで、すぐ下の駐車場にある井戸を見に行きました。
宮沢賢治ゆかりの地
宮沢賢治(明治29年(1896)~昭和8年(1933))は、岩手県稗貫郡里川口(現花巻市)で生まれた。
盛岡中学校(現盛岡一高)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)時代の多感な青春時代を盛岡で過ごしている。
大正6年(1917)、賢治が高等農林3年生の時、盛岡中学校に入学することになった弟とともに下の橋のたもとの玉井家に下宿した。
今では当時をしのぶ井戸だけが残されている。
下の橋は、南部氏が盛岡に城を築き、城下町をつくったとき、河南地区を結ぶ重要なはしとしてつくられ、欄干には歴史を感じさせる擬宝珠がついている。 かつては、この橋が、盛岡の初夏の風物詩チャグチャグ馬コの馬が渡る道筋で、賢治の方言短歌にも歌われている。
ちゃんがちゃがうまこ 四首 大正6年
夜明げには
まだ間あるのに
下のはし
ちゃんがちゃがうまこ見さ出はたひと
ほんのぴゃこ
よあげががった雲のいろ
ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て来る
いしょけめに
ちゃがちゃがうまこはせでげば
屋明げの為が
泣くだぁぃよな気もす
下のはし
ちゃがちゃがうまこ見さ出はた
みんなのながさ
おどともまざり
GW中に取りかかるかな♪
詳しい事が書いてあるでしょうね。
ただ賢治の「なまり」があーさんに解読できるかですね。
方言でそのまま書いてありますからね。
好きな作家さんでイーハトブに憧れ 小学生の息子連れて
宮沢賢治が泊まった宿ってところで でかい混浴の露天風呂入ろうとして
男の人が入っているから止めてくれと息子に怒られたくすぐったい思いを思い出しました。
想い出があるということは、いいことです。