HP多賀城の資料です。
特別史跡
多賀城廃寺跡
地元では、高崎地区にあることから高崎廃寺とも言われています。
写真を見てわかるように広々としており、子供達が走りまわり、また弁当を広げて花見をする親子の姿も見受けられる。
私も高校の頃、誰も居ないこの廃寺で大きな声で歌ったり、空手の道着を着て練習をしたり、子供を連れてきて散歩をしたものです。
それでは、ここは何の跡地だったのか、ご説明したいと思います。
多賀城は、奈良時代に陸奥国の国府として造営され、それ以後中世まで国府が置かれた遺跡である。
多賀城の名が文献に初めて登場するのは、「続日本紀」の宝亀十一年(780年)の記事であるが天平九年(737年)の記事には「多賀柵」の名が見える。
また、奈良時代のはじめの頃「鎮所」「陸奥鎮所」の名が度々史料に登場していることなどから、多賀城は奈良時代には国府とともに鎮守府も置かれ政治的、軍事的中心地となっていたものと思われる。
多賀城は延暦二十一年(802年)鎮守府が胆沢城(岩手県水沢市)の造営によって移されてから後も陸奥国府として、また前九年(1051~1062)、後三年(1083~1087)の奥州の乱においては、源頼義、義家の治所、文治五年(1189年)の源頼朝の奥州藤原氏討伐の際の滞在所、さらには南北朝の際の義良親王、北畠顕家の治所等として、史上にその名をとどめている。
つまり、多賀城の附属寺院として建立されたもので、国家の安定と東北地方の順調な経営を願ったといわれてる。
建物の配置は、東に三重塔、西に金堂が互いに向かい合い、中央部南には門があり、中央部北には、講堂がある。
また南の門の左右から築地がつくられ、塔、金堂を囲んで北の講堂の左右に取り付いている。
廃寺跡からは多賀城と同じ創建瓦や九世紀後半の瓦と同笵のものも出土し十世紀中頃の土器も見つかっている。
このような伽藍配置は福岡県大宰府の観世音寺とよく似た建物である。
昭和四十一年四月、多賀城跡とともに国の特別史跡に指定されている。 寺院名もわからず廃寺とはちょっとかわいそうですね。 廃寺=すたれた寺、僧侶のいない寺を指します。 国府の付属寺院でありながら、この呼び名は・・・・ 実は発掘された土器の中に「観音寺」の文字が発見され、大宰府が観世音寺であることから「観音寺」ではないかと推定されます。 後に隣接する神社は多賀神社です。 政庁横にも多賀神社がありますが、この二つの関係はまだ調べていません。 多賀城の史跡マップ 中心部
多賀城廃寺跡
地元では、高崎地区にあることから高崎廃寺とも言われています。
写真を見てわかるように広々としており、子供達が走りまわり、また弁当を広げて花見をする親子の姿も見受けられる。
私も高校の頃、誰も居ないこの廃寺で大きな声で歌ったり、空手の道着を着て練習をしたり、子供を連れてきて散歩をしたものです。
それでは、ここは何の跡地だったのか、ご説明したいと思います。
多賀城は、奈良時代に陸奥国の国府として造営され、それ以後中世まで国府が置かれた遺跡である。
多賀城の名が文献に初めて登場するのは、「続日本紀」の宝亀十一年(780年)の記事であるが天平九年(737年)の記事には「多賀柵」の名が見える。
また、奈良時代のはじめの頃「鎮所」「陸奥鎮所」の名が度々史料に登場していることなどから、多賀城は奈良時代には国府とともに鎮守府も置かれ政治的、軍事的中心地となっていたものと思われる。
多賀城は延暦二十一年(802年)鎮守府が胆沢城(岩手県水沢市)の造営によって移されてから後も陸奥国府として、また前九年(1051~1062)、後三年(1083~1087)の奥州の乱においては、源頼義、義家の治所、文治五年(1189年)の源頼朝の奥州藤原氏討伐の際の滞在所、さらには南北朝の際の義良親王、北畠顕家の治所等として、史上にその名をとどめている。
つまり、多賀城の附属寺院として建立されたもので、国家の安定と東北地方の順調な経営を願ったといわれてる。
建物の配置は、東に三重塔、西に金堂が互いに向かい合い、中央部南には門があり、中央部北には、講堂がある。
また南の門の左右から築地がつくられ、塔、金堂を囲んで北の講堂の左右に取り付いている。
廃寺跡からは多賀城と同じ創建瓦や九世紀後半の瓦と同笵のものも出土し十世紀中頃の土器も見つかっている。
このような伽藍配置は福岡県大宰府の観世音寺とよく似た建物である。
昭和四十一年四月、多賀城跡とともに国の特別史跡に指定されている。 寺院名もわからず廃寺とはちょっとかわいそうですね。 廃寺=すたれた寺、僧侶のいない寺を指します。 国府の付属寺院でありながら、この呼び名は・・・・ 実は発掘された土器の中に「観音寺」の文字が発見され、大宰府が観世音寺であることから「観音寺」ではないかと推定されます。 後に隣接する神社は多賀神社です。 政庁横にも多賀神社がありますが、この二つの関係はまだ調べていません。 多賀城の史跡マップ 中心部
多謝多謝!!
古い本ですからね。
嬉しいです。
松江と多賀城・・・どんな関係?
よかったら 古い本だけど、送りますヨ
わかったら教えて下さい。
政庁の南門もありますが、もしや政庁跡?
政庁の外郭南門と言うのが
壺の碑の脇にありますが、政庁の周りは、まだ発掘中ですからね。
奈良・平安時代の様子を見たいものです。
大宰府と同じですね。
多賀城は蝦夷の平定に・・・
大宰府は熊襲の平定ですね。
この辺では、あそこが「どんと祭」の会場になります。
地元密着の小さな社ですね。
狛犬は居ないので宝くじでも当たったら寄贈したいと考えています。
問題は当たるかどうかですが?
面白そうですね。タイトルなんか覚えていませんか?
覚えていたら教えてください。
会報他がやはり父の書斎にあります。まだ全容を紐解いたわけではございませんが、現在調査中の部分を含めて整理したいと考えております。南門についてその位置がまだ正確にわかってなかったかと・・・。
すみません勉強不足です。
そこにあったお寺、かなり大規模なものだったことでしょうね。
桜の花も綺麗です。
当然小学生では価値が十分には理解できず、「なんにもねえ」で終わってしまいました。
大河ドラマ「炎立つ」を思い出しました。
全国的には少々マイナーな多賀城を良くぞ扱ってくれたと、鳥肌モノで観ていました。
史跡マップの右端(切れかかっていますが)に仁和多利(にわたり)神社が見えます。
小高い山の上にあり、私の幼少期のベース基地でした。
まだ発掘整備されていなかったころで、草はらのところどころに小山がある感じだったね~
んで、その頃は多賀神社が廃寺の中に鎮座してだんだでば!
たしか一番小高いとこだったと思うので、塔跡の上だったんでねぇべが?
何年かして小学校高学年の頃行ってみたら、すっかり整備されててたまげでしまったのっしゃぁ~
外しますが、先日読んだミステリーに
多賀城市 が出てきてナニゲニ嬉しかったww